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作家・角田光代さんに「読書は人生に必要か」を尋ねたら|三砂慶明『読書を考える旅』第1回

本の声をきく、物語のはじまり

「おすすめの本を教えてください。」
「本を読みたいけど、なかなか読む時間が作れません。」
「昔は本を読んでいたけど、最近は集中力が落ちて、だんだんと読めなくなってしまって。他の人はどうやって読んでるんですか?」
「カフェや電車で本を読んでいる人に憧れます。私もスマホじゃなくて、かっこよく本が読める人になりたい。」
「小説を読んで、感動とか、 いやされたりしたことないけど、これって私だけの話ですか? ほかの人からも似たようなことを聞くことありますか?」
「今月、二十ページ、本が読めました。めっちゃ嬉しい。もっと読みたい。本を最後まで読み切ったことがないのですが、私に読める本ありますか?」

 これらの言葉は、私が働いている書店や担当している創作講座、定期的に開催しているイベントや読書会で聞いた、本を読む人たちの声の一部です。
 私は書店で働きながら、「読書室」という屋号で読書の魅力を伝えることを生業 なりわいにしています。書店で働いていたときの相談もあわせると、十年間で約三千人の読書の悩みを聞いてきました。その声の多くはビジネスパーソンですが、それ以外にも学生や、子育てが一段落した女性、定年して今まで読めなかった本を読み直そうとする六十代から八十代の方からお話を伺ってきました。
 ただし、私の生業 なりわいが本の紹介なので、相談に来て下さる方は、すでに本や読書に何らかの興味や接点がある方がほとんどです。だから、相談内容にはそもそも かたよりがありますが、私のもとに寄せられる読書の悩みは、大きくわければ三つに分類できます。

 一番多いのは、おすすめの本を教えてほしいという質問です。そもそも本が多すぎて、何から読めばいいかわからない、という悩みが背景にあるのだと思います。
 二つ目は、読みたいけど読めない。日常生活が用事で細切れになっていて、まとまった時間がとれない。集中力が続かない。本の内容が理解できないという悩みで、どうしたら読めるようになるのかという相談です。
 三つ目は、SNSとかじゃなくて誰かと本について話したい、という相談です。本の交流会や読書会は、近隣の図書館や書店、オンラインで開催していることも多いのですが、普段、本を読まないことに引け目を感じていたり、読書会に参加したことがないなどの理由で、きっと不安なのだと思います。

 私は、こうした悩みや相談に答えながら、日々、お客様におすすめの本を紹介してきました。ですが、話を聞き、自分なりに本を紹介していて感じたのは、みなさんが本当に知りたいのは「おすすめの本」ではなくて、「自分の本」のことでした。そして、どうしたら自分の生活の中で本が読めるようになるのか、という問いです。
 みなさんから寄せられる、「どんな本を読めばいいのか」「読みたいけど読めない」「一人で読み続ける孤独」という三つの悩みは、極言すれば、「どうすれば本とともに生きられるのか」という切実な問いでもあります。この問いに答えたいと、自分なりに本を読み、対話し、考え続けてきましたが、はっきりとした答えを出すことができませんでした。

 私はずっと本に助けられて生きてきました。
 でも、私自身は本に助けてもらおうと思って、本を読んだことはありません。
 単純に楽しそうだから、面白そうだなと思って、手に取り、読んできました。
 知らないことを知るのは楽しかったし、分からないことは分かるようになりたいと思って、椅子に座り、 ページをめくってきました。ですが、どれだけ本を読み、考えても、「どうすれば本とともに生きられるのか」という問いと向き合う糸口を見つけることはできませんでした。
 かつて本を読んでいた人が、あるいはこれから本を読みたいと思っている人が、一体どうすれば本とともに生きられるようになるのか? 
 考えても答えが出ないのなら、いっそのこと、そのヒントを探るために、本とともに生きている人たちのもとを訪ねてみたらどうだろうと考えました。
 本を書いた人や作っている人、使っている人、届ける人、読んでいる人の現場をたずねて、なぜ本が必要なのか、必要なのだとすれば、一体それはなぜなのか、をまっすぐたずねてみる。自分一人で考えるのとは違う、思いがけない視点や考えと出会うきっかけをいただけるかもしれない。まだ誰にも話を聞いていないのに、そこに読書の本質にせまるヒントがありそうな気がしました。

 もちろん、本は生活必需品ではありませんし、読まないといけないものでもありません。実際、2023年度の「国語に関する世論調査」によれば、日本では1カ月に本を1冊も読まない人は6割を超えています。本を読む人よりも、本を読まない人の方が多い時代です。
 だから、ことさら本が必要だと訴えたり、本を神聖化したり、普遍化するつもりはみじんもありません。そうした窮屈な話がしたいのではなく、あくまで自分の目の前にいる人たちの疑問に答えるためのヒントを探したいのです。

 読書を考える旅について考えはじめたときに、真っ先に脳裏に浮かんだ人がいました。
 作家の角田光代さんです。角田光代さんの本には中毒性があって、新刊がでるたびに思わず追いかけて読んでしまうし、一度読みはじめたら読むことをとめられません。
 私が読書の相談に乗ってきた何人かの高校生や大学生からは、学校の図書館で読んだ角田光代さんの『さがしもの』がきっかけで本が好きになった、と教えてもらいました。
 また、NPOの現場で働いている人からは『タラント』に励まされた、まさに自分自身のことを読んでいるような小説で、くさくさしていた仕事の不満や不安がこの本を読んで消えた、と激しい共感を示してくれた人もいました。
 『Presents』という作品を贈られて、それがきっかけで結婚したという女性もいました。
 角田光代さんの作品は、読んで面白いだけではなくて、読んだ人を変えてしまう力があります。もちろん、それだけではありません。
 私がなぜ角田光代さんに会って話を聞いてみたいと願ったのか。それは、自分自身が作品のファンだからという理由もありますが、角田光代さんのエッセイを読んでいると、本とともに生きていらっしゃるという強い印象があったからです。

