見出し画像

『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史

光文社新書編集部の三宅です。

皆さんは「メタバース」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「インターネットの次にやってくる」とも言われ、ビジネス界を中心に大きな注目を集めている「何か」です。

ウィキペディアには以下のような定義が載っています。

SF作家・ニール・スティーヴンスンによる1992年の著作『スノウ・クラッシュ』の作中で登場するインターネット上の仮想世界のこと。転じて、将来におけるインターネット環境が到達するであろうコンセプトモデルや、仮想空間サービスの通称としても用いられる。

こう言われても、具体的なイメージが湧かないですよね。

本連載では、ITに関するわかりやすい解説に定評のある岡嶋裕史さんに、「メタバース」とは何ぞや、ということを語っていただきます。

「メタバース」は第四次産業革命に匹敵する変革を我々の日常にもたらすのか? はたまた、ただのバズワードで終わるのか? 岡嶋さんの論考を基に考えていきましょう。

※上は岡嶋さんの光文社新書最新刊に関する記事です。

プロローグ メタバースとは何か?

仮想現実と疑似現実

 メタバースが盛り上がったり、盛り下がったりしている。

 IT業界特有のバズワードではある。そして、バズワードならばハイプサイクル(技術の成熟度、採用度、社会への適用度の推移)に晒されるのが当たり前で、毀誉褒貶のジェットコースターに嫌でも乗っけられるものなのだ。

 だが、それを差し引いても、メタバースの受け止められ方は人によって非常に異なる。なぜだろうか?

 メタバースは、まだ辞書には載っていない言葉だが、辞書的な定義を書けば「サイバー空間における仮想世界」になるだろう。「サイバー空間」がわかりにくければ、そこを「インターネット」と読み替えてしまってもいいと思う。

「インターネットにおける仮想世界」 

 いまいち、ピンとこない表現である。インターネットそのものが仮想世界だと思われていることもあり、屋上屋を架す印象がある。

 ここで言う「仮想世界」をどう捉えるかで、メタバースの印象は180度違ったものになるだろう。

 まっとうな人の場合この仮想世界を、仮想現実(Virtual Reality:VR)と脳内変換することが多い。VRヘッドセットをかぶって、ポリゴンで形作られた世界に入る。そこが現実を模した空間であれば、確かに仮想の現実である。ソードアート・オンラインや、レディ・プレイヤー1で示された世界である。

 ただし、これらのイメージは、世界的なスタンダードとは言えなかった。というのも、一般的にはVirtual Realityは現実を志向するものだからである。日本語の訳としては、ひょっとしたら疑似現実がいいのかもしれない。

 だから、欧米のVR研究者・技術者たちは、VRで何かコンテンツを作ろうとするとき、まずは現実を模すことを考えてきた。VRヘッドセットの中で起きる体験にしても、できるだけ現実に近づけるのである。

 日本で身近に体験できるところでは、凸版印刷のVRシステムがこれに近いかもしれない。

 展示会などでトッパンVRに触れると、「あれっ?」と思う。VRってヘッドセットをかぶって体験するものではないのか?

 もちろんそれもVRのあり方の一つだが、「現実に近づける」「疑似現実」という意味では、常軌を逸したほど解像度を上げることでも現実に近づくことができる。凸版印刷のVRの方針はまさにそうだ。

 ヘッドセットをかぶって3Dを感じさせたり、触覚や聴覚に訴えかけるのではなく、単に目に見える情報の質と量を向上させるのである。印刷や映像の域を超えて現実に近づいたそれは、確かに疑似現実の名にふさわしい。だから、彼らの技術はよくあるエンターテイメントではなく、文化財の保存などに使われている。

アイドルはなぜグループ化したか?

 別の話をしよう。

 アイドルはグループで売り出すものになった。いや、たとえば今の大学生にこんな言い方では伝わらないかもしれない。彼らにとってはアイドル=グループだからだ。

 でも、過去においては、アイドルの主力商品は単体ものだった。アイドルはまず何よりも個人として売り出されていた。それがいつの間にか、グループで売るものに切り替わったのだ。

 この現象をひもとくよくある説明は、「社会の多様化が進んだから」だ。以前、人々の価値観は今の比べて一様だった。人生観やジェンダー観に広がりがなかった。当然、異性の好み、理想の異性像といったものも、狭いレンジに収まっていた。

 その状態であれば、一人の人間が理想としての異性像を引き受けて、演じることもできた。しかし、時代が下って人々の価値観がほどけてくると、「みんな違ってみんないい」の社会になった。

