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私たちに古文は本当に必要なのか、歴史を通じて本気で考えてみた|前田雅之

 古文なんて学ぶ意味があるのか? 誰もが高校生のときに一度は口にしたことのある疑問かもしれません。効率や実利が重視される時代、「受験科目に古文はいらない」「もっと社会に出てから役に立つ勉強を」という声は近年ますます大きくなっている感があります。
 しかし、実は古典批判は最近に始まった話ではなく、近代日本の始まりとともにあった――と本書『古典と日本人』著者の前田雅之先生は書きます。そもそも、「古典」とはいったい何を指しているのか? この大きな問いを秘めつつ、前田先生は本書のなかで、「古典の日本史」とも言うべき日本における「古典」の成立から衰退の歴史までをたどりながら思考をめぐらせていきます。
 果たして、私たちは古文や漢文といった古典を学ぶ必要があるのか? 発売を機に、以下に序章の一部を抜粋して公開します。ぜひご一読ください。

他者としての古典

 古典を学ぶ価値や意味はあるのか?

 その答えはおそらくこういうものだろう。世間を生きる大部分の人たちにとって、古典(古文・漢文)とは訳の分からないもの、少しまじめな人でも、中間期末試験に際して、現代語訳を覚えるもの、あるいは、「へ・へ・ふ・ふる・ふれ・へよ」と活用する下二段活用のような意味不明の活用を覚えなくてはならないもの、といった苦痛の記憶として認識されているのではあるまいか。とりわけ、暗記物といわれる歴史(日本史・世界史、言うまでもないが、歴史は暗記物ではない)と並ぶ古文・漢文を苦手とする割合が高い理系の人たちにとって、古典は~不倶戴天ふぐたいてんの、あるいは、抹殺したい敵であったに違いない(故に東大入試に古典が出題されるのは立派である)。そうでない文系の人たちにとっては、ほぼ大学入試(含「共通テスト」)には出題されるので、やむを得ず、諦めて、最低限の範囲で勉強したというケースが結構な比率に上るだろう。

 その一方で、文化、中でも芸能・サブカルチャーとしての古典は、演劇(宝塚歌劇や歌舞伎における『源氏物語』を素材とした劇・ミュージカル)、映画・アニメ・漫画さらにゲームと色とりどりのコンテンツが用意されており、こちらは古文・漢文読解力がほぼ不要なので、何も知らなくても一応は作品を理解し、享受できるようになっている。せいぜい出てくる原文は、NHK大河ドラマ『平清盛』(二〇一二)において何度もしつこく詠唱された「遊びやせんとや生まれけむ」(『梁塵秘抄りょうじんひしょう』)くらいのものだろう。こうして、古典なるものの世界に入る満足感を得られるのである。

 一例を挙げれば、『源氏物語』の漫画版である大和和紀やまとわき『あさきゆめみし』(頭中将とうのちゅうじょうが銀髪であるのを除いて傑作である)が流行っていた頃、女子高校生たちが「あたし、明石って、嫌い」などとよく電車で言い合っていたものだ。彼女たちは、おそらく『源氏物語』を教科書に載っている箇所以外を原文(=古文)で読んだことなどはない。しかし、それなりに内容を把握し、鑑賞し、批評もできるのである。とはいえ、このような享受は、言うまでもなく、サブカルチャー、言い換えれば、娯楽・消費・商品の対象としての古典である。これで十分だろう、だから古典教育はいらないという意見も聞こえてくるが、古典の付加価値および商品価値については、第六章を参照されたい。

 要するに、古典を学んだことを喜びとする人たちは、現在の日本に住む人間の中でウルトラ・マイナーであり、メジャーの人々は国語科目で大学入試に出題されるから、やむなく学んでいるに過ぎないのだ。ちなみに、私の卒業した地方進学校から国文学科に進んだ生徒はその学年で私だけであった。文学部系に進んだのは五~六人くらいはいたが、私以外は当時の主流あるいは花形だった英文学・仏文学あたりに進んだ。その他の生徒(だいたい二三〇人程度)は、おおむね医学部・工学部・法学部・経済学部といった将来役に立つ学部に進んだ(理系学部において文学部系に近いタイプ、即ち、役立たず学問は理学部ではあるまいか。こちらも少数派であった)。

 そこから推察されるように、メジャーの面々は大学入学後、古典なるものと接することは一般教養科目で古典を選ばない限りほぼなく、自分と無関係な存在として別段意識もせず人生の大半を過ごしたはずであり、仮に現在の彼ら彼女らに古典教育は必要かと改めて尋ねたら、高校時代の古文・漢文の授業を思い出して、渋面じゅうめんを作りながら、いらないと即答するに違いなかろう。ましてや一般社会に生き、日々の生活に汲々としている圧倒的多数の人たちにとって、古典など別の世界の訳の分からないものとして見向きもされないに違いない。

