見出し画像

序章・第1章を特別公開!『文章は接続詞で決まる』(石黒圭著)を読んだら、きっとすぐに文章を書いてみたくなりますよ~

こんにちは! 光文社新書編集部です。

今日のこの記事の主役は、光文社新書のロングセラー文章は接続詞で決まる(石黒圭著)。今回、note主催の感想文コンテストの課題図書にセレクトされました✨


感想文を書くにも欠かせない「接続詞」。この本ではその接続詞を使う際の”勘どころ”を身につけることができます。

画像1

初版時の帯です。一見同じように見える逆接の接続詞【だが】【しかし】【ところが】には、違いがあるのですね!? 詳しくは本書の中に…。

2008年の出版から長く多くの方に読まれているこの本。SNSでは今でも、

「接続詞図鑑とでも呼べそうなおもしろさがある」
「折に触れて読み返したい良書」
「文章を書く人はぜひ一度読んでみて!」
「“文末の”接続詞があるという記述に衝撃を受けた」
「下手したら小学生から読んでも身に付く」
「めちゃめちゃに推していきたい」

などなど、たくさんの感想が見られます(ありがとうございます!)

今回、この本をもっともっとたくさんの人に読んでいただきたい、という素直な(!)気持ちから、序章と第1章、そして目次を公開させていただくことにしました。

ちなみに本書の中で、担当編集者の印象に一番残っているのは、「第9章 接続詞のさじ加減」の中の、「(接続詞を)使わないほうがよい文がある」という節。また、「第11章 接続詞の表現効果」では、文学作品や詩などを引用しながら、接続詞の持つ力を体感させてくれます。この章もとても好きな章です。

ご興味を持った方はぜひ、1冊読んでみてくださいね。

そしてそして、感想文コンテストへの応募もお待ちしています…! 400字詰め原稿用紙で5枚……なんていう大作である必要はまったくありません。短いエッセイのようなものでも大歓迎です✨✨ ぜひ、お気軽にどうぞ!!(締め切りは11/30(火)です)

ではでは、前置きが長くなりましたが、
文章は接続詞で決まるの本文(序章、目次、第1章)を公開です。


・・・・・

石黒圭著『文章は接続詞で決まる』


ピンク帯

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


序章 接続詞がよいと文章が映える


プロでも気遣う接続詞


読者にわかりやすく、印象に残るような文章を書きたい。その気持ちは、プロの作家であろうと、アマチュアの物書きであろうと変わりません。

でも、そのためには、どこから手をつけたらよいのでしょうか。

プロの作家は、接続詞から考えます。接続詞が、読者の理解や印象にとくに強い影響を及ぼすことを経験的に知っているからです。

井伏鱒二の書いた「『が』『そして』『しかし』――文体は人の歩き癖に似ている」(吉行淳之介選・日本ペンクラブ編『文章読本』ランダムハウス講談社文庫。初出は一九五六年『文學界』十巻八号、文藝春秋)というエッセイがあります。そのなかで、こんな話が紹介されています。

 二、三年前のこと、私は自分の参考にするために、手づるを求めて尊敬する某作家の組版ずみの原稿を雑誌社から貰って来た。十枚あまりの随筆である。消したり書きなおしてある箇所を見ると、その原稿は一たん清書して三べんか四へんぐらい読みなおしてあると推定できた。その加筆訂正でいじくってある箇所は、「……何々何々であるが」というようなところの「が」の字と、語尾と、語尾の次に来る「しかし」または「そして」という接続詞とに殆ど限られていた。訂正して再び訂正してある箇所もあった。その作家の得心の行くまで厳しく削ってあるものと思われた。あれほどの作家の作品にして、「が」の字や「そして」「しかし」に対し、実に初々しく気をつかってある点に感無量であった。


太宰治の師でもある文豪・井伏鱒二が尊敬した作家が誰なのか、気になるところですが、一流のプロに尊敬されるような作家でさえ、推敲の過程で修正するのは接続詞なのだということは、注目に値します。