 作り付けの本棚に整然とおさめられた本。洗面所やダイニング、キッチンとありとあらゆる生活空間の中に配置された本たち。どのように複数の本を同時に読んでいるのか。どういう時間に、どういう場所で、どのように本と付き合っていらっしゃるのか。もしお話を伺うことができるのなら、聞いてみたいことがたくさんありました。
 何より聞いてみたいと思ったのは、角田光代さんのエッセイに何度も つづられている、「本に呼ばれる」という体験です。私は本を売ること、紹介することを生業としてきたのに、はずかしながら一度も本に呼ばれた経験がありません。だから、私自身も本に呼ばれるようになりたいし、本の声が聞こえるようになりたい。どうすれば本に呼ばれるようになるのか、その具体的な方法を伺ってみたい。角田光代さんのように本とともに生きることはできないとしても、そのヒントを得られたらと願い、読書の対話をはじめたいと思います。

角田光代(かくたみつよ)さん
1967年神奈川県生れ。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1996年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、2003年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、2005年『対岸の彼女』で直木賞、2006年「ロック母」で川端康成文学賞、2007年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、2011年『ツリーハウス』で伊藤整文学賞、2012年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、2014年『私のなかの彼女』で河合隼雄物語賞、2021年『源氏物語』(全3巻)訳で読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞。著書に『キッドナップ・ツアー』『くまちゃん』『笹の舟で海をわたる』『坂の途中の家』『タラント』他、エッセイなど多数。

人生に本は必要なのか?

——お聞きしたいことが沢山あります。まず一番初めに伺いたいのは、ひどく抽象的になってしまうのですが、「人生に本が必要なのか。必要だとすれば、いったいそれはなぜなのか」ということです。たとえば、ご著書『物語の海を泳いで』には、
「どこにでも本がある。昔からだ。風呂場にもトイレにも寝室にも本がある。活字中毒だからではない。読むものがないと、退屈なのだ。ただ風呂に入る、ただ歯を磨く、ということが退屈すぎて、できない。でも本を読みながらなら、さほど苦にならずにできる。」(24頁)
と書かれています。ご著書を拝読するなかで、先生はいつも物語の海を泳いでいると感じました。そういう先生にとってそもそも「本を読む」とはどういうことなのか、まずお聞きしたいです。

角田 本というのは私の生活のかなりの部分を占めているし、私の人生とは切っても切り離せない縁にあることは確かです。ただ私の場合は本といっても小説に限るんですね。三砂さんや奈良さん(注・独自の選書で「書店員の聖地」と呼ばれ、2023年に閉店した鳥取の独立系書店、定有堂書店の店主奈良敏行さん)のお読みになっている本の幅広さを拝見していると、私の読書傾向は本好きとは言えないくらい かたよっているんです。
おっしゃるとおり自宅にはいろんなところに本が置いてあって、でもそれはすべて小説で、置いてある場所に世界が一つずつあるという感じなんですね。
たとえばある場所には江國香織さんの新刊『川のある街』が置いてあって、その小説のなかではカラスの視点で書かれている個所があるんですが、そうするとその世界では自分もカラスの世界に入っている。
また、鞄の中には橋本治さんの短編集が入っています。いま読んでいる短編では男の子ふたりが温泉に行ってるんですが、ひとりはヘテロセクシュアルというか、恋愛対象は女の子。もうひとりの語り手の方が、自分は男が好きだと気付いてしまうんです。それでその二人が温泉に行ってどうなるか……というところなんです。
だからいつも物語の続きが至るところにある感じ。それがなかったら辛すぎる。(笑)
 
——それは物語の扉から出たらその世界から外に出られて、また扉を開けるとその世界に戻れるということですか?

角田 そうです、そうです。映像や音楽のようにポウズをかけて一時停止するけれど、またそこから再開する感じ。

——行って戻ってくることはどうして必要なのでしょう。いまここにいるのに、なぜ別の世界に行かなければならないのでしょうか?

角田 それはたぶんこの世界がつまらないというか、辛いんだと思うんですよね。自分が見ている現実しかないということに耐えられないんだと思います。
だから旅行に似ているのかもしれないですね。音楽とか、映画とかというよりは、やっぱり旅行が近いのかな。パリならパリで、そこに行くとそこで生きている人がいて、自分が行くことでその確実性にれられて帰ってくる。帰ってきたらもうパリを知る前には戻れない。そんな感じが、たぶん私にとってまさに本と似ているかなと思います。

——なるほど、たしかに似ています。もう少し質問させてください。先生は『私たちには物語がある』という本の中で、
「スポーツをする。ゲームをする。レストランでおいしいものを食べる。温泉に入る。そういうことと、本を読むということは、あまりかわりがないように思われる。スポーツしなくても、ゲームしなくても、おいしいもの食べなくても、温泉に入らなくても、ぜんぜん問題なく生きていけるが、けれどそこに何かべつのことを求めて、それらのことを人はする。そのなかに、本を読むという行為も含まれている。そうして、本を読むのは、そのような行為のなかで、もっとも特殊に個人的であると、私は思っている。そう、だれかと一対一で交際をするほどに。」(18頁)
と書かれています。私たちが本を読む中で求めているのは、いったいどういうことなんでしょうか?

