「日本一の頭脳」たちはどこから集うのか|小林哲夫
東大=日本一の大学
政治家、官僚、一部上場企業の社長、最先端分野の研究者などには、東京大学出身者がズラリと並ぶ。なるほど、東大は日本の社会を担ってきた側面がある。かつて役所や自治体の統合再編が進んでも、NTTや国鉄の分割民営化が行われても、東大は安泰だった。国立大学は法人化で経営戦略を立てなければならなくなっても、競争的資金獲得など予算配分や、人的資源は東大に一極集中しており、ブランド力を十分に発揮している。
こうして国内では盤石に見える東京大学には、たくさんの学生を送り込んでいる高校がある。本書では東大合格校と呼ぶ。地元ではだれもが知っており、尊敬、憧憬、羨望、場合によっては嫉妬の対象となっている。東大に負けないほどブランド力、社会的影響力がある。
戦後の新制高校スタートから年を追って東大合格校の盛衰を調べてみた。公立高校入試制度の改革で東大合格校はどう変わったのか。公立と私立の力関係はどうなっているのか。都道府県によって合格実績の差が生じているのはなぜか。中高一貫校の増加によって受験地図は塗り替えられつつあるのか。このようなテーマを検証することによって、本書では、大学受験という観点から戦後の高校史を概観してみた。
公立高校の栄枯盛衰
たとえば、公立高校はその時代の社会的風潮によって翻弄された姿が見てとれる。
50年代の小学区制、60~70年代の学校間格差解消を旗印とした学校群制、総合選抜、通学区の細分化によって合格実績を大幅に落とした名門校は少なくない。「受験戦争」とメディアが喧伝するなか、特別な受験指導をしない。それが公立の美徳という考え方があった。「予備校化」というレッテル貼りを恐れたのである。ただし、これには地域差はあった。厳しい受験指導を課している名門校を守ったり、自治体の進学校づくり政策を担う高校を作ったりして、多くの東大合格者を輩出した新興校もある。
90~00年代、高校入試の学区撤廃あるいは大学区制が進み、中高一貫校が設立され、進学重点化構想が立てられる。マニフェストで東大合格者数の目標値を掲げて、大学受験を競い合う風潮は歓迎されるところとなった。「公立から東大合格を増やそう」という機運が高まり進学校に予算をつける自治体もある。格差問題が取り沙汰される割には「学校間格差」の解消を主張する意見も、「受験戦争」を批判する声もあまり聞かれない。
大学受験に特化することを避けた60年代から、東大などの難関大学を志向する00年代以降へ。公立高校の教育方針は正反対の方向に進んだ。しかも両年代ともに、教育委員会のお達しで各校徒党を組んで右へならえ、という具合である。
こうした公立高校の迷走に機を見て進学校化した私立や国立、そしてその躍進に慌てふためいて巻き返しを狙う公立という図式が、一部の地域で見られた。
日比谷の時代、開成の時代
東大入試が始まってからまもなく75年を迎える。東大合格高校について4分の3世紀をふり返ると、最初の25年、60年代後半までは公立が優位で、上位30校のなかで7割を占めていた。70年代から今日にいたる50年あまりは私立や国立が強く、9割以上のシェアを誇ることはめずらしくない。まして、東大合格者数で1位になるのは、公立では現状、限りなく不可能に近い。それは以下に示した東大合格高校1位校の推移を見ても明らかだ。
60年代は日比谷、70年代は灘、開成、東京教育大附属、東京教育大附属駒場が首位を分け合い、80年代以降は開成の独壇場になっている。
日比谷がトップを邁進していたころ、同校に入るためのエリートコースが確立していた。代表的なものが日比谷に近い千代田区立番町小学校、同・麹町中学校からの進学である。当時、教育熱心な保護者がわが子を東大へ行かせるため、千葉や神奈川などの県外から住民票を移して番町小や麹町中に越境入学させるケースがあった。こんな受験狂騒曲の舞台は、67年の都立高校学校群制度導入で幕を閉じる。
日比谷が1位だった時代の東大合格者の同校出身者は、のちに政官財と学者の世界で功成り名を遂げた人たちが多い。中央省庁では多数派を占め、社長も少なくない。政治家もそれなりに活躍した。学者や文化人も多くノーベル賞学者も出した。そんな東大1位校時代の日比谷OB・OGは70代を迎え、社会の第一線から退きつつある。
70年代、越境入学にとって代わったのが、私立国立中高一貫校合格のための中学受験進学塾の興隆である。たとえば開成中学や筑波大学附属駒場中学に入るため日本進学教室、四谷大塚、日能研、TAP、桐杏学園、SAPIX、早稲田アカデミーなど、灘中学や東大寺学園中学に入るため入江塾、浜学園、希学園、馬渕教室、能開センター、英進館などだ。このなかには閉鎖、吸収合併したところもあり、東大合格校の歴史は中学受験塾の盛衰史にもつながっていく。
77年、開成が初めて1位になった。この年、東大に受からなかった開成出身者のなかに岸田文雄総理大臣がいる。開成は22年まで東大合格1位43回を数え、82年からは40年連続でトップを守っている。現在、開成出身者は永田町、霞が関では大きな勢力になっているようだ。自民党国会議員によれば、開成OBの国会議員は9人、官僚(国家公務員)は15省庁で600人にのぼり、事務次官クラスが10人近くいるという。なるほど、82年以降、東大1位校として途切れることなく開成の名前が続くだけのことはある。とくに官僚は20代から50代まで万遍なくいるということだろう。
日本一東大に近い高校はどこなのか
ただ、開成は数の力でモノを言わせている側面はある。開成は一学年約400人、灘は約220人、筑波大学附属駒場は約160人なので、合格者数では有利になる。22年、東大現役進学率(現役卒業生のなかで東大進学者が占める割合)は筑駒40・8%、開成33・8%となっており、東大にいちばん近い大学は開成よりも筑駒であろう。
数の力という点では、これまで東大1位校=開成の牙城を崩そうとした学校がいくつかあった。1つは90年代の桐蔭学園だ。当時、一学年約1600人のマンモス校にあって東大合格者を100人以上出し、東京工業大、東京医科歯科大、一橋大にもかなりの合格者を出していた。もう1つは10年代以降の渋谷教育学園幕張、西大和学園である。一学年それぞれ350人、370人程度で東大合格者を70人以上出している。いずれも共学なので、女子合格者が増えれば、男子校の開成は分が悪くなる。
東大合格高校についての個別の見方はこのぐらいにしておこう。なるほど、さまざまな観点から東大合格校を見ることができる。そこには国や自治体の教育政策、私立学校の経営方針、地域特有の事情など、さまざまな要因を見て取ることができる。
注目する高校(多くは母校)の東大合格者が増えた、減ったと一喜一憂されることだろう。まずは、それでいいと思う。東大合格校の変遷から、教育のあり方としてなにが問われているかが、浮かび上がってくる。本書を材料に、高校教育、入試制度、公立と私立、塾と予備校、中高一貫校、保護者の教育観、格差問題、そして東大の存在意義などについて議論していただければ幸いである。