 こうした社会では、異性への要求も多様になる。いや、そもそも恋愛対象は異性でなくてもいいとか、人間でなくてもいいといった発想すら受け入れられる。そうすると、1人の人間がこれらを引き受けるのは無理だ。

 だからグループ化することによって、「これだけたくさん人がいれば、誰かは好きでしょ?」という売り方にする。これが一般的に受け入れられている解読である。

 この考え方も間違ってはいないと思うのだが、アイドルを構成する要素の一部分しか説明していない。あれは商品であるから、どうマネタイズできるかがとても重要なのだ。

 だから、「アイドルがなぜグループ化したか?」の解答には、「情報技術が進歩したから」を追加すべきだ。

コト消費はコピーされにくい

 アイドルは儲からなくなった。彼ら/彼女らの主力商品は間違いなく楽曲販売である。洗練された情報技術が、楽曲をコピーするコストをほぼゼロにまで押し下げ、しかも劣化しないコピーまで編み出した。

 昭和の時代だって、楽曲をコピーする技術はあった。端的なところではカセットテープである。しかし、LPレコードやCDをカセットテープにコピーするのは時間がかかったし、何よりも音質の劣化が免れなかった。私のような素人でも、CDの音質とカセットテープの音質の違いは一目瞭然である。

 また、カセットテープの購入費用がそれなりにかかり、カセットテープ自体の使い勝手もよくなかった。

 でも、今の音楽シーンはまったく違う。容量の都合で圧縮(音質低下)していることもあるが、技術的にはオリジナルとまったく同じコピーをつくることができる。オリジナルとコピーの見分けはつかない。

 リスナーが音楽をCDで聴こうとした場合、利便性はむしろそこから作られたコピーである音楽ファイルのほうが高い。CDプレイヤが音楽情報をシークして楽曲を再生する時間はまだるっこしいが、音楽ファイルであれば選曲も再生も持ち運びも至便である。

 さらには、リスナーが発売を待ちわびるCDよりも先に、音楽ファイルがインターネットを介して入手できることすらある。いわゆる「割れた」という状態で、もちろん法的には大問題だが、発売日前に好きな楽曲を聴けるのであれば多くのリスナーはアクセスするだろう。

 これらを総じると、CDは売れない。

 当たり前である。オリジナルと同じ音質のものが、タダで、発売日よりも早く手に入るのであれば、そちらにアクセスする。人は大事なお金を、利便性の悪いオリジナルに投じたりしない。

 しかし、アイドルもボランティアで活動しているわけではないので、どこかで儲けなければ存在自体が立ちゆかなくなってしまう。CDに代わるマネタイズポイントが必要である。それが握手だ。

 握手はコピーできない。コピー可能なもの、特にデジタル技術でコピー可能なものは、あっという間にオリジナルと同じ品質のものがタダ同然で流通してしまうので商売にならない。だから、コピーできない要素を探し、商品化しなければならないが、握手はそれに最適である。

 幅広い分野で、モノ消費からコト消費が謳われている。それらは、モノが飽和したので体験の価値が高まったなどと説明されるが、私は「単にコト消費はコピーされにくいから、商売しやすい」が理由だと考えている。アイドルの握手会はその最たるものだ。

 だから、アイドルはグループ化しなければならなかった。

 握手をするたびにちゃりんちゃりんとお金が落ちてくるならば、手の数は多い方がいい。1人の人間が単位時間あたりにできる握手はたかがしれているが、それが46人だったら、48人だったら。マネタイズポイントを複数化することができる。

コト消費を脅かすVR

 そして、この握手会商法を脅かす技術がVRである。

 VRは体験をデジタルコピーする技術だ。まだ発展の過渡期にあり、未熟な技術であるため、「VRで握手したから、もう本物のアイドルのイベントには行かなくていいや」とか「VRで見たので、旅行はやめよう」とはなっていない。

 しかし、5年後、10年後にVRでの体験の価値が、現実でのそれを上回る可能性は十分にある。現在、VR体験は視覚と聴覚に偏っているが、視覚情報の大幅な進歩に加えて、触覚や嗅覚、味覚まで加えた体験が研究されている。

 10年のスパンではこれらが現実と同水準になることは考えにくいが、現実では避けることができない「混雑でだいぶ待った」「移動時間がつらい」「他の人との接触で嫌な思いをした」といった体験を消去し、「いいとこ取り」を、VRであればすることができる。VRにとってはビジネスチャンスが、現実のアイドルにとってはビジネスを侵食されるリスクが存在している。