角田 うーん、それはきっと〝人生の真実に触れる方法〟のようなことだと思います。だれかとすごく濃く付き合うというものやっぱり人生の神秘に触れるようなところがあって、本を読むということは、それに非常に近いような気がします。人生の真実に触れる方法って、人によっては美味しいものを食べるとか、映画を見るとかでもいいんですが、本を読むというのもその道具の一つかな、と思います。

——極論をいえば、私たちはその人生の真実や神秘に触れなくても生きていけるじゃないですか。なぜそういうものに触れることを求めてしまうんでしょう。

角田 そのことの大前提として、多分、本を読む人と読まない人ってはっきり分かれているじゃないですか。本を通して人生の本当のことに触れたいと思う人というのは、本を読んでそのことに触れたという原体験があるから、また本を読もうとするのであって、それは映画でもゲームでも同じことで、どこに原体験あるかで人によって異なるんじゃないでしょうか。
本を読んで魅了されたという原体験が、多分子供のころにあったから人は本を読むのであって、だから私が「別に本じゃなくてもいい」というのは、たとえば三十歳になった人に本には人生の真理があるよ、と言っても、三十になって突然読もうとしても、やっぱり真実の見つけ方が分からないんじゃないでしょうか。
人生の真理に触れると言ってもそうたいそうなことじゃなくて、たとえば夕陽を見て泣いちゃうとか、そういうことなんだと思う。夕陽を見て泣いているときになんで泣いているんだろうって考える人もいるけど、考えずに「ああ、きれいだった」と言って終わる人もいて。でもそれが私は人生の神秘に触れる経験だと思うんですよね。それって本を読んでいてもある。夕日がきれいという気持ちを、言葉にならなくても同じ気持ちがある。

——何か圧倒的に大きなものに直面するということでしょうか。言葉にする、しないに関わらず、感じることがどこかにある、という。

本を読むことと正解を探すことの違い

——先生が『ポケットに物語を入れて』の中で書かれている「テスト脳」のことについて伺いたいです。私たちは「次のうちから正解を選びなさい」というテストを子供のころから繰り返し受け、正解を選ぶ教育を受けています。その影響で「書物にも正解がある」と無自覚に思い込んでいる人は多いのではないかと思いました。
たとえば、いまよく使われている生産性とか、効率とか、目的みたいな言葉って、たどりつくべき答えがある話ですよね。タイパ(タイムパフォーマンス)とか、コスパ(コストパフォーマンス)も最短ルートでどうやって正解にたどり着くかみたいなことの裏返しなんじゃないかなと思います。でも実際、僕たちの生きている社会って、これをやったら絶対正解ということもないじゃないですか。でもなぜ正解があると僕たちは思い込んでしまうんでしょうか。それはやっぱりテストのせいでしょうか。

角田 そうですね。教育なんだと思います。どこかに正解があるという教育を受けてきたから。そういう教育を受けると、正解がないことはこわいことになるのかもしれませんね。自分で考えたことが、ただしいのかまちがっているのか、わからないから。

——そうすると、本を読むことと正解を探すことの違いって、どこから出てくるんでしょうか。たとえば旅なら旅で、あらかじめパリの名所旧跡を調べておいてそこをなぞるような旅と、パリに暮らしている人々の生活に触れようとする旅とは おのずと違いますよね。

角田 何か正解を求めて読む人は本は役立つものだと思っているフシがある。でもこと小説に関しては役に立たないというほうが正しいんです。ここは小説と、三砂さんや奈良さんがよくお読みになっている人文系の本とは多少違うところがあると思うんですけれども。小説に関して言えば、役に立たないし、忘れちゃうし、積み上がらないし。

——自分で言ってて矛盾しているのですが、でも、それでもわかりたいし、答えが欲しいと読んでいて思うこともあります。
自分の感性で読んでいいんだというふうに、どうしたらなれるんでしょうか。

角田 なれると思いますよ。答えがなくていいんだって思えば(笑)。

——答えを捨てる(笑)。

角田 それに終わりの不思議な本っていっぱいあるから、とくに純文学とか、そういうのをたくさん読んだらいいと思う(笑)。

——以前お話を伺ったときに、純文学とエンターテインメントのお話を伺いました。
銀行強盗の比喩を使って、純文学であればやっぱり内省的で、その動機とかをさぐりますが、エンタメであればどこから入ってどういう風にお金を奪ってどうやって出て行くのかという描写がないといけない、というお話でした。
純文学とエンターテインメントの違いが私としてはとてもに落ちました。先ほどお話いただいた、人生の神秘に触れる経験は、エンターテインメントで実現できるのでしょうか。

角田 銀行強盗のたとえは、文芸誌で川上弘美さんと穂村弘さんと対談させていただいたときに出た話ですね。純文学だと、具体性を伴わなくても成立する、銀行が出てこなくても成立することが可能だけれど、エンターテインメントだと、銀行、それから強盗する手順という現実的・具体的側面がないと伝わらない、という話でした。もちろんエンターテインメントでも人生の神秘に触れる経験はできると思いますし、実際私はエンターテインメント作品で、得体の知れない大きな何かに触れてきた経験があります。
書く側からすると、エンターテインメントの場合は、結末をできるだけクリアにしてほしいという編集者が多いですね。純文学では、「結局どうなったの?」というような、いわゆる開かれた結末でいいとされる場合が多いです。

