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コールドプレイはなぜ「ランクインしない」のか? ロック野郎特有の「やっかみ」理論から読み解く by川崎大助

光文社新書編集部の三宅です。

本noteの好評連載『教養としてのロック名曲ベスト100』が同タイトルの新書として刊行されました。

2019年7月に刊行された『教養としてのロック名盤ベスト100』の姉妹編で、アルバムではなく曲にスポットを当てています。

さて、この記事では、ロック界最大の謎と言っても過言ではない「コールドプレイ冷遇問題」を解き明かします。

「コールド」だから「冷遇」というネタではなく、セールス面でも人気面でも、21世紀最大のロックバンドと言える彼らは、なぜか「玄人」筋からの評価がめちゃくちゃ低いのです。詳細は本論に譲りますが、上記「名曲」「名盤」新書の元ネタである米「ローリングストーン(RS)」誌や英「NME」誌での扱いがあまりにも雑。その結果、新書にも、コールドプレイのコの字も出てきません。

その由々しき問題について、おそらく初めて真面目に扱った論考が、本記事です。コールドプレイ推しの皆さん、留飲を下げてください。

※前の記事では、著者の川崎さんの主観ベスト10を紹介しています。

コールドプレイはなぜ「ランクインしない」のか? ロック野郎特有の「やっかみ」理論から読み解く by川崎大助

地球規模で人気のバンドなのに……

 コールドプレイは、なぜ「嫌われる」のか? このことについて、考察してみるべき瞬間がやってきたようだ。だれの目から見ても「成功した」バンドであり、セールスのみならず、作品内容への評価も(とくに問題となるほど)低くはない。なのに――。

 ことのほか、彼らは本当に、ロック・リスナーの「玄人筋」からの受けが悪い。当然にして、音楽評論家などからも。ほとんど「意地悪されている」かのように。

 なぜ僕がそんなことを言うのか、というと……やはりコールドプレイは「ランクインしていなかった」からだ。前著『教養としてのロック名盤ベスト100(以下「アルバム編」)』のみならず、今回の『教養としてのロック名曲ベスト100』においても同様に。いくらなんでも、どうにもこれは「おかしなこと」だろう。常識的に考えてみれば。

 だっていま現在、どう考えても世界屈指のスーパー・ビッグ・バンドのひとつこそが、彼らなのだから。レコード・セールスはトータル1億枚超えとの見方もある。いい話題の少ない21世紀以降のロック界において、U2の再来かレディオヘッドのポップ版かという勢いで、とにもかくにも彼らは「売れた」。

 00年のデビュー・アルバム『パラシューツ』からいきなりの大成功で、日本では少々出遅れていたが、08年にiPod+iTunesのCMに使われたナンバー「ヴィヴァ・ラ・ヴィダ(邦題・美しき生命)」あたりから目に見えて人気が急上昇。同曲を含む同名第4作アルバムのプロモーションとして、09年2月には大型の来日ツアーも敢行。(僕は無理だと思っていたのだが)さいたまスーパーアリーナ(2日間)、神戸ワールド記念ホール(同)などの公演を成功させた。つまり、ここ日本をも支配地域に治めた。だから「ポップ音楽を消費する」習慣がある国や地域であれば、いま現在、ほぼ地球規模で「コールドプレイは人気がある」と言っていい。

 なのに……もしあなたに勇気があれば、ものは試しに、検索エンジンのウィンドウに「Coldplay dislike」などと書き入れてみてほしい。いやあ、出るわ出るわ。個人のブログやSNSだけではない。商業的メディアでも、彼らは盛んに悪口を言われている。とくに攻めているのがイギリスの大衆紙系なのだが、こんなときに、ほぼかならず「標的」となっているのが、ヴォーカリストにしてバンドの「顔」であるクリス・マーティンなのだが……この話は、ちょっとあとでやろう。その前に僕の「教養」ランキング上での実績を、チェックしてみよう。

〈RS〉および〈NME〉での順位は?