 これらが、現実の模倣に端を発し、技術を尖らせていくことで現実と変わりがないような疑似現実へと発展していく例である。

VRからARへ

 であれば、VRの次はAR(Augmented Reality:拡張現実)だと話が拡がっていくのも理解できる。現実を模倣するのであれば、何もないところから疑似現実を立ち上げるのではなく、現実と仮想を混ぜてしまえばよい。作り手としてはより効率的に疑似現実を作ることができ、受け手としてはより現実と地続きの形でその疑似現実を消費することができる。

 ARを身近に感じている人は少ないかもしれないが、実はかなりの強度で日常生活に入ってきている。

 ポケモンGOなどは、すぐに始めることができるARである。日常の風景の上に、ゲームのキャラクタが上書きされる形で、現実と仮想が融合している。

 この種の試みはエンターテインメントと親和性が高いので、どうしてもゲームやアニメなどの紹介が多くなってしまうが、たとえば様々な理由でペットが飼えない人がスマホやスマートグラスの中だけでペットを飼育したとして、それは他の人には見えないけれども、本人が認知していれば確かにそのペットを飼っているのだということはできる。

 機械の修理をしているときに、設計図や説明書をいちいち引っ張り出してきたり、目を通したりするのは面倒な以上に生産性を削ぐ行為だが、スマートグラスで現実の視界に説明書を重ねて表示すれば、現場から目を離したり手を止めたりせずに作業をすることができる。ARには様々な可能性があり、技術革新やビジネスアイデアが練られている。

疑似現実ではなく別の世界へ

 しかし、体験をデジタル化する技術には、もう一つの別の潮流がある。

 冒頭で述べたソードアート・オンラインやレディ・プレイヤー1がそうだ。現実に似せる(疑似現実)のではなく、現実とは違うもう一つの別の世界を作ろうという方向性である。

「そんなの当たり前だろう。というか、仮想現実とはそういうものではないのか」と問う向きがあるかもしれない。それはおそらく日本の特殊性が関連している。

 すでに述べたように、一般的には仮想現実とは疑似現実(現実になるべく似せる)を指す言葉なのだ。Virtual Realityの訳語としても、たぶん疑似現実のほうがニュアンスは合っている。日本は世界的に見ても珍しいほど、「仮想現実と言えば、リアルとは異なる別の世界をつくるんでしょ?」と思っている国だ。

 どうしてそうなったのかははっきりとしない。たとえば、元講談社VRラボの松下氏は、「Virtual Realityを仮想現実と訳したからだ」との仮説を立てている。

「仮想」現実なのだから、現実と同じである必要はない。むしろ同じでない方が面白いだろうと、クリエイタの発想が導かれたとする見解である。確かにモノや概念に名前がつくことで、そのモノの使い方や概念の運用が決まることは多々あるので、その可能性はあると思う。

 Virtualを仮想と訳した人の気持ちはわかるのだ。過去に流行した技術に仮想記憶がある(今だって使われているが)。コンピュータの主記憶装置(メインメモリ)の容量がまだ小さかったころの話だ。たとえば、綺麗なグラフィックのゲームをするのに大きな容量の主記憶装置が必要なのだが高くて手が出せないとき、小さな主記憶装置で無理矢理動かし溢れたデータを安価な補助記憶装置(ハードディスクなど)へ逃がすのである。

 データの大部分は補助記憶装置に格納されることになるのだが、ゲーム側はまるですべてが主記憶装置に収まっているように騙されるのである。不連続に配置されたデータを、連続したデータのように扱える。もちろん動作は遅くなるが、規定に達していないコンピュータでもアプリを動かすことができた。

 この技術をVirtual Memory(=仮想記憶)と呼び、しかもこの言葉がだいぶ普及したので、以降のIT業界ではVirtualは仮想と訳されるべき言葉になったのである。それが、Virtual Reality(=仮想現実)になり、現実とは違うもう一つの別の世界へと想像力や技術開発の指向性を誘ったとするのは、ある程度の説得力を持つと思う。

現実とは違う「もう一つの世界」=メタバース

 これまでであれば、「また日本は」「あいつら、現実と妄想の区別がついてない」と言われる案件である。しかし、今回に限ってはこの考え方に世界が追従してくる可能性があるのだ。単なる体験の枠を超えて、生活の大部分を「そっちの世界」へ移してしまいたいという構想すらある。まさに、現実とは違うもう一つの世界である。本連載ではこれをメタバースと呼ぶ。似た言葉にデジタルツインがあるが、これは先ほどの分類で言えば疑似現実のほうだ。

 メタバースは色々な文脈で使われるが、meta(超えた)-universe(世界、宇宙)からの合成語である。高次世界とすると、三次元空間に対する四次元空間のように上下関係があるかのように印象づけてしまうので、「もう一つの世界」がいいと思う。疑似現実と仮想現実の両方をひっくるめて、より大きなくくりとしてメタバースとすることもあるが、本書では疑似現実=デジタルツイン、仮想現実=メタバースとして書き進めていく。