——そうするとエンターテインメントというのは、最初から最後までどう行くのかという道筋がわかる設計になっているんですね。
では、純文学とはどういうものなんですか。

角田 そもそも純文学とエンターテインメントという線引きがあって、それぞれに適した雑誌(文芸誌・小説誌)があるというのは、世界の文芸事情からしたら、非常に特殊なことだと、個人的には思っています。どちらも人間を描くことに変わりはないと思います。純文学は、その人間の描きかたが、具体性を帯びていなくてもいいし、偏っていても成立するということになるのかな。だから読み手は、小説が提示していない具体を、自分の想像力で補いながら読むことができる。でも、個人的な見解なので、まちがっているかもしれません。

——純文学というのは読者自身が主体的に参加できるということでしょうか。それって自分が関われる度合いが強い。

角田 はい。そう思います。それを裏返せば、自分とまったく関係のないものには全然入り込めない。いったいどこから入ったらいいか分からないものもあるということですよね。

本屋に通って「本に呼ばれる」感覚を磨く

——先生は本屋に行って「本に呼ばれる」ということをエッセイでよくお書きになっています。読者が本と出会うにはどういうふうに本屋……あるいは図書館でもWeb書店でもいいんですが、どういうふうにしたらいいんでしょうか。

角田 Web書店はダメですね。ネットは呼んでくれません。匂いとかしないし、 さわれないから。本に呼ばれることに敏感になるためにはやっぱり訓練が必要というか、本屋さんに定期的に行って、呼ばれ待ちをするというか(笑)。ずっと見て、どれが呼んでいるだろうというのを訓練し、そして呼ばれたと思ったら、気のせいだとしても買って、失敗を繰り返すと「おおー!」と感じる時があるんです。それを一回経験したら、たぶんずっと呼ばれる。

——呼ばれる訓練って、具体的には本屋に何回も行くということですか。

角田 実際に触れる本屋さんに何回も行く。

——で、触ってみる。それはたとえば町の本屋さんであったり、大きな書店であったりというのは関係ないんですか。

角田 新刊とベストセラーしか置いてない本屋さんでもいいんですけど、ちょっと鍛え方がぬるくなっちゃう。

——ぬるいんですか。

角田 新刊しかないわけだから、なんていうか選ぶ範囲が単純に狭い。新刊しかない中から呼ばれる。学校なら自分のクラスだけが対象になってしまう感じ。呼ぶってもっと遠いところから呼んでくることもあるから。もう出版されて何年も経っている本とか。

——じゃあ、やっぱりある程度、本のバリエーションと深さがないと呼ばれにくいんですね。

角田 そうでなくても呼ばれると思うんですけど、定有堂書店みたいなところはやっぱ訓練しがいがあるというか、仕事場の近所にTitle(東京・荻窪にあるカフェやギャラリーを併設した独立書店)っていう本屋さんがあるんです。ああいうところはやっぱり比較的早く呼ばれる体験ができる。

——やっぱり棚がちゃんとしているというか、ちゃんと意図と目的を持って地域に開いている本屋はわりと呼ばれやすい。

角田 うん。店主の辻山さんと対談したときに言っていたのが、一冊の本に物語を持たせるみたいなことを言っていて、これの隣に物語が波及して、本の持つ物語が響き合い、これがあってこれがあってみたいな。ただ並べるんじゃなくて、本の成り立ちみたいなのを店主が考えて、それを忠実に再現することで本同士が相乗効果を出すみたいな話をされていて、そういうことなのかな。

——まさに本棚の編集ですね。

言葉しかないものを読みながら、言葉以上のものに触れる

——もうひとつ伺いたいのは、時代と本との関わりについてです。先生は『物語の海を泳いで』で、1995年を境に本と人との関わりが変わったんじゃないか、とお書きになっています。
「個人的な考えだけれど、私はこの年をさかいに、小説の立場が変わったと思っている。小説だけではなく、映画や演劇や美術といったものたちが、静かに、でも急速にそれぞれの立場を変えた印象を持っている。小説そのものが変わったのではない。変わったのは受け取り手だ。読み手は、小説をまるで消費物のように扱うようになった。石鹸の良し悪しが、汚れ落としの強度だとしたら、小説の基準はわかる、わからないになった。わからないものは、「自分の理解を超えたところにある」のではなく、「つまらない」。わかる、のおもな内訳は共感だ。共感によって落涙することが、すなわち感動するという言葉になった。小説にも、ほかのものにも、わかりやすくてやさしい世界が求められるようになった。」(54頁)
これは先生の『方舟を燃やす』とも連動していると思うのですが、いまの時代と本との関係をどのように感じていらっしゃいますか。

角田 そうですね、好景気のときって人は難しいものを受け入れやすいなと思っていて、逆に不景気になると簡単なものしか受け入れられなくなってしまう。これは私見で正解かどうかわかりませんが、好景気だと難しいものを受け入れる余裕があるのかな。
いま、自分が信じている世界が壊れていく途上にあるとしたら、考え続けなければいけないと思うんです。考えるのをやめると、今を受け入れますよね、考えなしに。受け入れて、どんな理不尽も受け入れるようになっちゃうし、あと言葉を使わなくなりますよね、考えないと。だからやっぱ考えなきゃいけないというのは、単純に人間が退化するからだと思いますけどね。

——人間が退化していくと、欲望とか、感情の歯止めみたいなものも効かなくなりそうです。言葉が減っていくと人間はどうなりますか。

角田 戦争をやりますよって言ったときに、はーいと言って、みんなやると思う(笑)。それが自分の考えだと思って、「日本はいまヤバイから戦わなきゃ」みたいになっていくんだと思う。

——言葉が減ると考える量そのものも減ってしまうんですね。そこから逃れるために、本を読むことで先生のように物事の本質や真理に迫っていける方法はありますか?