古典教育批判の始原

 そこで、古典教育に関する批判の始原と現在をざっとながめておきたい。
 
 古くは明治の二〇年代(一八九〇年代)から今日に至るまで、古文・漢文といった古典を学校で学ぶことは無意味である、もっと言えば、生徒にとって有害であり、時間と努力の無駄であるという批判は繰り返し唱えられていた。古典教育に対する批判は近年に始まったものではない。実のところ、近代日本の事実上の始まりと言ってよい、大日本帝国憲法公布・皇室典範裁定(一八八九)、教育勅語発布(一八九〇)といった近代国家の枠組みや制度が確立してくる時期――それは学校教育制度が整備されたり、国文学なる学問が成立したりする時期(一八九〇)でもあったのだが――に照準を合わせるように、早くも古典教育批判は始まっていたのである。こうした史実は、これまであまり知られていないけれども、本書の議論の行方などを考える上でも、最初に確認しておいた方がよい。簡単に言えば、近代日本は一貫して古典に冷たかったのだ。

 とはいえ、古典教育不要の理由は、明治期と今日とでは大きく異なっている。明治期の不要理由は、他のアジア諸国のように欧米に植民地化されるという恐怖が前提としてあり、国家の近代化(=文明開化・富国強兵)へと急いでいた当時の日本にとって、古典(古文・漢文)なるものは近代化の邪魔でしかないというのが不要派トップにいた井上毅いのうえこわし(一八四四~一八九五)の文部大臣在任時(一八九三~一八九四)の信念であった。

井上毅(1843~1895)

 井上は、若い頃、大久保利通(一八三〇~一八七八)の随員として清国に渡り、李鴻章りこうしょうを感激させるくらいの漢文に関する知と作文能力をもち、さしてうまくはないものの和歌も詠む。一八歳まで宋学(=朱子学)の学徒だったことから分かるように、儒学・漢学をベースにした近世の正統派知識人であった。その後、熊本藩の意向でフランス学(法学)に転向したとはいえ、儒学・漢学を自己の知的エートスとしていた井上が文部大臣としては断固古文・漢文廃止論を表明したのである。なぜか? 井上の唱えた廃止論については第六章で詳述するが、結論から言えば、近代=西欧と捉えていた当時にあって、古典の文章は、およそ「西欧的論理」=近代的論理に乗らない旧時代の代物であって、こんなものにかかずらっていると、日本は永遠に欧米列強から取り残されて、植民地になってしまうといった、それなりに切実な危機感があったからだと思われる。
 実際に、古典を尊び、古典教養人=士大夫したいふ(=文人官僚)が国や社会の中枢を占めていた清朝(中国)は半植民地となった後、辛亥しんがい革命で倒れ、やはり科挙を行っていた朝鮮は紆余曲折うよきょくせつの末日本に併合されたのである。井上の危機感が隣国で現実化したのであった。日本が古典を捨てて、法学・工学・憲法・議会といった西欧知=近代知を導入して近代化に成功したことは言うまでもない。

古典教育批判の現在

 他方、現代でよく主唱される古典(古文・漢文)教育不要論は、近代化促進のためではむろんない。既に日本は十二分に近代化されている。それではどういう理由か? おそらく大きく二つに分けられるだろう。第一には、現代生活に役に立たないといった素朴な不要論である。これは明治以降ずっと存在し、戦後に顕著になったものと思われる。第二には、バブル崩壊後、世界の一等国だった日本が、失われた二〇年あるいは三〇年と指摘されるように、一向に上向きにならない国力停滞の原因の一つとして、教育のありようや改革が議論されてきた。その過程で大学から教養課程がなくなったことが典型であるように(除東京大学・東京医科歯科大学)、役に立つ教育という名の反教養主義、言い換えれば、実利主義的観点から古典教育不要論が新たに浮上してきたのである。現在はこちらの実利主義的な古典教育不要論が最大の不要派勢力であろう。こちらは主として、工学などの理系の人たちのみならず、金融教育が大事だなどと主張している社会科学系の人たちも主唱していると想像される。

 古典を教育したところで、国力が停滞することはあるまいと思うけれども、古典を教えるくらいなら、もっと役に立つものを教えればよいのだというのが不要派の最大公約数的主張である。彼らにはどうやら自分たちは古典・古典語をもっている国の住人だという自覚も一切ないようである。


※つづきはぜひ書籍でお楽しみください。サブタイトルに掲げた「古典的公共圏」とは何かということも、やがて明らかになっていきます。

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目次

著者略歴

前田雅之(まえだまさゆき)
1954年、山口県生まれ。明星大学人文学部日本文化学科教授。早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門は古典学、中世文学、日本思想史。著書に、『記憶の帝国 【終わった時代】の古典論』(右文書院)、『書物と権力 中世文化の政治学』(吉川弘文館)、『保田與重郎 近代・古典・日本』(勉誠出版)、『古典的思考』(笠間書院)、『なぜ古典を勉強するのか』(文学通信)、ほか。編著書に、『画期としての室町 政事・宗教・古典学』(勉誠出版)などがある。

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