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松尾匡が読みとく「国の債務も消費者の債務も帳消しにする意義」

 一方が提示する条件をそのまま受け入れるしかない契約を「付合契約」という。条件に異議がなければよいが、フランチャイズ契約にしろ労働契約にしろ、実質的に契約=命令となってしまっているケースが現実には存在する。交渉の余地がなく、「嫌なら辞めろ」と言われるだけの場合がそうである。さらに本人が頭では納得していても、心身の奥底では悲鳴をあげている場合もあるだろう。これを松尾さんは「考える私/感じる私」という二分法で表現している。
 債権債務関係は通常、お互いの自由意志に基づく正当な契約であると見なされる。したがって、「借りた金は返さなければならない」という倫理は誰もが疑わない正義となっている。しかし、「借りるしかない」という状況に追い込まれた者が債務(借金)を作る場合はどうだろうか。先進国(IMF)が途上国へ、ドイツ(銀行)がギリシャへ、経済力の格差を利用して債権債務関係を作りあげたように……。
 この章では、松尾さんによる〝借金〟についての多層的な考察が展開されている。(文/本書の共著者・高橋真矢さん)
(以下、松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ』、第二章「債務棒引き制度はなぜ、どの程度必要か」(文/松尾匡)より一部アレンジして抜粋)

「感じる私」と「考える私」

 歴史的に存在してきた奴隷の多くは、元来債務奴隷である。もしお金の貸し借りの契約が当事者の自由にまったく任せられるならば、自分の身を抵当として、事実上の奴隷状態になってでも返済するという契約はいくらでも生まれるだろう。

 いったん巨額の負債を抱えると、その契約前の状態に戻って選択を吟味しなおすことが半永久的にできなくなるならば、それはやはり「試行錯誤」という、自己決定の尊重が成り立つ基盤がなくなってしまうということである。意思決定を振り出しにもどすことが保証されるためにも、破産制度のような、債務棒引きの制度は必要である。

 もちろん、今の話は「感じる私」にとっての自由のことである。「考える私」にとっては、借金をするという意思決定をしたならば、その他人に与える影響について自分で責任を引き受ける義務がある。
 ジャイアンが友達から漫画本を借りたまま返さないというのでは、返してもらえない友達に与える悪影響が放置されてしまう。誰かが借金を踏み倒したせいで人生が暗転した人は過去何人もいただろう。
 その意味では、契約どおりに守らせるというのも必要なこと、ということになる。グレーバーの『負債論(*1)』では、「借りた金は返さなければならない」という倫理と、「金貸しは悪である」という倫理の、矛盾する二重倫理が、古今東西並立してきたことが指摘されているが、個人の自由な選択を尊重する社会においても、この互いに矛盾する二重倫理が続くのは合理的だということになる。


 では実際に、個々のケースにおいて、借金を払わせるのか帳消しにするのかは、どう判断するべきなのだろうか?

 現実の運用基準に落とし込むにはいろいろ難しいこともあるだろうが、考え方としては私見は明瞭である。意思決定にともなう責任は、意思決定の影響力に比例する。これは個々の契約の、確定できる直接の結果にとどまるものではない。間接的な影響も含むし、契約を結ぶか結ばないかということ自体に影響を及ぼすメタな意思決定の影響力も含めて評価しなければならない。
 この影響力が強いほど、自分の意思決定が契約相手や、第三者に与える影響について責任を負うべきだということになる。そうでない者であるほど、「試行錯誤」の機会が保証されるべきだということになる。
 しかし現実の社会は、「考える私」が「感じる私」から乖離して、その内実が「私」ではないものの「考え方」(制度・命令・しきたり・学説・思想信条・通帳のなかの数字等々)に乗っ取られて「感じる私」を支配抑圧し、しかも、そのことが高尚でいいことのようにみなす苦しい社会である。だから、ただでさえ「借りた金は返さなければならない」の倫理の方にバランスが傾きがちである。
 その上実態は、「考える私」の内実を乗っ取っているのは、だいたいのところ、決定に影響力のある一部の者が考えたことである。この資本主義経済のシステムは、生産に関する決定を、影響力のある一部の人、ブルジョワジーが握る階級社会なのである。だから、件のバランスは、一部の影響力の強い人たちに都合よく決められるのが現実である。庶民が借りた金は、学生支援機構のような公的機関が率先して容赦なく取り立てる一方で、強大な影響力のある金融機関が巨額の借金を抱えても公金を投じて救済されるのはそのためである。

バンク(銀行)が自由を圧殺する

 さて、個人が自由意志で契約した貸借契約ですら、真に個人の自由を守るためには借金棒引きの制度が必要なのだから、ましてや個々人があずかり知らぬところで勝手に決められた貸借契約の結果の債務に、個々人が運命的に縛られ続けるなどということがあっていいわけはない。
 ところが、そんなことを大々的にしてきたのが、世界の自由体制の守護者たちだった。『負債論』は、1970年代のオイルショック後に産油国から集めた膨大な資金を、先進国が発展途上国に無理やり貸し付けた話から始まる。1980年代にアメリカの金融引き締めで発展途上国は債務危機に陥り、IMF(国際通貨基金)が乗り出して緊縮財政を強要し、貧困や社会の崩壊が蔓延し、先進国の大資本が公共資源を略奪していった。

 同じような話は何度も繰り返されたが、近年のとりわけ騒がれた例がギリシャをはじめとする南欧の債務危機である。ドイツが雇用の流動化を進めて相対的な低賃金を実現し、統一市場になった南欧に抜群の国際競争力で売り込んでくる。