読みやすさの立役者


ところが、文章を書くための本は世の中にあふれているにもかかわらず、接続詞に特化した本はこれまでほとんど出版されてきませんでした。それは、接続詞に本気で取り組んでいる研究者が少ないためだと思われます。

日本語で書かれた、接続詞にかんする著作や論文は、これまで八〇〇以上発表されていますが(北海道教育大学札幌校のウェブサイトにある、馬場俊臣氏作成の接続詞関係研究文献一覧による)、その多くは他に専門を持つ人が試みに書いたと思われるもので、接続詞を継続的に研究にしている研究者はごくわずかです。専門家のあいだでは、あまり人気のあるテーマではないのです。

その理由は、一つには、接続詞が一文の構造とは直接関わらない周辺的な品詞だからでしょう。また、動詞や助詞などにくらべて、論理が見えにくく、わかりにくいという事情もあります。その証拠に、幼児が習得する品詞のなかでもっとも遅いものが接続詞だと言われています(大久保愛『幼児言語の発達』東京堂出版)。

しかし、一般の人、とくに文章を書きたい人にとっては、無視できないテーマです。それは、接続詞が、文章を人に理解してもらおうとするとき、その印象を決定づけるものだからです。

そのことを、料理の作り方について書いた次の文章で確かめてみましょう。


『ルーの要らない簡単クリームシチュー』

 寒い冬にぴったりの、体も心も暖まる、おいしいシチューを紹介します。市販のルーを使わないので、ご家庭にある材料で簡単にできます。用意する材料は四人分で、鶏モモ肉一枚 、ニンジン一本、ジャガイモ一個、タマネギ一個、牛乳五〇〇㏄、バター大さじ二、小麦粉大さじ三、塩・コショウ少々、生クリーム少量、サラダ油少量です。

 まず、根菜と鶏肉を切ります。ニンジンとジャガイモは縦半分に切り、それをさらに縦半分(四分の一)にしてから、乱切りにしてください。タマネギも半分に切り、ニンジン・ジャガイモと同じぐらいの大きさに切りわけます。鶏モモ肉は一口大に切り、塩・コショウをし、小麦粉を薄くまぶしておきます。

 つぎに、ナベに油をひき、切った根菜を、ニンジン、タマネギ、ジャガイモと、火の通りにくい順に入れて炒めます。このとき、焦がさないことが大切です。ときどき水を大さじ一程度加えながら炒めると焦げつきが防げます。タマネギとジャガイモに透明感が出てきたら、バターと小麦粉を加え、粉が全体にいきわたって、粉っぽさがなくなるまで炒めます。

 それから、牛乳を加え、とろみがつくように、ときどきかき混ぜながら煮こみます。

 ここで、煮こんでいる時間を利用して、鶏肉を焼いていきます。フライパンに油をひき、鶏肉を中火でキツネ色になるように焼きます。最初は強火で、焼き色がついてきたら中火に落とすのがポイントです。

 そして、ナベのなかの野菜が充分柔らかくなったら、そこに、焼いた鶏肉を入れます。

 最後に、塩・コショウで味を整えて出来上がりです。仕上げに生クリームを少量入れると、味がまろやかになります。


一読して、読みやすい文章だっただろうと思います。それは、各段落の冒頭にある接続詞が効いているからです。そのことは、接続詞だけ取りだしてみると、よくわかります。

寒い冬にぴったりの、体も心も暖まる、おいしいシチューを紹介します。
まず、……。
つぎに、……。
それから、……。
ここで、……。
そして、……。
最後に、……。


接続詞のおかげで、「……」の部分が書かれていなくても、そこに入る内容が透けて見えるようです。また、今回はクリームシチューの例でしたが、それがスパゲティ・カルボナーラであっても、ベイクド・チーズケーキであっても、似たような接続詞の組み合わせによって手順を示せそうです。

料理のレシピは、見やすいように、①、②、③と、箇条書きにして示すのが一般的です。しかし、箇条書きではなく、文章の形できちんと示そうとすると、接続詞のコントロールが効いていることが必須条件です。作業の手順を手際よく示すには、接続詞による支えが必要です。読みやすい文章の全体構造を支えるのは、接続詞なのです。