角田 それはちょっとわかんないですね。私の場合は性質っていうか(笑)。習慣なのか。先ほども言いましたが、小説にかんしては、本質や真実に迫ることができるというような、何かメリットがあるから読む、ということが私には理解できないんですね。読んだら本質に迫ってしまったということはあり得ても。
個人的な体験として言えるのは、矛盾するみたいだけど、やっぱり言葉しかないものを読みながら、言葉以上のものに触れるということだと思うんですよね。言葉しかないのに言葉の奥に言葉じゃない、まだ言葉になっていないものがあるって知る。そうするときに言葉の限界というのが見えてきて、あっ、私たちの言葉の世界ってこんなに不完全なのかなって思う体験ってちょっといいですよね。いいものですよね?(笑)

——たしかに。おっしゃるとおりだと思います。先生が一九九五年は大きな時代の変革期だったとお話しいただきましたが、スマートフォンには言葉と違って、正解がありますね。

角田 確かにインターネットは正解がありそうというか、調べればすぐ出てきますからね。あれで調べれば答えが出てくるということには慣れましたよね、確かにね。私も映画を見てわからないと、映画評論家の町山(智浩)解説をすぐ探します(笑)。すごくうまいと思って。なるほど、こう見るのかとか思ってる。安心するというのもあります。

——正解というのはやっぱり安心することとつながっているんですか。

角田 そうですね。なんか怖いですよね。単純にわからないということが。やっぱり立ち向かえない、丸腰だと(笑)。でも私は本の場合は映画よりは慣れているから、なんかよくわからない話でもまだ耐えられるというか、耐性ができているけど、映画とか、やっぱちょっとすがりたいんですね。あまりにわからないと町山さんにすがりたくなる(笑)。そういう気持ちをもし本に対して持っている人がいるとしたら気持ちはわかる。いまはわかります(笑)。本だとわかりやすく言うと、たとえば一冊の本に対する書評をいくつか読めば、ストーリーがはっきりしているものは書評である程度わかりますけど、ちょっとどう読んでいいのかわからないなというのは、かなりいろいろな書評が出るので、あっ、こういう読み方もあるんだとか、見えてくるんじゃないですかね。それは正解とは違う、解釈のひとつだと思いますが。

——読み方の幅を広げることで自分の現在地がわかるようになるみたいなことですか。自分一人の力では登れない山も、町山解説があれば登れますみたいなのを僕たちは無意識的に求めているのでしょうか。

角田 かもしれないですね。

『源氏物語』に書かれていた「人が本を読む」理由

——先生は『ポケットに物語を入れて』で、
「一冊の本、ひとつのちっぽけな興味が、縦横無尽に糸をのばしていて、あるときふと、その糸に忠実に歩いていることに気がつき心底驚くのである。(中略)
その糸全体を俯瞰してみると、自分の知識欲というものが見えてくる。知っていたほうが得だとか、知らないと恥ずかしいとか、そういう損得のまったく絡まない、びかびかに純粋で無垢な知識欲。自分のなかにそれを見つけたときは、感動する。壊さないよう、なくさないよう、大事にしてあげたくなる。」(343頁)
とお書きになっています。単純に知識を得たいということだったら、ウェブで検索して調べるとかでもいいじゃないですか。あるいは、今日先生を前にお話を聞くように、人に会うことでも知識は得られますよね。ですが、ここで先生がお書きになっている、知識を得ることと本がもたらす縦横無尽の糸とは何が違うのでしょうか。

角田 情報と書物の知識の違いということですね。
これも非常に個人的な話なんですけど、情報って、私の場合は頭に入ってこないんですよね。だから歴史という科目が苦手なんです、情報だから。でもそれが小説になっていたりするとわかります。なぜなら人が生きているから。
私、『源氏物語』の現代語訳をやったんですが、初めは紫式部という人にまったく興味が持てなくて『源氏』をやっている間は訳文を作るので精一杯。『紫式部日記』とか、彼女周りのこと、人生周りのことはまったくノータッチだったんです。
でも期せずして『源氏物語』が文庫になり、大河ドラマ『光る君へ』も始まり、研究の先生と話したりする中で、山本淳子先生がお書きになっている本を読んだんですね。『源氏物語の時代』というのと、『道長ものがたり』という本。これがすっごい面白いんですよ!今までほんとに興味が持てず、みんな藤原か、源じゃないですか。みんな同じように見えていたのが、一人ずつ立ち上がって見えるんですよ。そうするともう面白い!ってなる。

——生き生きと、人として立ち上がってくる。名前という文字情報が人間に変わったんですね。

角田 そうです。だから歴史上でも、何でこういう変な決まりができたのかというと、ある人間の欲望を無理矢理通した結果だということとかが見えてくる。たとえば、このとき歴史上はじめて一帝二后となったと学んでも、情報としてだけならば「ほう」と思って終わってしまうけれど、道長がどうしても彰子を皇后にしたくてそのように決まりを変えたのだという背景のストーリーがわかれば、道長という人となりも、その時代もうっすらと見えてきて、がぜんおもしろくなる。

