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「『こんなに褒めることねえだろう、このヤロー』って思ったりするけど(笑)」

10月7日、噺家で人間国宝の柳家小三治師匠が亡くなられました。

本記事では、追悼の意を込めて、小三治師匠に関するご著書(『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』講談社+α文庫)もお持ちの落語評論家・広瀬和生さんに、小三治師匠の思い出を綴っていただきました(新書編集部 三宅)。

※広瀬さんのこちらの著書でも、小三治師匠についてたっぷり触れています。

小三治の高座は“素晴らしき日常”

 柳家小三治は僕にとって、落語を聴き始めた頃から追いかけ続けた落語家だ。もちろん立川談志や古今亭志ん朝も追いかけたが、単純にナマの高座を観た回数で言えば、小三治が一番多い。談志や志ん朝の高座を観るのは“スペシャルなイベント”だったが、小三治の高座は“素晴らしき日常”だった。

 そして、この“三大落語家”の中で直接の面識があったのも、小三治だけである。

 最初に会ったのは2010年12月。週刊現代での単独インタビューだった。

「落語協会会長に就任して半年の小三治」をクローズアップする新春企画だったが、僕はここぞとばかりあれこれと尋ね、小三治も饒舌に喋ってくれた。

 中で印象深かったのが、「独演会の一席目で『千早ふる』をやって、二席目の高座に上がった時に、さっきの『千早ふる』があまりに良かったから今日はもう落語ができませんとおっしゃったことが……」と言いかけたら小三治が間髪入れず「三鷹です、それは」と答えたこと。2008年3月の独演会のことで、まだ3年も経っていない出来事とはいえ、小三治自身にとっても特別な高座だったのだ、と感慨深いものがあった。

 この時のインタビューは1時間以上に及ぶ濃密なものだったが、誌面に反映できたのはごく一部。貴重な小三治の芸談をぜひノーカットで記録に残したいと思い、僕はこのインタビューを含む「丸ごと一冊小三治読本」を企画し、講談社を通じて小三治に許可を求めたところ、マネージャーから「一度、会って話しましょうと師匠が言ってます」との返事。2013年7月に行なわれた面談は2時間以上に及び、最終的にOKが出て、2014年8月に『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』が出版されることになった。

 この「出版許可の面談」で感激したのは、冒頭で小三治が「あなたの文章は好きですよ」と言ってくれたことだ。見え透いた世辞を言うような人ではないから、どこか気に入ってくれたものがあったのだろう。書き手冥利に尽きるというものだ。

 それ以降、取材などで顔を合わせることは稀にあっても、基本的には「観客として高座を観る」立場であり、僕があれこれ書いていることを小三治がどう思っているか、直接聞く機会はなかった――今年の7月までは。

 きっかけは週刊ポストだった。この雑誌に名画座情報コラムを執筆されていた「ののみち」氏が小三治と面識があり、偶然路上で会って立ち話をしていた時に「連載が終わっちゃうんですよ」と言ったら、「そんな連載があったんなら早く教えてくれればよかったのに」と言われたので、次の号を小三治に届けたところ、僕が連載していた(過去形なのはこちらも連載終了したからだが)『落語の目利き』というコラムで、たまたま僕が小三治の独演会について書いていたのである。何という奇跡的なタイミング! 

 僕のコラムを読んだ小三治は「踏み込んで書いてくれてて非常にありがたいね。あんまり褒めてばかりの批評だとありがた迷惑みたいな気持ちになるんだけども、今回の記事はよく書いてくれてたね」と喜んでいた……と、これはののみち氏が週刊ポストの担当者に語ったもの。僕は担当者から7月10日にメールをもらって知ったのだった。

 その2週間後の7月23日、僕は有楽町・朝日ホールにいた。小三治の20枚組CDセット「昭和・平成 小三治ばなし」(ソニー)の発売記念落語会「令和三年 柳家小三治の会」が行なわれたのである。前半は柳家三三が『しの字嫌い』、小三治が『錦の袈裟』を演じ、後半は小三治とプロデューサー京須偕光氏との対談。そして終演後は同じ会場内でCD発売に関しての記者会見が行なわれ、僕も取材者の一人として参加した。