 まずは今回の「名曲ベスト100」、ソースとなった〈ローリング・ストーン(以下RS)〉および〈NME〉それぞれの「ベスト500曲」リストでは、彼らの曲は選ばれていた。ただ、いわゆる「票割れ」にて「教養リスト」にはランクしなかった。RSもNMEも、それぞれ「違う曲」を選んでいたからだ。しかも……そもそもの順位がとても低い。

 まずはRS、「クロックス」(03年)が490位にちょこっと入った。NMEは2曲ランクインしているのだが「イエロー」(00年)が420位(!)、「ザ・サイエンティスト」(02年)に至っては448位だった……。

 アルバム編のほうも、状況はあまり変わらない。が、ここでは両者(RSとNME)のあいだで、彼らの第2作 『ア・ラッシュ・オブ・ブラッド・トゥ・ザ・ヘッド(邦題・静寂の世界)』(02年)が選ばれているのだが……NMEではようやく266位なれど、RSは466位ということで、「教養ポイント」で計算してみると「235+37=272位」となり、ベスト100には遠く及ばなかった。あともう1枚、NMEは前述のデビュー作『パラシューツ』をランキングしていたのだが、272位とさらに順位は低かった。

 だから彼らの音楽は「最強の聴き巧者」筋からですらも、まったく評価されていないわけではない。RSとNMEのランキング・リストにおいて、コールド・プレイにも一応の「居場所」が与えられているのが、その証拠だ。しかしそれが、一般社会におけるセールス状況とは、大きな乖離がある場所――平たく言うと「不当なまでに低いところ」――限定であるところに「微妙だなあ」と、いつも僕は思わざるを得ない。なんというか「やっかみフィルター」が邪魔してるんじゃないか、というか……。

史上稀に見る「やっかまれロッカー」

 さてここで、クリス・マーティンにフォーカスを移そう。ゼロ年代を代表するロック・スター、セックス・シンボルのひとりである彼こそが、史上稀に見るほどの「やっかまれロッカー」なのだから! つまり早い話が、彼に対する「むかつくんだよ!」という心理的ざわつきが、コールドプレイの票を減らす効果があったんじゃないか?というのが僕の見立てだ。むかついてたのはだれか?――言うまでもない。前述の、評論家も含む「玄人リスナー」たちにほかならない。「ロックを知る」「ロックを生きる」人々であればあるほど「それは違うんじゃないか?」と言いたくなるような表象を背負いに背負っている人物が、クリス・マーティンその人なのだ。

 なにしろ、出自がすごい。大雑把にいくと(イギリスにおいては)ミドル・クラスに分類される家庭の出身なのだが、近年大きな話題となったマイク・サヴィジによる「7つの階級」説にしたがうと、マーティンの両親は最上位の「エリート」もしくは次席の「確立した中産階級(Established Middle Class)」にあたる。父親は勅許会計士、ローデシア出身の母親は音楽教師――なのだが、父方の家系がすごい。まず祖父はビジネスで成功したあと、マーティンが生まれ育ったデボン州エクセターの執政長官と市長となり、大英帝国勲章の第3位CBE(コマンダー)を叙勲している(つまりナイト位のひとつ下)。

 だからマーティンが育った屋敷は、広大な敷地のなかにある、6つのベッドルームをそなえたマナー・ハウスだった。曽祖父のウィリアム・ウィレットは、夏時間採用を提唱したことで歴史に名を残す人物。さらに縁戚ということでいくと、父方の叔母が貴族と結婚したせいで、マーティンの遠縁のなかには、あのウィンストン・チャーチル卿の孫までいる始末(そんなロッカー、さすがに僕も聞いたことはない)。だからマーティンは、たとえばクリケットなどに親しみつつ、寄宿学校にて教育を受け、ロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学する。そこで出会ったのが、コールドプレイのメンバーたちだった……。

 とまあ、こういうストーリーを聞くと、思わず「けっ」と言いたくなる人が、コアなロック・ファンに多いということは、僕は理解できる。「何不自由なく育った、そんなお坊ちゃんがロックやれんのかよ?」的な感じ、とでも言おうか。

 恵まれた出自を「銀のスプーンをくわえて生まれてくる」と表することがある。しかしそこを、ロッカーたる者は「銀ではいかん!」とするような姿勢は古来根強くあって、たとえばザ・フーの名曲「サブスティテュート」(66年)には、こんな有名なラインがある。「僕はプラスティックのスプーンをくわえて生まれてきた」――労働者階級であること。庶民であること。「持たざる者」であり「つねに搾取される側」であることは、ブリティッシュ・ロックの本流においては、音楽家とファンの双方ともに、ほぼ「前提事項」にも等しいことだった。ゆえにこの出自を「誇りにする」ようなスピリットこそが、同シーンに連綿と流れ続けていることは、なにはなくとも「オアシスを見ればすぐわかる」はずだ。