——つまり、情報には「なぜ」がなく、短く具体的だから伝達速度は速い一方、伝達速度は情報よりも遅いけれど知識には物語があるということですか。

角田 そう、それで広がるんですよね。そうするとその頃のみんなが見えてくると、なんで紫式部はあんなに清少納言を悪く言ったのかというのもわかってくる。理由があるんですよ。紫式部は源氏が六条院を建てて我が世の春みたいになったときに、なぜそこで物語を終えずに「宇治十帖」(注:主人公・光源氏が亡くなった後を描いている)を書いたのかということまで考えるようになるわけですよね。そうすると、その時代背景、彼女の立ち位置、彼女が仕えた人間たちの立ち位置みたいなのを考えて、知識と興味が広がっていく。その中で他の源氏関係の本を読むと、前よりわかりやすくなっていて、もっと面白くなる。

——そうやって長く読み継がれていく本とそうじゃない本もありますよね。
でも『源氏物語』というのは、それぞれの時代に読者がいて、また研究者も翻訳者もいらっしゃるじゃないですか。そういう本に託されているものっていったい何なんでしょうか。

角田 それがまさに今日の最初の質問の「人はなぜ本を読むのか」ということなんですが、私、『源氏』訳をやっている間も五年間ずっと考え続けていたんですよ。『源氏』がなぜ千年も読み継がれていったのかという問いは、なぜ人は作り話を求めるのか、ということでもあったんです。で、その答えはいちおう出たんですけれども、今度文庫にするにあたってもう一度ゲラを読んでいたら、その答えはもう『源氏物語』にすでに書かれていたんです。

——へえ、すごい!

角田 それは「蛍」のところで、玉鬘がわりと数奇な生い立ちなので、自分に似たような生い立ちの人はいないかを、物語絵巻をいっぱい見て探すんです。それを見て源氏が、なんで女性というのはほんとのことが書いてない物語なんか見て、わざわざ騙されるのかねって言うところがあるんですね。
その後に源氏が物語論を語るところがあって、ちょっと意訳ですけれども、『日本書紀』みたいな歴史を描いたものより、物語のほうが、フィクションのほうが人間の姿をきちんと伝えているって言うんですね。「日本紀などは、ただ、片そばぞかし。これらにこそ、道々しく、くはしき事はあらめ」という部分ですね。もうザッツ・ライトなんですよね。山本先生のご本を読んでいて思うのは、歴史の本を読んでもわからなかったものが、こうやって物語仕立てにして読むことでようやくストンとわかることがあるということですね。

——そうすると物語って、今とは別の場所に連れて行ってくれるものなのかなと思っていたんですけど、そうではなくて、人間そのものを描くものということなんでしょうか。

角田 でも別の場所にも連れていってくれますよね。空間だけでなく時間的にも、別の場所に連れていってくれる。そしてその別の場所にも人間はいる。たとえばよその場所に行ったときに、どんなに食べ物や肌の色や暮らしぶりが違ってもちゃんと人が生きている。今ここで生きている私と大差なく、子供を育てたり、ご飯を食べたりして生きていたら、なんか安心するじゃないですか。やっぱりよその場所に行っても人間の姿を見ると思うんですよね。そういうことなんじゃないのかなと思います。

——私たちは本を読むことで人間を知る。

角田 そうですね。もしくは人生を。

——知ることに果てはないんですか。ゴールはない?

角田 何をゴールとするかですよね。ひとりの人を知って、それではい終わりということにはなりませんよね。物語のなかには、自分にはとうてい理解できない人も、共感できない人も、はたまた自分とよく似た人もいる。でもそれで、ぜんぶ人間を見知ったかといえばそうではない。あらゆる時代、あらゆる場所に、だれかが生きていて、その人たち全員と出合うことをゴールとするなら、ゴールはないも同然ですね。すべての書物を読むことは不可能ですから。

——先生は本の書評を書かれたり、おすすめされたりもしています。そもそも本との出会い方がわからないとか、原体験がない人にそれってどうやって伝えていけばいいか、もし先生から何かヒントがあれば教えて欲しいのですが。

角田 でも私ね、大人になるまで本を読む喜びを知らず、苦痛でしかなかった人はもう読むなって言ってあげたいです。もう読まなくていいよ。無理してそんなことして苦行になるよりは、読まないで好きなことをしたほうがいいよ、って。

——そうか。そうですね。自分の好きなことが好きだと言えるようになれたらいい。

角田 生きづらさがちょっとましになる道具と言っていいのかわからないですけど、ツールみたいなのが確実にあるじゃないですか。私の場合はそれが本だったけど、知り合いの同じジムに通っている人で、やっぱりボクシングで救われたという人もいるし。音楽や異国の文化に夢中になって救われている人もいるだろうし、生きづらさをちょっと軽減するものが、いっぱいあってもいいと思う。そう考えると本というのは一番安価だし、身近だし、装備とか必要ないので、私は本でラッキーだったなとは思いますよね。

——確かにそうですね。私もラッキーでした。ただ、本は少量多品種というか、圧倒的な量があるので、本があったとしても、自分に合う本がどれなのかはわかりづらいですね。

角田 一生じゃ読み切れないですよね。

「楽しみ」としての読書と「仕事」としての執筆

——とてもいいお話を伺うことができました。やっぱり私は本を読むことを構えすぎていて。でも読むことって自由だけど、どういう自由なのかよくわからなかったので、それを先生に言葉にしていただいたことで自分の中で腑に落ちました。そこであえて伺いたいと思ったのは、読むことと書くこととはつながっているかどうかです。

角田 私の自覚としては関係ないようにも思いますが、おそらくつながっているんでしょうね。

——どうして関係ないってお考えになったんですか。

角田 読むことが好きなので、仕事の邪魔をされたくないというか(笑)。

——読むことは読むことで、書くことは仕事なんですね。

角田 そうなんです。私、九時五時で働いているんです。その勤務時間中には本は読まない。娯楽だから。楽しみだから、本を読むと休憩になっちゃうんです。でもいま、選考の仕事をやっていて、選考に間に合わないときって、勤務時間中でもすごく読まなきゃいけないんですけど、ほんとに仕事をさぼっている気がして(笑)。うわー、どうしよう。一日本読んじゃったよみたいな。