 壇上には小三治と京須氏が並び、取材陣は前方客席に陣取る形。四人目の質問者として挙手をした僕は京須氏に音源セレクトの基準について尋ね、京須氏の答えに対して小三治も発言する形で二人の会話が進んだ後、一呼吸おいて小三治が、僕の目を見て「広瀬さん」と語りかけてきた。

「あなたは私のことをいろいろと本に書いてくださって……以前はね、そういうものを誰かに書かれてしまうのが照れ臭かったり、しゃらくせえと思ったものだけど、この頃ね、あなたがお書きになったものを読んで、『ああ……』って。自分が噺をもういっぺん考え直したり、覚えたりするときに、とっても参考にさせてもらっています。どうもありがとう」

 僕が反射的に「ありがとうございます」と言うと、「こういう機会でもないとね」と小三治は笑い、こう続けた。

「あなたは必要以上にっていうか、私が思ってる以上にとっても誉めてくださるので、『こんなに褒めることねえだろう、このヤロー』って思ったりするけど(笑)、でも、いいんじゃない? そう思ったらそう書いてくれるのが、“ものを書く”っていう道なんじゃないかな。そういう姿を見て、俺もこうやりたいなって……教わることばっかりです、この歳になって」

 実のところ、記者会見の場で質問したら何か言ってくれるかもしれないと、ほんの少しだけ期待していたのだが、まさかここまで……。あの面談での「あなたの文章は好きですよ」から丸8年。嬉しくて泣きそうだった。

 その後、8月9日によみうりホールの「柳家小三治 夏の会」、9月23日には三鷹市公会堂の「柳家小三治一門会」と、小三治の高座を観る機会が二度あった。どちらも演目は『錦の袈裟』。3ヵ月連続で小三治の『錦の袈裟』を聴いたことになる。

 そして、それが最後になってしまった。

 小三治の最後の高座は10月2日、府中の森芸術劇場での『猫の皿』。僕は観ていない。その前日、11月7日に銀座ブロッサムで開かれるはずの「柳家小三治独演会」を予約したばかりだった。まさかこんなに早く逝ってしまうとは……。

 2008年以降の“談志の晩年”を、僕は「絶対に見逃してはいけない」という緊張感と共に追いかけ、最後の高座も見届けた。だが、小三治に関しては81歳の高齢にもかかわらず、まだまだ高座に出続けるはずと、勝手に思い込んでいた。そのあたりにも、僕にとっての談志(非日常)と小三治(日常)の違いが表われているのかもしれない。

 それにしても唐突だった。柳家小三治事務所からの訃報にも「亡くなる当日まで次の高座を楽しみにしておりましたので、突然のことでした」とある。当人にしても「まさか」だったのだろう。「死んだのに気付いてないんじゃないか」などと、ついつい『粗忽長屋』を連想してしまうのが落語ファンの性というものだ。

 2001年に志ん朝が亡くなり、2011年に談志、そして2021年に小三治が亡くなった。“ちょうど10年の間隔”は偶然に過ぎないとはいえ、リアルタイムで追いかけてきた僕にしてみれば、互いを意識し合った彼らが、バトンの受け渡しをしてきたように思えてならない。そして今、彼らの世代によるリレーは終わったが、もちろん落語の灯は消えたりしない。「消さない」ためのリレーだったのだから。

 志ん朝・談志・小三治が、文楽・志ん生・圓生らが確立した“古典落語”という芸能に磨きを掛けて21世紀の隆盛の礎を築いた後、既に次の世代が新たなリレーを始めている。ここはひとつ、どっかの石頭が「これで落語の灯は消えた」などと妄言を吐いて、春風亭一之輔に「小三治会長が選んだ俺がいるから大丈夫」と言ってほしいものだ。(了)


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