 要するに、クリス・マーティンの生い立ちというのは(本人に罪はないのだが)こういった「英ロックの普通」への、あからさまな逆張りだと言えるものだった。で、肝心の音楽の出来が悪いのなら、話は簡単だ(しかし、そうではない)。おまけに、顔もいい。そしてなんと、ハリウッド女優と結婚だ!(グウィネス・パルトロウと03年に結婚。14年に離婚)――まあこんなのを前にして「やっかむなよ」と言うのも野暮かもなあ、というほどの「出来過ぎ」ぶりなのだ。まさに「銀のスプーンを無駄にしない」華麗なる人生を送る男がマーティンなのかもしれない。

「環境に配慮」

 僕が個人的に見逃せないのが、彼らが19年に第8作アルバム『エヴリデイ・ライフ』をリリースした直後、同作プロモのための「ツアーはおこなわない」とした宣言の内容だった。なんでも理由は「環境に配慮するため」。つまり、ごく普通のビッグ・バンドのワールド・ツアーともなると、かなり大規模な資源消費が起こってしまう。これを嫌ったマーティンは、これからは「カーボン・ニュートラルを目指す」などと言い、持続可能なだけではなく、環境に利益をもたらすような形での「新しいツアーのやりかた」が見出せるまで、大きなコンサート・ツアーは休止すると発表。大きな話題となった(そしてBBCなどが好意的に報道した)。

 まあ、僕は正直言って、しらけた。「そりゃあそうだろうけれども」なんか裏があるんじゃないか、とか。ツアーのみならず、映画制作もモーター・スポーツも、なにもかも二酸化炭素は出すんだろうけれども……だったら人類全部いますぐいなくなったほうが、地球環境的には持続可能性高まるんじゃないか、とか、小児的反発心を抱いた。

 つまりこれこそが「コールドプレイ」なのだ。マーティンはたんに「出自がいい」だけではない。前のめりな「発信力」込みで、ポップ音楽の社会的役割までもどんどん変えていきそうなところ。その輝かしい門前にこそ、彼らの金看板は掲げられているわけだ。

「コールドプレイでも聴いてるんじゃない?」

 と、そんなコールドプレイを端的に評するに、ぴったりな例をひとつ、僕は知っている。ここでそれを紹介しよう。ヴァンパイア・ウィークエンドというアメリカのバンドがいる。08年にデビュー。インディーの出自ながら、10年にセカンド・アルバムがビルボード200で初登場1位という快挙を成し遂げた。結成時のメンバー全員、ニューヨークの名門コロンビア大学出身というところでも(日本以外では)注目を集めた。そんな彼らがデビュー作をひっさげて来日したときに、元〈米国音楽〉プロデューサーである堀口麻由美がインタヴューした。そのとき彼女は、こんなことを訊いた。「ヴァンパイア・ウィークエンドみたいな音楽性って、コロンビア大の学生にはあまり人気ないような気がするんだけど」と。

 なぜならば彼らの音楽とは、雑に言うとエルヴィス・コステロとトーキング・ヘッズを掛け合わせてスピード・アップしたみたいな、切れ味抜群、諧謔味全開のハイパー・ポップ・ロックだったからだ。対して「典型的なコロンビア大生」とは(メンバーの弁を借りるなら)コネチカットあたりの出身で、穏健な中産階級で……といったイメージなのだという。ならば、同大の学生はみんな、どういう音楽を聴いているの?という彼女の質問に、メンバーはこう答えたという。
「コールドプレイでも聴いてるんじゃない?」

 つまり「そういう感じ」なのだ。たとえば70年代のピンク・フロイド、80年代後半のポール・サイモンにも通じるような、圧倒的な「まっとうさ」こそ、コールドプレイの特徴なのかもしれない。そして「典型的な」コアなロック・ファンというものは、たとえば若き日のジョン・ライドン(当時はジョニー・ロットン)が、セックス・ピストルズ参加当時に「I Hate Pink Floyd」と書いたTシャツを着ていた……なんていう伝説を、ことのほか愛する(が、なんと2010年、当のライドンが「俺はピンク・フロイドは嫌いじゃない。よく聴いていたよ」と告白する!なんていう大事件もあったのだが……)。

 というわけで、あらゆる意味で「出来がいい」ことが、すなわち毀誉褒貶につながるという宿命を背負っているバンドこそがコールドプレイなのだ。しかしいまのところ、乱打される「やっかみ」も、彼らの歩みを止めるには全然至っていない。ありとあらゆるネガティヴな声を軽くはね飛ばし、今日も正々堂々とミドル・オブ・ザ・ロードを征く――というのが、巨艦・コールドプレイの航路なのかもしれない。(了)




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