精子は「孤独な戦士」。ナノスケールの〝戦場〟で起きていること
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精子は「孤独な戦士」。ナノスケールの〝戦場〟で起きていること

筑波大学下田臨海実験センターの稲葉一男教授は、30年以上にわたって「細胞の毛」の研究を行ってきました。私たち生命は「毛」なくしては生きていくことができません。具体的には、「繊毛(せんもう)」と「鞭毛(べんもう)」と呼ばれる「細胞の毛」です。これらの「毛」は、体づくりや生体維持に重要な働きをしています。また、精子は尻尾のような形の「鞭毛」を動かして卵に辿り着きます。つまり、「毛」なくして私たちは子孫を残すこともできないのです。稲葉教授は、この微細な「細胞の毛」を手がかりに生命の起源や進化の謎に挑んできました。そして、研究生活の集大成として『毛―生命と進化の立役者』(光文社新書)をこのたび上梓しました。発売を記念して、本文の一部を公開いたします。

細胞の毛とは

私たちには髪の毛、胸毛、すね毛、鼻毛、耳毛など、体にいろいろな毛が生えています。目に見えて目立つので、私たちは何かと気にしてしまいます。しかし、目に見えないために、普段目立たず気にもされない毛があります。それが「細胞の毛」です。

「細胞の毛」とは「鞭毛(べんもう)」とか「繊毛(せんもう)」と呼ばれる、細胞から生えている小さな毛状の構造です。精子やゾウリムシが活発に動き回るのに必要なのが細胞の毛です。単調に動いているだけでなく、止まったり、活発になったり、方向を変えることもできます。私は、小さな毛が高速で波打って動く様子を見ると、生命のエネルギーを感じないではいられません。

この体内の細胞の毛の中で、わりと知られているのは、気管にある細胞の毛でしょう。空気中の細菌やウイルスが体に入ってきたときに、それらを追い出そうと、気管でさかんに動いている繊毛の映像をテレビのコマーシャルなどで見たことはないでしょうか。

この細胞の毛を動かすには、水分が必要です。細胞の毛は水の中にいるときこそ、動くことができます。だから、乾燥する時期は、部屋の湿度などを上げたりマスクなどをして気管を潤しておくことが重要になります。十分な水分があってこそ、繊毛は最大限に力を発揮することができ、空気中から入ってきた細菌やウイルスを追い出してくれるからです。また、うがいが推奨されるのも、口内や喉を洗い流してきれいに保つ以外に、喉を潤して気管の繊毛のまわりの水分を保つ意味があります。

この毛の研究が進んでくると、細胞の毛が私たちの体のあらゆる臓器に存在し、病気にも深く関わっていることがわかってきました。運動する能力を捨てて、周りの環境を受け取るセンサーとして働く繊毛もあります。もちろん、海や川など、水の中で暮らすほとんどの生き物の営みに大切な存在です。さらに、この毛は、単細胞の頃から私たちヒトに至る生命の進化の鍵を握っているかもしれないこともわかってきました。

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サイエンスは身近にある

本題に入る前に、私個人のことを少し話させてください。

私は、山梨県の南部町という田舎町で生まれ育ちました。幼少時代は、弟や近所の子どもたちと山や川、田んぼで、動物や植物をとることに明け暮れていました。毎日が発見でした。これらの生き物の美しい姿を見ると、いまでもワクワクしてしまいます。また、まわりには外灯がほとんどないところでしたので、美しい夜空の星を見ながら、宇宙にも思いを馳(は)せていました。

この地球で目にする自然は、実に美しく、私たちに感動を与えます。

それらの美しさの奥にあるものは何でしょうか。それを考えると、さらに先にある見えないものを見たいという気持ちが生まれます。

何かを不思議に思う気持ち、それはサイエンスのはじまりかもしれません。「鳥はなぜ飛ぶの?」「魚はなぜ水の中で平気なの?」「他の星には生き物はいるの?」――。

こうした疑問は、皆さんが子どもの頃に抱くごく普通の疑問です。この疑問、それを知りたいワクワク感、ドキドキ感からサイエンスは生まれます。だから、サイエンスは皆さんのすぐ身近にあるのです。

見えないものを見ようとするのは、科学者だけではありません。

私は小さい頃から釣りが大好きです。それは水の中が見えないために、あれこれ考えたり、想像したりするのが楽しいからでしょう。魚の反応を考えながら仕掛けを工夫するのも楽しいですし、釣りのときの魚信(魚のアタリ)の出方も面白いです。掛かったときのやり取りは最も興奮する瞬間です。

