『教育大国シンガポール』で5年暮らした研究者の現地からの報告――母親、子どもたちの葛藤、試行錯誤…|中野円佳
はじめに
2022年、春。麗らかな日差しに、風が吹くとまだ少し肌寒かった4月1日、私は自分の子どもたちと3年ぶりに、桜の咲く日本の公園にいた。我が子だけではなく、公園にいた子どもたちが夢中になっていたのは、花でもなく団子でもなく、子どもが落ちても大丈夫な程度の浅い、池と川の間のような水たまりにいる、おたまじゃくしだった。
3歳くらいの男の子や、それぞれにかわいらしく髪を結った小学生の女の子のグループが、網やペットボトルや木の棒でおたまじゃくしを探して、人工ではあるものの木の葉が降り積もって生き物たちのすみかとなっている川底を引っかき回している。我が子たちも、おやつの時間も水を飲むのも忘れて、2時間はその場を離れない。
正直なところ、日本に早めに帰ってきたいと思ったのは、こういうことをさせたかったからという面もあった。季節の草花や生き物の成長について、教科書やドリルで、これがホウセンカの種で、最初の葉っぱは何枚で……だとか、カエルの卵はどんな形で、足が生えたりしっぽが消えたりがどの順番で起こるか……と学ぶことの、なんと馬鹿馬鹿しく感じられることか。そういったことは、日本で暮らしていれば自然と目に入ってくるのではないか。
我が家は夫の転勤で、常夏の都市国家であるシンガポールに5年間暮らした。日本とは違った植物や生き物の様子が大人にとっては物珍しく興味深かったし、シンガポールで生まれ育つ子どもたちにとっては四季がないのも当たり前で、季節の移り変わりに従った植物の変化も、おそらく知らないと困ることではない。
でも、私の中では、とりわけコロナ禍で2年以上一時帰国すらできなくなってからは、日本の四季の豊かさを味わってほしいという気持ちが強くなっていた。とりわけ、出国前に5歳だった息子は虫取りが大好きで、シンガポールでもバッタをよく捕まえてはいたものの、虫取り網を振り回してトンボを何時間も追い掛け回したり、夏の夜にカブトムシを探したりする経験がしばらくできなくなり、しまいには室内に入ってきた虫にかなり拒否反応を示すようになってきていた。
今後、日本語中心で生きていくのであれば、子ども時代の経験が大いに読解力にも影響するのではないかとも思いはじめていた。これはあくまでも個人的な教育観であって、「我が子をグローバル人材に育てよう」という人の中には、賛同しない人も多いかもしれないし、ここで厳密にエビデンスに基づいた教育論は展開しない。
だが、たとえば日本語の文章を読んでいて、「あじさいが……」という描写があったときに、そもそもそれを花の名前だと認識することから始まり、これはだいたい6月頃の描写で、雨が降っているかもしれないといったようなことが、シンガポールで育つ我が子には想像がしにくくなっていくだろうと予想できた。
英才教育をするということではなく、自然に日本で暮らしていれば感じられること、経験できることを、経験させてあげられていない。小学校で朝顔を育てるとか、メダカを観察するとか、公平にもたらされる様々な機会が、日本の日常には豊かに散らばっているようにも思えた。そのような経験をコロナで2年以上逃してきた我が子に、日本の当たり前の豊かさを感じてほしい。そこに自分の仕事の都合も重なり、母子での帰国を決断した。
実際、我が子たちは、日本に帰るなり、道端にたんぽぽの綿毛があれば片っ端から吹き飛ばすのに夢中になり、蝶を見つければいつまでも追い掛け回すようになった。綿毛やおたまじゃくしに盛り上がれる子どもたちを見て、本当に帰ってきてよかったなと思った反面、私はどことなく罪悪感のような、胸のざわつきも覚えていた。
なぜか。平日の公園で子どもたちを見守りながら、こうしておたまじゃくしを取りにくることができるのは、ある意味で、春休みに子どもを公園に連れてくる「余裕」のある家庭の子どもだったりするのだろうか……と思ったのだ。
生活困窮層やヤングケアラーはもちろんのこと、たとえばシングル親家庭や共働き家庭であれば、春休みでも子どもに付き添う時間が限られるかもしれない。あるいは、経済的に豊かな家庭であっても、塾の春期講習やあれやこれやで忙しく予定を詰め込まれた子どもたちは、こういう体験をする時間があるのだろうか、と。
さらに、おたまじゃくしを持ち帰ってどのように飼育したらいいかを一緒に調べたりお膳立てしたりしてくれて、場合によっては絵日記に記録してみようかなんて促したりする親や祖父母がいるかどうかによっても、その体験から得るものには差が出てくるだろう。
その数日前に、ある塾を見学した際に、理科の授業で私より少し若そうな講師が「シロツメクサはみんな知ってるよね、王冠とか作ったでしょ」と言ったとき、新小学4年生たちが「え、ない」と首を振っていたことを思い出した。同じ講師が「花占いで、好き、きらい、好き、きらいとかやるでしょ?」と言ったときも、子どもたちは「何それ?」という反応だった。
あの講師と私には、シロツメクサの王冠も花占いも経験があり、話が通じた。でも今の小学生には通じていない。彼らにはその体験がないのだ。
都心に住み、シロツメクサが咲いている場所を通っていなかったのか、通っても「これはシロツメクサだよ。こうやったら王冠を作れるよ」と示してくれる大人や上級生がいなかったのか。大人も知らなかったのか。知っていたが時間の余裕がなかったのか。
私の胸がざわざわしたのは、1つは、このように私が「日本で暮らしていさえすれば自然に触れられる〝豊かな日常〟」と考えていたこと自体が、あくまでもそれに価値があるとすればではあるが、誰もが得られるとは限らない、ある意味で特権的な経験になっている可能性があるのではないかという一抹の不安からだ。