——九時から五時までは仕事の時間とのことですが、それでは本を読む時間は、何時から何時とか、読む時間を決めていらっしゃるんですか。

角田 いえいえ。細切れ読みですよね。風呂とトイレと移動中の電車とか、ひとりで食べたり飲んだりしているときとか。

——九時五時以外の時間で、読む時間は自由なんですね。

角田 そうですね。座って一時間読もうとかは、ないかもしれない。

——では決まった環境とか、ルーティンみたいなものがあるわけでもない?

角田 ないですね。読書に関しては。

——先生はいろいろな場所に本を置いて、場所ごとに本をお読みになっているとのことですが、読書がはかどる場所はあるんですか?

角田 はかどるのは電車とか、飛行機。

——なぜでしょうか。

角田 何でだろう。移動できない。他にすることが極端にないから。

——病院の待合室みたいな、どこにも行けない場所がいいんですね。

角田 そうですね。病院もあればいいんですけど、病院行ってないから。でもあれば絶対はかどりますよ(笑)。

——ただそこにいるしかない場所に行ったときに本を読むのがむちゃくちゃはかどるみたいな感じなんですね。そうすると本を読むときには、通常は座って読むと思うんですけど、どんな椅子に座るかとかはまったく関係ないんですか。

角田 関係ないですね。立っていてもいいです。電車でね。

——立っててもいい。座っててもいいし、読んでいる時間はどこで読んでいても変わらないんですね。読書をするために、僕は付箋 ふせんをたくさん貼ったりするんですけど、先生が読むときにお気に入りの道具って何かありますか。

角田 何もないですね。しおりくらいでしょうか。でも、単行本に最初から付いているようなものを使うのは嫌なので、しおりをたくさん持っています。

——たくさん(笑)。鞄の中にいっぱい?

角田 机にあります。

——スピンは苦手なんですか。

角田 先がボサボサになるじゃないですか。出すと(笑)。だからこういう状態のまま挟んでおく(笑)。

——化石のように、ページにくっついているんですね。面白いです。

角田 付箋は書評とか、選考に必要なときに付けます。

——なるほど。仕事で読むときと、普段の読書は違うんですね。

角田 違いますね。年齢書いたり、年代書いたりしなきゃいけないので。

——それはメモするんですか。

角田 メモは読み終えてからします。読んでいるあいだは、付箋などを挟むだけです。書くときに単純にそこを開くと、なんとかなんとか(名前)、二四歳、仕事は何とか、すぐ出せる。

——具体的な情報をメモする代わりに付箋を置くんですね。

角田 感動したところとかにはやっぱり付けておいて、奈良さんの『町の本屋という物語』の書評を書くときだったら『きつねの窓』のところに一番私は感動したので、そこに付けておいて。そうすると『きつねの窓』を書きたかったというふうに思い出す。

——なんと。そうやって書いていらっしゃるんですね。感激しました。

作家の生き方と小説ありよう

——それにしても、プロはすごく厳しい世界ですよね。作家ももちろんそうですし、野球選手でもサッカー選手でも同じで、プロになること自体が難しいだけでなく、プロでい続けるのはさらに困難です。先生は二〇〇二年まではご自身の作品に重版がなかったということもお書きになっています。厳しい時期もあったけれども、書き続けられた。それはなぜなんですか。

角田 それはオファーがあったからです。重版なしのときも辛かったときも、順番待ちで雑誌や単行本のオファーが来ていたんですよね。それで書き続けることができた。
一時期、純文学の雑誌からオファーがなくなってきたときに、やばいと思いましたが、そのタイミングでエンタテインメントのほうから声をかけられたんです。そこで、まだあるって安心した。たぶん私にとってプロの仕事というのは依頼してくれる人がいて、お金を払ってくれる人がいる。そういう出版社があるということなんじゃないかと。

——『希望という名のアナログ日記』のなかで、文芸誌『海燕』の寺田博さんの言葉が紹介されています。「あなたの書くものは厭世的過ぎる」と。そして、「世のなかに残っている小説は、みんな希望を書いている。残る小説を書きたかったら、希望を書きない」(22〜23頁)。「希望」というのは書こうと思って書けるものなんですか。

角田 あんまり書こうとすると嘘くさくなっちゃうんですけど、でも、それまでの自分は死んでも偽の気持ち、信じてもいないことは絶対書かないという姿勢だったので、何を言われたかはわかる。未来に対して希望を持っていないから、いつも結末が暗い。だってそうじゃないですか。私たちが生きている世界、未来なんか全然いいと思えない。でも、寺田さんが言っているのはそういうことじゃなくて、あなた個人が信じていなくていいから、書けるようにならないと、と言われたときに、私自身がどんだけネガティブな人間でもいいから、小説だけはちょっとだけ上を見ないと、という意味に捉えたので、なんというか、言われていることがわかった。希望が書けるようになったというよりも、どこを直せばいいかがわかった。

——それは先生の視線の向きが変わったということなんですか。

角田 視線というよりも、信じていないことは書かないというかたくなさは良くないと思った。私の心情を書くことが小説ではないと。

——それで制限が解放された。

角田 うーん、なんかいい人間じゃないと、いい人間を書いちゃいけないと思っていたし、未来を信じていない人間が小説のなかで未来を信じちゃいけないと思っていたんです。でもそれは私自身の生き方と小説のありようはまったく別で、私自身がどんなに真っ黒黒の奴でもいい人間は書いていいんだみたいな。だから小説観の変化ですかね。