どうしてそれほど興奮するのか。それは、餌を投入しても魚がどのような反応をしているのかが見えないからです。見えないものをあたかも見ているかのように想像するのが楽しいのです。釣りだけでなく、芸術でも歴史学でも音楽でもなんでも、アプローチするときから結果を得るまでのステップは、すべて共通でワクワクします。

本書のテーマである細胞の毛も、普通は見えません。細胞ですら小さな存在なのに、そこに生えている毛なんて、肉眼で見るのはとうてい無理です。しかし、顕微鏡が発明され、細胞や小さな生き物が見えるようになりました。顕微鏡の下で激しく動いている小さな生き物を見たら、「何が、どのようにして動いているのだろう」という疑問が生まれます。それが、小さな世界をのぞいてみたいというきっかけになるのです。

小さな世界をのぞくと、これまで目にすることがなかった新しい形が見えてきます。生物の形を作っている分子を調べると、分子にも面白い形があることがわかります。それらが集まって、また面白い形を作り出します。このように、知りたいという気持ちは、さらに分子から原子、量子、ついには数学の世界までいきつきます。形の意味はなんだろうかと考えると、今度は働きを知りたくなります。そして、働きの持つ意味を考えると、分子から細胞、細胞から組織や個体、さらには行動や生態系、地球まで、逆方向の世界も広がっていきます。

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精子の使命

まず、本書で伝えたいことを書くとすれば、それは「細胞の毛」なしに我々は生きられないということです。我々というのはヒトだけではありません。同じ地球上で一緒に住んでいる他の生き物、ほぼすべての生き物のことです。そもそも、細胞の毛がなかったら、生き物の多くは存在していないでしょう。ヒトもそうです。なぜなら、もともとは、生殖を含め、細胞の活動のほとんどが細胞の毛に依存していたからです。

本書では、細胞の毛については、精子の話から始めたいと思います。細胞の毛を研究してきた私から見ると、精子はまるで細胞の毛を持った「孤独な戦士」のように見えるのです。精子は、生殖に必要なオスの生殖細胞です。オスの遺伝情報をメスの卵細胞に届けるのが精子の最大かつ唯一の使命です。

数ある細胞の中で、体から離れて働くことを運命づけられた細胞は、我々ヒトなどの哺乳類では、精子だけです。細胞にとって、体内は心地のよい環境で、それぞれの細胞はそこで必要な水分や物質を安定的にやり取りしながら、それぞれが担っている役割を果たしていきます。しかし、精子は体の外に出て、体内とはまったく異なる環境に入っていくのです。細胞から見れば、そこは危険に満ちた戦場のような場所と言ってもいいでしょう。そんな場所に放り出されて、メスの卵細胞を目指して命がけで駆け抜けようとするのが精子であり、まさに孤独な戦士です。

この戦士が持つ唯一の武器こそ、細胞の毛である「鞭毛」です。これは細胞膜が変形したもので、精子はこの細胞の毛だけを頼りに、危険に満ちた環境に飛び込み泳いでいきます。もし、あなたが精子のパイロットだったら、この細胞の毛に感謝しないではいられないでしょう。エンジンであり舵(かじ)でもある細胞の毛が動くことで目的地を目指すことができるからです。さらに、もしあなたがこの精子のエンジンと舵を点検できるメカニックだったら、そのメカニズムを見る度に感動しないではいられないでしょう。1マイクロメートルよりも小さいナノスケールの世界に、どうしてこんな精巧な仕組みが存在し得るのかと、思わず息をのむに違いないと思います。

そのような超微細で高性能なエンジンを載せた精子の中で、過酷な戦場を生き抜き、最初に目的地にたどり着いた精子だけが卵細胞の中に入ることができて、次の命に自分の遺伝子情報を伝えることができます。実は、目には見えない小さな毛が、私たち生き物が次の代へと命を紡いでいくのを左右しているのです。

毛✩目次

【第1章】孤独な戦士「精子」
【第2章】体内の毛なしに生きられない
【第3章】毛のルーツは生命のルーツ
【第4章】美しいナノ構造のひみつ
【第5章】波打つ仕組み
【第6章】細胞の毛は環境問題につながっている

著者プロフィール

稲葉一男(いなばかずお)
1962年、山梨県生まれ。筑波大学下田臨海実験センター教授。静岡大学理学部生物学科卒業。東京大学大学院理学系研究科相関理化学専攻修了。理学博士。東京大学助手、東北大学助教授を経て現職。30年以上、三つのマリンステーションで研究教育に従事。マリンステーションの国際連携にも長年取り組む。専門は細胞生物学、生殖生物学、海洋生物学。趣味は釣り、自然・天体観察、写真撮影、山菜採り、料理など。共編著に『Japanese Marine Life -A Practical Training Guide in Marine Biology』(Springer)などがある。
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