本書の構成


本書は三部構成になっています。

初めの第一章、第二章は総論です。接続詞とは何か、接続詞が文章のなかでどんな役割を果たしているのかを検討します。

第三章〜第八章は各論です。接続詞全体を「論理の接続詞」「整理の接続詞」「理解の接続詞」「展開の接続詞」「文末の接続詞」に分け、個々の接続詞を一つひとつ取りあげながら、その用法や、使用のさいに留意すべきポイントについて説明します。また、文章の接続詞だけでなく、会話やスピーチなどの話し言葉の接続詞にも言及するつもりです。

第九章〜第十一章は実践編です。どんな文にどんな接続詞をつけたら読みやすいか、読み手の印象に残るかといったことを具体的に検討します。

本書では、総論、各論、実践編の順に接続詞を追うなかで、接続詞の全体像を正しく把握していただくとともに、実際の文章を書くときに役立つ接続詞使用の勘どころについて、身につけていただくことを目指します。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

目 次


序章 接続詞がよいと文章が映える

プロでも気遣う接続詞
読みやすさの立役者
本書の構成

第一章 接続詞とは何か

副詞との境界線
指示詞との境界線
接続助詞との異同
接続詞は何をつなぐか
接続詞は論理的か

第二章 接続詞の役割

接続詞は「書き手」のもの
接続詞は「読み手」のもの
機能①――連接関係を表示する
機能②――文脈のつながりをなめらかにする
機能③――重要な情報に焦点を絞る
機能④――読み手に含意を読みとらせる
機能⑤――接続の範囲を指定する
機能⑥――文章の構造を整理する

第三章 論理の接続詞

四種十類に分けてみる
順接の接続詞
「だから」系――原因─結果の橋渡しに活躍
「それなら」系――仮定をもとに結果を考える
逆接の接続詞
「しかし」が続く文章は読みにくいか
「しかし」系――単調さを防ぐ豊富なラインナップ
「ところが」系――強い意外感をもたらす

第四章 整理の接続詞

並列の接続詞
「そして」系――便利な接続詞の代表格
「それに」系――ダメを押す
「かつ」系――厳めしい顔つきで論理づけ
対比の接続詞
「一方」系――二つの物事の相違点に注目
「または」系――複数の選択肢を示す
列挙の接続詞
「第一に」系――文章のなかの箇条書き
「最初に」系――順序を重視した列挙
「まず」系――列挙のオールマイティ

第五章 理解の接続詞

換言の接続詞
「つまり」系――端的な言い換えで切れ味を出す
「むしろ」系――否定することで表現を絞る
例示の接続詞
「たとえば」系――抽象と具体の往還を助ける
「とくに」系――特別な例で読者を惹きつける
補足の接続詞
「なぜなら」系――使わないほうが洗練した文章になる
「ただし」系――補足的だが理解に役立つ情報が続く

第六章 展開の接続詞

転換の接続詞
「さて」系――周到な準備のもとにさりげなく使われる
「では」系――話の核心に入ることを予告する
結論の接続詞
「このように」系――素直に文章をまとめる
「とにかく」系――強引に結論へと急ぐ

第七章 文末の接続詞

文末で構造化に貢献する
否定の文末接続詞
「のではない」系――読み手の心に疑問を生む
「だけではない」系――ほかにもあることを予告
疑問の文末接続詞
説明の文末接続詞
「のだ」系――文章の流れにタメをつくる
「からだ」系――理由をはっきり示す
意見の文末接続詞
「と思われる」系――「私」の判断に必然感を加える
「のではないか」系――慎重に控えめに提示する
「必要がある」系――根拠を示したうえで判断に至る

第八章 話し言葉の接続詞

対話での接続詞はその場の空気を変える
対話での使用のリスク①――相手の発話権を奪う
対話での使用のリスク②――言い方を訂正して気分を逆なでする
対話での使用のリスク③――逆接の使用で無用な対立を生む
対話での使用のリスク④――自己正当化を目立たせる
よく使う接続詞で隠れた性格がわかる
独話では使いすぎに注意
話し言葉的メディアで好まれる短めの接続詞

