「ボロさ」とは美である――消えゆく東京の風景|三浦展
あとがき
ボロさはゴージャスである。
ゴージャスとは豪華という意味ではなく、プライスレス(お金で買えない)、タイムレス(時を超えた)、ワン&オンリーというニュアンスである。
震災や戦災の跡に急ごしらえでつくったものであっても、何十年もの時を経て、人間の顔に深いしわが刻まれるように、建物にも道にも階段にも看板にも傷がつき、ひび割れ、錆び、苔がむし、至高の存在となる。
本書の写真はほぼ9割方、この10年余りのあいだに私が撮影したものである。たまたま東日本大震災の直前から下町に足繁く通い始めたので、震災後に古い建物がどんどん建て替わる過程を見てきた。だから本書掲載の写真に残った建物も──下町ではないものも含んでいるが──今はもうないものが少なくない。
撮影をしていると、最初はレトロ感覚で撮影したことは間違いないが、しだいに単なる鉄の扉やトタンの錆びなどに関心が増した。つまり建物そのものというより、素材への関心であり、その素材が時を経て錆び、朽ちることによって生まれるオーラに惹かれたのである。
もちろん町に漂う生活感にも私は深い愛着を持つが、私はあまりそういう写真は撮っていない。むしろ即物的に階段や壁や戸や鉄やトタンやモルタルや配管やダクトやメーターなどを撮影した。それらが生物のように見えた。もののけを感じたというか。屋久島の森のような崇高ささえ。