——それが対話の中で気づかされた。

角田 はい。

本ではなくとも出会えるものはある

——先生はご自宅の本棚を建築家の方に依頼されていますよね。本棚を設計してもらうときは、理想の本棚を考えてお作りになったんですか。

角田 はい。前の自宅にあった本をぜんぶ見ていただいて、これがぜんぶ入る本棚にしてほしいとお願いしました。

——棚の高さとか、幅とかで、先生のお考えを反映した部分はありましたか。

角田 いえ、私のお願いは本が前後に並べられないようにしてくださいってってことだけでした。

——この深さだけにしてくれと。

角田 はい。でも並べられるようなっていました。エーッと思って。

——なんで二列にするのがお嫌だったんですか。

角田 やっぱり奥が見えなくなっちゃうから。

——本は背表紙が見えていないと、その本があることがわからなくなるので、背表紙が見えていることが大事なんですね。

角田 はい。探すときにほんとに苦労するので。

——先生は本を並べるときに独自のきまりはありますか。

角田 それがね、ジャンルをやっぱり決めておいて、写真集とか、人文書とか、海外物とか、決めておかないと探すときにほんとに苦労するので、なんとなくやってます。

——ジャンルの幅で言うと、やっぱり文学が一番ですか。

角田 一番多いですね。

——文学の中にもいろいろな種類があるじゃないですか。その中は分けているんですか。

角田 作家別ぐらい。

——読み終わった本はどうされていますか。やっぱり本棚は有限なので、不要になった本がでてきたら、どうやって取捨選択されていますか。

角田 読み終わって、たぶんもう読み返さないなというのは古本屋さんに持っていってもらっています。

——そうすると残っている本というのは、新しい本が入ってきたときも押し出されなかった本ですか。

角田 余裕があるので、まだ大丈夫です。夫の本とか、捨ててやろうかなとか思うときが(笑)。もちろんそんなことはしませんよ!

——それは……(笑)。でもいいですね。先生はいろいろな本をご自身の目で選んで、出会って、それを読み続けていらっしゃるわけですけど、次に読む本とはどうやって出会うんですか。やっぱり本屋でしょうか。

角田 そうですね。本屋に行って。でもちょっと溜まっちゃうので、加齢と共に読むスピードがほんとに落ちて、選考が重なるとほんとにその間、好きな本が読めなくなるんですよね。そうすると積んである本が増えちゃうので、そういうときは本屋に行かないようにしています。

——もし本がなかったら、先生はどうなっていたと思いますか。

角田 漫画もダメですか。漫画に行ったかな。漫画とか、絵に行ったと思います。

——もし本がなかったとしても、何か出会えるものがあるということですね。でも何かに出会おうと思ったら、自分から動かないと出会えないですよね。

角田 でも子供のときってわりと向こうから来ますよね。今の時代は親がいろいろやらせてくれるし、自分から行かなくても来るものは来ますよ、きっと。

——では出会えるんですね。その出会いに自分自身が気づけるかどうか。

角田 和らいでいくものを見つけたほうがいい。

——たしかに。そちらのほうが生きるのが楽になる。
『ポケットに物語を入れて』の中に、繰り返し読む本の一冊に、開高健さんの本をあげていらっしゃいます。その言葉のあまりの圧倒に書く気力を失い、他の本を読めなくなったり、打ちひしがれていますよね。かなわないと思いながらも読み、また文章を書いて、再び読んで打ちひしがれて、それでも書いて、をずっと繰り返されています。なぜ先生は書き続けられるんですか。

角田 それはやっぱり作家になりたかったからじゃないですかね。仕事を探さなきゃいけないってかなりしんどいじゃないですか。私、いま探すともうけっこう年齢制限に引っかかるんですよね。コンビニのバイトとかでも。ちょっともう他の仕事を探すということには耐えられない。

——仕事として自分が選んだから、それをやりげるということでしょうか。先生にとって仕事とは何なのですか。

角田 仕事は生きるための方法。生きるというのは具体的にお金を稼いで生活することの手段。

——生活手段が仕事。その仕事が書くことなんですね。

角田 はい。仕事になったら、どんな好きなことも途端につまらなくなる(笑)。

——そうなんですか。

角田 つまらないというか、辛いものになる。楽しいだけじゃなくなるとは思います。

——でも楽しさもあるんじゃないですか。

角田 それって表裏一体で、こんなに辛くてなんで続けられるのと言ったら、やっぱり楽しいというところからスタートしているからですよね。そのたのしい気持ち、好きという気持ちがなければ続かないと思うんですけど、楽しいだけじゃないなって。だからほんとに好きなことを仕事に明け渡さないほうがいいとすら思いますよね。

——先生は読むことは仕事に明け渡してはいないけれども。

角田 書評とか、選考とかはあるけどね(笑)。

——ありがとうございました(笑)。

編集協力:大槻慎二

三砂慶明(みさご・よしあき)
「読書室」主宰。
1982年兵庫県生まれ。立ち上げから参加した梅田 蔦屋書店を経て、TSUTAYA BOOKSTORE 梅田MeRISE勤務。
著書に『千年の読書 人生を変える本との出会い』(誠文堂新光社)、編著書に『本屋という仕事』(世界思想社)、奈良敏行著『町の本屋という物語 定有堂書店の43年』(作品社)がある。

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