第九章 接続詞のさじ加減

文章のジャンル別使用頻度
使わないほうがよい文がある
接続詞の弊害①――文間の距離が近くなりすぎる
接続詞の弊害②――間違った癒着を生じさせる
接続詞の弊害③――文章の自然な流れをブツブツ切る
接続詞の弊害④――書き手の解釈を押しつける
接続詞の弊害⑤――後続文脈の理解を阻害する

第十章 接続詞の戦略的使用

「接続詞のあいだを文で埋める」と考えてみる
二重使用という戦略
漢字か平仮名か、読点は打つか

第十一章 接続詞と表現効果

漱石の作品に見る効果
「そして」の力を体感する


主要参考文献
おわりに
索引

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第一章 接続詞とは何か

副詞との境界線


本書で接続詞について議論していくにあたり、接続詞とは何かということをあらかじめ定義しておく必要があります。けれども、接続詞は、専門的にはかなりあいまいな位置にある品詞です。

そもそも接続詞という品詞を認めない立場もあります。品詞というのは、一般に、一文のなかにおける意味的類型や文法的機能の違いによって、動詞・名詞・形容詞・連体詞などといった名称が付されています、接続詞のような、一文の枠をはみだして文と文とを結ぶようなものは、本来想定されていないのです。一文の枠のなかで接続詞を考えると、接続詞は副詞として処理せざるをえません。

また、接続詞という品詞を認める立場であっても、副詞との境界線が問題になります。「とくに」を例に考えてみましょう。

・私は春が好きだ。とくに新緑の鮮やかな五月がいい。
・私は春が好きだ。新緑の鮮やかな五月がとくにいい。


前者の例では「とくに」が文頭に置かれているので、接続詞のように見えます。ところが、「とくに」が文中に置かれている後者の例では、接続詞とは考えにくくなります。

後者の例から考えると、「とくに」は限定を表す副詞で、一義的には接続詞ではなさそうです。かといって、接続詞的機能を発揮しているものを接続詞から除くのも不便ですし、そうした判断は専門的すぎて、一般の人の感覚とかなりズレたものになるでしょう。

そう考えると、「とくに」をはじめとして、「とりわけ」「ただ」「むしろ」など、限定的な意味を表す副詞が文頭に立った場合、それを接続詞相当のものとしてとらえたほうが現実的です。実際、日本語を専門に研究する日本語学の世界でも、最近ではそうしたものを「接続表現」として一括するのが一般的になっています。

ただ、「接続表現」という語は一般の人にはなじみがないでしょうから、本書ではそうしたものも接続詞という名称で扱うことにします。

指示詞との境界線

接続詞の場合、副詞だけでなく、「これ」「それ」などの指示詞との境界もあいまいです。事実、「それから」「それで」「そうしたら」「このように」など、指示詞由来の接続詞も少なくありません。直前に出てきた先行文脈を指示する指示詞に助詞がつき、形として固定化すると、接続詞になりやすい傾向があります。よく使われる「そして」も、「そのようにして」という意味の「そうして」の「う」が抜けて、慣用化したものです。

指示詞と接続詞は連続的ですが、はっきりとした違いもあります。指示詞は、先行する文の内容を後続する文に持ちこんで、後続する文の材料として使います。一方、接続詞は、先行する文の内容を受けて、後続する文の展開の方向性を示します。次の「それが」の例では、前者が指示詞、後者が接続詞です。

・結婚するまえ、夫はよく、私の仕事場まで車で送り迎えしてくれた。それが、夫の愛情の証だった。
・結婚するまえ、夫はよく、私の仕事場まで車で送り迎えしてくれた。それが、今では玄関まで見送りにも出てこない。


接続助詞との異同

接続詞の一般的な定義は、文頭にあって、直前の文と、接続詞を含む文を論理的につなぐ表現というあたりでしょうか。これで大きな誤りがあるわけではないのですが、やや不充分でしょう。