 なぜそんなものが流行っているのか、流行ろうとしているのかについては、社会構造の変化を整理しておく必要がある。私が書くのは口幅ったいが、どうしてそうなるのかを理解するために、少しだけまとめておこうと思う。

「大きな物語」と「ポストモダン」

 キーワードは、ずいぶん懐かしいが「大きな物語」と「ポストモダン」である。定義は色々あるが、本書では大きな物語を「みんなの価値観が狭いレンジにまとまっている状態」、ポストモダンを「それがほどけた状態」としておく。これらの用語は2015年のセンター試験でも出題され、定説になっていると言っていいだろう。

 大きな物語というとイデオロギーや宗教が思い浮かぶかもしれないが、そこまで大上段に構えなくても、人生観やジェンダー観、将来設計などでもいい。たとえば、ぼくの年代だと「男の子はこうあるべき」「女の子はこうあるべき」などと、ふつうに学校の教室で教わったし、ある程度の年齢になったら結婚して家を構えて、子どもをもうけるのが当たり前だとすり込まれた。

 もちろん、当時からそれに反発する人はいたけれども、反発するという行為も含めて、そうした価値観をみんなが認識していたわけである。

 でも、今おなじことを言ったら、たとえば私が自分の講義で「男の子はこうあるべき」「女の子はこうあるべき」などと言ったら単なるハラスメントである。その日のうちに首が飛ぶだろう。その程度には社会は多様化して、一人ひとりの考えていること、信じていることはほどけたのである。

 その結果、私たちはたくさんの自由を獲得した。会社に行く時間もけっこう選べるようになったし、結婚しない人生もありになった。私が女装して教壇に立っても(やらないけど)、事務局の人たちは表だっては抗議しないだろう。

 だが、自由を獲得すると、もれなく責任がついてくる。能力や資源に恵まれた人はいいのだけれど、そうでない人にとっては自由はけっこうしんどい。自由平等と何の気なしに言うが、自由と平等は食い合わせが悪い。自由にすると差が生じ、平等を推し進めると自由でなくなる。

 いまは自由によりフォーカスが当たっている状態だと考えられるので、多くの人にとってわりとつらい社会になっている。しきたりや旧弊でがんじがらめになっている社会は不自由であるけれども、文句を言いながらもそれに従っていれば自分の居場所は割と確保されていた。嫌なはずの地縁社会や共同体に守ってももらえた。

 それに対して自由な社会は、風通しはいいけれど、生きる指針や安全・安心は外部から与えてもらえなくなる。自分で「自由に」獲得しなければならないのだ。端的に言って不安である。

 だから、不安を埋めてくれる予感にみんな飛びつく。

 先に記しておくが、大きな物語的な国粋主義や強固な地縁社会に戻ろう、という選択肢はおそらくない。そういう志向の人たちもいるが、やはり一度知ってしまった自由はそう簡単に手放せるものではない。人々が狙うのは自由と安心のいいとこ取りである。

SNSの本質

 宗教であれば、古典的・体系的なそれではなく、宗教が持つさまざまな要素から自分に都合のいい部分だけを抜き出して私的な信仰を作るなどの現象を見ることができる。報道や政治家の発言から、自分が嬉しい箇所だけを継ぎはぎして自分の思想を作ることもできる。

 もっと身近で端的な例はSNSだろう。SNSはよく、友だちとつながるネットワークと称されるが、実態としてはつながりを絶って人を囲い込む技術だ。小さな空間に同じ属性に人を閉じ込めて、世界を作るのである。

 こう書くとSFのように感じられるかもしれないが、私たちは幼稚園や小学校で同じことをしていた。クラスには気の合う子も、気の合わない子もいるが、気の合わない子と敢えて友だちグループを形成する子は稀である。たいていは気の合う子同士でグループを作る。気の合う子とは、同属性者のことだ。

 趣味嗜好や生活水準、容姿の水準などが似ていれば、あまりフリクションのない快適な空間を作ることができる。生活の知恵である。

 学校の友だちグループは母集団がたかがしれているので、そんなに似た子ばかりを集められるものではないが、数億、数十億の利用者がいるSNSではそれが可能になる。本当に自分と同じ意見、同じ趣味を持つ小集団を作ることが可能なのだ。