この特権は、都市部よりも地方、整備されたタワーマンションよりも空き地の多い住宅地に住んでいたほうが得られる可能性もあり、必ずしも経済的社会的地位を反映するものではないかもしれない。
一方で、そのような道端の動植物を見つけたときに、一緒に大人がいるか、反応してあげられる時間的余裕があるかという意味では、親の文化資本と時間資本があるかどうかといえるかもしれない。
もう1つの懸念は、誰もが得られる経験ではないにもかかわらず、仮に私が感じていたように読解力などに影響をしているとすると、こうした「子どもが時間を忘れて熱中して遊ぶ」こと自体が、親のエゴイスティックな戦略に基づいて用意されるようになってしまう、あるいはすでになっていて、自分もそれに加担しているのではないかというものだ。
「おたまじゃくしを捕まえる」経験が、今の子どもたちの中でどれくらいレアで、それが本当に価値があるものかどうかをここで議論したいわけではない。
でも「自分の子はシンガポールにいて全然経験していないから」と言いつつ、自分の子に自分が考える有利な道を進ませようと手を打つ親の一人にすでに自分がなっていて、なんだか構造を助長しているのではないかという気分の悪さが胸の中にじわりと広がった。
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2014年に、『「育休世代」のジレンマ――女性活用はなぜ失敗するのか?』という本を上梓した。
修士論文が基になった本だが、そのときの指導教官だった上野千鶴子さんに、呪いのようにかけられた言葉がある。細かい表現は忘れたが、「高学歴女性たちは、(仕事と育児の両立の)次は子どもの教育達成に悩みはじめるわよ」というようなこと。
本の基になった修士論文の調査をしていたのは2012年。当時インタビューをさせてもらった母親たちは、まだ子どもが乳幼児であり、私自身も、そして母親たちも、子どもの将来や教育のことを聞いてもピンときていなかった。
あれから10年。赤ん坊も、小学校4年生になっている。2~3歳だった子は、中学受験を迎えている。
おりしも、世界中で、子どもの教育競争をめぐる報道やドラマが話題になっており、中国や韓国では、子どもの教育のために専業主婦になる女性たちの様相が、研究者たちによって続々と報告されはじめていた。
やりがいのある仕事を育児で諦めないといけないのか、と問うた『「育休世代」のジレンマ』、つまり「仕事と育児の両立」から、これから母親たちは「仕事と教育の両立」問題に突入していく。その予想、そして上野千鶴子からの呪いのような言葉は、教育競争の最も激しい国の1つとされるシンガポールで、確信に変わっていった。
シンガポールというとどのようなイメージだろうか。日本を参考にせよとしていた時期もあるが、アジアの国際都市としての成功が語られる中で、日本をある面ではすでに追い越していった「未来都市」のように見ている人もいるかもしれない。
合理的で、小規模ゆえに賢くふるまう国。明るい北朝鮮ともいわれて、監視が厳しい国。リー・クアンユーのリーダーシップや建国論はよく見るけれど、その中で血の通った人々の生活をうかがい知ることのできる書籍は意外とない。
この本では、シンガポールの競争社会を取り上げる。もちろんシンガポール人が全員、教育競争に血眼になっているわけではない。階層や人種の差もあるし、たとえば同じ中華系の大卒の親たちの中でもかなりの多様性はある。
個々人の中にも葛藤があり、競争システムに巻き込まれていくことに対して、本音のところでは「点数だけが大事ではない」「子どもには幸せになってほしい」と疑問を覚えながらも、致し方なく子どものお尻を叩いているというケースも多い。
本書が主眼を置くのは、教育や家庭の在り方についての格差論ではなく、むしろミドルクラスの内部で起こっている矛盾や葛藤だ。
シンガポールで5年、生活をしながら調査をして見えてきたのは、色々とうまくいっているように見える中で葛藤している親たちの姿と、あまり表立って抗議はしないし問題と思っていない人も多いのだけれど、そこに静かに根差している男女の役割分担だ。
個人的な印象として、世界の教育の未来は決して明るくないと感じている。日本の熱心な保護者たちの、巷(ちまた)にあふれる教育本や教育論への反応を見ていると、時に絶望的な気分になる。
「親がしっかりしなければ」「家庭での日々の声かけが大事ですね」――。親になるハードルを次々上げて、しかも社会全体としては階層の再生産につながるのに、子の教育を自己責任の世界にしてしまう論調。
それは果たして誰を利することになっているのか。誰の犠牲のもとに成り立つのか。誰の葛藤をないものにしているのか。
日本は専業主婦前提社会から、徐々に共働き社会に移行しつつあるが、そこでミドルクラスの共働き家庭がぶつかる課題は、他国と同じように「子どもの教育」になっていくのだろうか。
日本の望む未来はどこにあるのか。シンガポールという、実験国家のような興味深い国で起こっていることは、日本の近未来だろうか。あるいは、ここは日本がすでに取らなかった道を進んだパラレルワールドのような場所なのだろうか。
それに代わる未来までを導き出すことを本書は目的としていない。今あるがままを描くのがジャーナリストの1つの役割だと思っている。今、何が起こっているかを記述することで、読者の方々に何らかの示唆を得てもらえたら幸いである。
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教育大国シンガポール 目次
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以上、光文社新書『教育大国シンガポール――日本は何を学べるか』(中野円佳著)より一部を抜粋して公開しました。
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