接続詞とは、先行文脈の内容を受けて(ここが副詞と違うところ)、後続文脈の展開の方向性を示す表現(ここが指示詞と違うところ)です。つまり、それ自体に実質的な意味はなく、前後の文脈があって初めてその存在が生きる表現です。

また、接続詞は、先行文脈とのあいだに切れ目があり、後続文脈に属する表現です。接続詞は、接続助詞とも似ており、よくその異同が問題になりますが、接続助詞は、先行文脈とのあいだに切れ目がなく、先行文脈に属する表現という点で、接続詞と異なります。

・松坂は右投げだ、岡島は左投げだ
・松坂は右投げだ。だが、岡島は左投げだ。


前者の例は接続助詞、後者の例は接続詞です。文の意味する内容は同じですが、ニュアンスは微妙に違います。後者の例のほうが、「松坂は右投げだ」「岡島は左投げだ」の部分がそれぞれ独立していて、情報として重みがある感じがします。

また、以下の例では、どちらが「仕事の速い課長」を評価している感じがするでしょうか。

・課長は仕事が速い、ミスが多いのが玉にキズだ。
・課長は仕事が速い。だが、ミスが多いのが玉にキズだ。


後者の例の接続詞「だが」は逆接の力が強いので、一見、前者の例のほうが課長を評価しているようにも見えます。しかし、後者の例では「課長は仕事が速い」ということを文という形で認めているところに注目してください。一方、前者の例では、「課長は仕事が速い」の部分が「ミスが多いのが玉にキズだ」に従属し、相対的に軽い情報になっています。つまり、接続助詞のかわりに接続詞を使うことで、すでに述べた内容を独立させ、その部分を尊重することにつながるわけです。

接続助詞は先行文脈の勢いも不完全さもそのまま受けつぎますが、接続詞は先行文脈にいったんケリをつけ、あらためて文脈を起こしなおします。接続詞は、接続助詞の部分をいったん切り離しておいて、それを次の文に持ちこんで繰り返すことで、先行文脈の情報の独立性を尊重するのです。

以上の議論を踏まえると、接続詞の定義がかなり変わってきそうです。ここで、ひとまず整理しておきましょう。

接続詞の一般的な定義

接続詞とは、文頭にあって、直前の文と、接続詞を含む文を論理的につなぐ表現である。

接続詞の本書の定義


接続詞とは、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である。

このように定義しておけば、接続詞と副詞、接続詞と指示詞、接続詞と接続助詞の違いが明確にできるでしょう。

裏を返せば、これまでの考察からわかるように、接続詞は他の品詞と区別が難しい品詞だということになります。歴史的に見ると、はじめから接続詞だったと認定できるものはほとんどありません。副詞、指示詞、接続助詞、さらには動詞の連用形(接続助詞「て」も含む)や相対性のある名詞(「そのうえ」「その結果」など)、他の品詞が変化することによってできたものばかりです。

接続詞は、文という単位で書きたいことを切りだして表現するという習慣が定着した近代以降、急速に整備が進んだ品詞です。今後、接続詞がどうなるかはわかりませんが、「と言うか」→「ていうか」→「てか」のように、いくつかの品詞が組み合わさり、それが慣用化することによって、新たな接続詞が少しずつ生みだされていくような気がします。

接続詞は何をつなぐか

先ほど「接続詞の本書の定義」とあわせて「接続詞の一般的な定義」を示しましたが、その一般的な定義には、専門的な見地からすると、気になる点がまだ二つほどあります。一つは、接続詞は文と文をつなぐものなのかという点、もう一つは、接続詞は本当に論理的なのかという点です。まずは、接続詞がつなぐ単位から考えてみましょう。

接続詞は、じつは文と文をつなぐだけではありません。文より小さい「語と語」「句と句」「節と節」といった単位をつなぐこともあります。以下の例文では、傍線の接続詞は、前から順に「語と語」「句と句」「節と節」をつないでいます。

・印鑑、通帳、それから住民票を持ってきてください。
・このマスクは、風邪の人に、あるいは花粉症の人にお勧めです。
・この本は、嫌なことがあって落ちこんだときに、そして、恋愛で傷ついてしまったときに、ぜひ読んでください。