 普通ならこれらの国の通貨が安くなって守られるのだが、ユーロに入ってしまったものだから太刀打ちできず産業が壊滅する。売り物がないのにドイツ製品を売らなければならないから、ドイツなどの銀行が金を貸してドイツ製品が売れるようにする。そうして借金を膨らませた結果が南欧債務危機なのである。

 ギリシャ急進左翼党政権が債権団に屈服する前、財務大臣として債権団に立ち向かったバルファキスの言葉によれば、半世紀前のギリシャ軍事クーデターではタンク(戦車)が自由を圧殺し、現代ではバンク(銀行)が自由を圧殺したのである。緊縮政策の押し付けで、年金も医療費も公務員も大幅カットが続き、空港も港湾も国有資産は次々と外資に売り払われ、水道や遺跡の民営化も押し付けられ、大衆増税が行われ、GDPは最大約3割減、給料は払われず、失業者はあふれ、職が見つからない多くの若者が国を去っていった。自殺者も激増した。

国の借金は棒引きすべきだ

 ギリシャはもっとも典型的なひどいケースだが、実は先進国どこでも同じような状態にある。

 日本など、国の借金の債権者は日本の公衆である。国債を担保に作られている預金通貨を持っている我々なのである。それなのになぜか債権者の我々が金を返せと言われて、自分のあずかり知らぬところで決まった借金を返すために、社会保障の抑制や教育・科学・医療等々の予算削減や消費税増税の犠牲を被り、それらの政策のもたらす経済停滞で失業や倒産や賃金抑制にあえがなければならないのである。

 別章で説明するとおり、現代経済では、貨幣は借金によって作られる。企業が設備投資のために銀行から借金をすると、その借金の額が預金口座に書き込まれ、それが設備投資の支払先の預金口座に振り込まれて、世の中に決済手段として流通していくのである。
 逆に言えば、企業がこの借金を銀行に返すと、預金がその分消えて、世の中から貨幣が減ってしまう。しかし実際には、機械や工場が存在し、利子が払われるかぎり、普通は借金は返されることはなく借り換えられるので問題はない。
 経済が成長し続け、機械や工場を拡張するための、あるいは新企業が生まれるための、新たな設備投資が起こるかぎり、その分は新たな借金が増えるので、世の中から貨幣が減ることはない。

 しかし、経済が成熟した先進国では、設備投資から得られる利益はますます少なくなっている。また、労働力人口が成長しないので、完全雇用で天井が押さえられた長期的なタームでは経済全体で機械や工場を拡張できなくなる。だから設備投資のために借金する動きは停滞してしまう。そうなると、長期的に見て世の中に貨幣が出なくなるということになる。
 それでは困るので、世の中に貨幣を出回らせるためには、政府が借金するか消費者が借金するかしかない。ところが消費者が企業と違うのは、利益を生み続ける実物資産があるわけではないので、永久に借り換え続けることはできないということである。必ず返さなければならない。それゆえ消費者に貸して貨幣を増やす方法は、どこかで行き詰まって貨幣が縮小しだすことになる。そうしたら恐慌である。そうなったら今度は国が借金することで貨幣を作るほかない。

 このように、現代資本主義経済の都合上いやおうなく、消費者の借金を膨らませ、それが潰れて国の借金を膨らませたわけなのに、その結果は、個々人を鎖に縛って債務奴隷化して借金を返済させた一方、グローバル大資本が資産を奪ってまる儲けすることになるわけだ。世の中から貨幣を減らす行為であるにもかかわらず。理不尽きわまりないことではないか。

 そう、だからグレーバーの『負債論』は、国の債務も消費者の債務も帳消しにせよというアジテーションで終わるのだ。そしてそれがゆえに、この本は、債務のくびきからの解放を願う人々や、いずれそうなるかもしれない予感のもとにそれと連帯する人々から、反緊縮闘争のバイブル扱いされたのである。

 かくして欧米の反緊縮闘争は、国の借金は返すべきものであるという財政規律論との闘いを、そのベースとするものになる。それを支える経済理論にはどんなものがあるのか。その中からは、借金によって貨幣が生まれる現代の貨幣制度のあり方に対する、ラジカルな批判にまで至る流れが生じないわけにはいかない。それは章を改めて詳しく検討することにしよう。

*1 デヴィッド・グレーバー『負債論 貨幣と暴力の5000年』酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳、以文社、2016年

著者プロフィール

松尾匡(まつお ただす)
1964年、石川県生まれ。'87年、金沢大学経済学部卒業。'92年、神戸大学大学院経済学研究科博士課程後期課程修了。経済学博士。久留米大学経済学部教授を経て、2008年、立命館大学経済学部教授。著書に『自由のジレンマを解く』『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(以上、PHP新書)、『この経済政策が民主主義を救う』(大月書店)、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(共著、亜紀書房)、『新しい左翼入門』『左翼の逆襲』(以上、講談社現代新書)などがある。

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資本主義から脱却せよ◆目次

【プロローグ】私たちの「借金」とは何か?(高橋)
【第一章】そもそも、お金とは何か?(高橋)
【第二章】債務棒引き制度はなぜ、どの程度必要か(松尾)
【第三章】現代資本主義の問題点(井上)
【第四章】私たちは何を取り戻すべきなのか(高橋)
【第五章】銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ(井上)
【第六章】信用創造を廃止し、貨幣発行を公有化する(松尾)
【第七章】「すべての人びと」が恩恵を受ける経済のあり方とは?(高橋)
【第八章】淘汰と緊縮へのコロナショックドクトリン(松尾)
【第九章】「選択の自由」の罠からの解放(高橋)
【第十章】「考える私」「感じる私」にとっての選択(松尾)
【第十一章】脱労働社会における人間の価値について(井上)
【エピローグ】不平等の拡大と個人空間化(高橋)

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