 そうしたSNSのフィールドでは、何を言っても「いいね!」してもらえるし、他人の発言もうなずけるものばかりばかりだ。気持ちがいいこと請け合いである。

 実際、これは本当に魅力的なのだ。人間の極めて根源的な欲望に、承認の欲求がある。居場所を見つけ、誰かに認めてもらい、好きだと言ってもらう。とても安心する瞬間だ。でも、現在この安心を獲得するためのコストが高騰している。

 自由を実現した結果、一人ひとりの考えていることが大きく異なるようになったからである。ボランティアを至上の価値だと考えている人に、「努力してお金持ちになったよ!」と言ってもあまり響かないだろう。褒めてもらえる可能性は薄い。

 褒めてもらうのが難しいなら、せめて誰かとコミュニケーションして安心を獲得しようとしても、多様性が極まった社会ではコミュニケーションのリスクは大きい。それこそ、昭和の時代であれば、世間話に「ご結婚は?」くらい言っておけばよかったかもしれないが、結婚を嫌う志向の人が相手だったら地雷を踏み抜いてしまう。

 そんな状況で、自分の発言が認めてもらえる、他者の発言に共感できる場は本当に貴重である。それを演出しているのがSNSだ。

 SNSはフィルタリングにフィルタリングを重ね、慎重に設計されたグループの中に利用者を囲い込む。その囲い(フィルターバブル)の中はパラダイスだ。あまりにも快適で、つい長い時間を過ごしてしまう。その長い時間のあいだに広告を見せるのがSNSのビジネスである。

 もちろん、一皮むけばフィルターバブルのすぐ外には、まったく相容れない価値観を持つ嫌な相手がいるのかもしれない。実際にそれらが接触してしまうことで起こる現象が炎上だ。でも、Webの検索結果と同じで、利用者にとって見えないことは存在しないことと同義である。炎上するまでは、そこは閉ざされた平和な楽園だ。しかも利用者の視線では、この閉鎖空間は広大に拡がる世界に見えるのだ。

 健全でない、と多くの読者は思うかもしれないが、このビジネスはおそらく今後も拡大する。自分と違いすぎる他者だらけの空間で、四六時中こころ穏やかに過ごすことはなかなか難しい。本当であれば、自分と違う他者を受け入れ、違いを尊ぶべきなのだろうが、違いは不平等に直結する。また、寛容はあらゆる行為の中で最も能力と資質、努力を要求するものでもある。

 したがって、かなりのケースで「自分と違う他者」に触れた反応は、回避か攻撃になる。そのほうがコストがかからない。有効な回避先としてSNSがあるわけだ。

 ただし、SNSはまだまだ発展途上の技術である。人の手持ちの可処分時間を考えれば、SNSはもっと人から時間を奪える可能性がある。そうなっていないのは、SNSが世界として未完成だからだ。働くときはSNSを離脱しなければならないし、食べるときも、寝るときもそうだ。

 SNSがもっと人に使われるサービスになるためには、もっと世界として完成され、ほとんどの時間をSNS内で過ごせるようになる必要がある。生理的な欲求の部分は最後まで現実世界に残り続けるだろうが、それ以外はすべて「そこ」に居られるようなサービスには巨大なビジネスチャンスがある

SNSからメタバースへ

 私はそれがメタバースだと考える。SNSのように心地よく、風のそよぎや花の香りさえ楽しめ、そこでお金すら稼げるような世界が実装されたら、ほとんどの人生をそこで過ごしてもよいと考える人はたくさん出てくるだろう。それが健全かどうかはわからないが、ニーズは確実にある。

 眉をひそめる向きもあるかもしれない。でも、こういうふうにも考えられる。たとえば現実で事故に遭い障害を負ってしまっても、メタバースでなら事故以前のように元気に駆け回れる。事故のところを老いに読み替えてもいい。老いる以前のように、飛んだり泳いだりできる。現実では引きこもってしまって自室から出られないが、メタバースでなら仕事をしてお金を稼げる。そんなもう一つの世界である。なかなか魅力的ではないか。

 テックジャイアントと呼ばれる巨大IT企業でさえそう考えているから、メタバースに巨額の開発費を投じている。好むと好まざるとに関わらず、多くの人がメタバースに回収される未来は近づいている。WebやSNSは一時代を築いたが、次にインターネットを支配するのはメタバースかもしれない。

 そしてこの分野に、日本ならではの成功の形があると思うのだ。

 メタバースは現実の模倣ではない。つらくてつまらない現実から、いいところだけを抜き出した、もう一つの世界である。それはこれまで欧米が主導してきた疑似現実とは位相が異なる。Virtual Realityを仮想現実と訳し馴染んだ日本だからこそ、作れるメタバースがあるはずだ。それが何なのかを考えていこう。(続く)


光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!