接続詞は、文より小さいものだけでなく、文より大きい単位である段落どうしをつなぐことも可能です。以下の例の「一方」がそれに当たります。

 独身の女性には、経済的な豊かさがある。また、自分の人生を自分の力で切りひらこうという強い意志がある。
 一方、結婚をした女性には、心のゆとりがある。いざというときに二人で助けあっていけるという安心感がある。


接続詞には、短い要素をつなぐのが得意なタイプと、長い要素をつなぐのが得意なタイプとがあり、そうした接続詞の個性の違いによって、私たちは長くて複雑な構造の文章を混乱せずに読むことができます。その点については、のちほど触れることにします。

接続詞は論理的か

接続詞は論理的か、というのは難しい質問です。論理学のような客観的な論理に従っているかという意味では、答えはノーです。もし厳密に論理で決まるのであれば、以下のように、論理的に正反対の事柄に両方「しかし」が使えるというのは説明できません。

・昨日は徹夜をして、今朝の試験に臨んだ。しかし、結果は〇点だった。
・昨日は徹夜をして、今朝の試験に臨んだ。しかし、結果は一〇〇点だった。


暗黙の了解として、前者の例では「徹夜をするくらい一生懸命準備すればそれなりの点が取れるだろう」があり、後者の例では、「徹夜をするくらい準備が不足していたのなら(または徹夜明けの睡眠不足の状態で試験を受けたのなら)それなりの点しか取れないだろう」があったと考えられます。このことは、接続詞の選択が客観的な論理で決まるものではなく、書き手の主観的な論理で決まることを暗示しています。

ですから、私は、高校入試や大学入試、法科大学院の適性試験などで見られる、接続詞を選ばせる問題があまり好きではありません。もちろん、前後の文脈から、そこに入りうる接続詞がある程度制限されること自体は否定しません。しかし、そうした問題は、接続詞が純粋論理によって決まるような錯覚を受験者に抱かせ、書き手による選択という接続詞の創造的側面を見失わせてしまうおそれがあるのです。

じつは、論理学は接続詞が苦手です。そもそも、従来の命題論理学では、「しかし」を扱うことができませんでした。以下の例では、「そして」であっても、「しかし」であっても、「昨日は夜遅くまで起きていた」ことと、「今朝は朝早く目が覚めた」ことが併存する点では同じであり、命題論理学ではいずれも「∧(かつ)」で表されます。

・昨日は夜遅くまで起きていた。そして、今朝は朝早く目が覚めた。
・昨日は夜遅くまで起きていた。しかし、今朝は朝早く目が覚めた。


接続詞で問われているのは、命題どうしの関係に内在する論理ではありません。命題どうしの関係を書き手がどう意識し、読み手がそれをどう理解するのかという解釈の論理です。

もちろん、言語は、人に通じるものである以上、固有の論理を備えています。接続詞もまた言語の一部であり、「そして」には「そして」の、「しかし」には「しかし」の固有の論理があります。しかし、その論理は、論理学のような客観的な論理ではなく、二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理なのです。

じつは、人間が言語を理解するときには、文字から得られる情報だけを機械的に処理しているのではありません。文字から得られる情報を手がかりに、文脈というものを駆使してさまざまな推論をおこないながら理解しています。わかりやすくいうと、文字情報のなかに理解の答えはありません。文字情報は理解のヒントにすぎず、答えはつねに人間が考えて、頭のなかで出すものだということです。

近年、言語学の世界では、人間が言語を手がかりに、表現者の意図をどのように推論するか、その推論過程を研究する語用論という分野が注目を浴びています。記号の組み合わせを機械的に処理することを暗黙の前提とした文法論だけでは、言語でなぜコミュニケーションが可能なのかという説明が不可能であることに、多くの研究者が気づきはじめたからです。そして、接続詞は、文のなかの情報を伝えるのではなく、文脈を使った推論の仕方を指示する役割を備えています。

接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

文章は接続詞で決まるは、全国の書店、オンライン書店で発売中です。電子版もあります。この機会にぜひ、お読みいただけたら嬉しいです✨✨

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!