なぜ「失われつつある現場」を撮影するのか?|高橋昌一郎【第8回】
アルベール・カーンとマルグリット・メスプレ
読者がパリを訪れることがあったら、ぜひお勧めしたいのが「アルベール・カーン美術館」である。メトロ10番線の終点ポン・ド・サン・クルー駅から地上に出ると、目の前に銀色のアルミニウムのパネルに覆われた現代建築が浮かび上がる。もともとは1990年に「地球映像資料館」として公開されていたカーンの邸宅が、2022年4月に建築家・隈研吾の設計で生まれ変わったばかりである。
カーンは、1860年にアルザスの農村で生まれた。16歳でパリの仕立屋で働き始め、18歳で銀行員となる。やがて南アフリカのダイヤモンドと金鉱に投資して莫大な資産を築き、38歳の若さで「カーン銀行」を設立した。駐仏公使・本野一郎の紹介で日本を訪れたカーンは、当時としては珍しく日本の外債にも積極的に投資している。日本文化に魅せられたカーンは、ブローニュの森に広大な土地を購入し、茶室と家屋を分解し移築させて日本庭園を造った。現在の日本庭園は造園家・高野文彰の作庭によるもので、実にすばらしい風情がある。
大富豪といえば、ともすれば私利私欲にまみれた派手な人物を想像されるかもしれないが、カーンは孤独を好み、生涯独身だった。彼は「ヨーロッパを知るためにはヨーロッパを出なければならない」という信念に基づき、世界各地を旅行した。日本には生涯3度も訪れ、大隈重信と意気投合している。「世界周遊奨学金」を設立して、学生たちには1年間をかけて自由に世界を一周させた。
さらにカーンは1909年から31年にかけて、当時最新の撮影機材と発明されたばかりの「オートクローム」と呼ばれるカラーフィルムを持たせて、何人ものカメラマンを世界約60カ国に派遣した。彼らは7万2千枚の画像と18万3千メートルの映像フィルムを持ち帰った。これらを基盤に構築した「地球映像資料館」の理念は、異文化を理解して共存し世界平和を追求することにあった。
1913年5月、カーンの指示を受けたマルグリット・メスプレは、イギリスからの分離独立を訴えて武装蜂起直前だったアイルランドに向かった。彼女は単身でクラダという漁村に入り、失われつつある人々の生活を撮影した。その中に、裸足の若い女性が目も眩むような鮮やかな赤色のガウンを纏った写真がある。そこに現れているのは、いかに貧しくとも美意識を忘れないプライドである。
さて、本書を読んでいる間に想い起し続けたのが、今から110年前にカメラマンとなったメスプレの姿である。そもそも「カメラマン」という言葉に表れているように、カメラで撮影するのは男性の仕事とみなされてきた。「約半世紀前」に本書の著者・大石芳野氏がデビューした際にも、周囲から「女流カメラマン」と呼ばれた。彼女が「私は流れていません」と反発すると「かわいくないね」と言われたという。おそらくメスプレも同じような苦痛を味わったことだろう。
大石氏は、戦時中のベトナムとカンボジア、ポーランドの強制収容所、広島と長崎の原爆跡地、米軍基地問題で揺れる沖縄、パプアニューギニアの奥地などで撮影と取材を続けてきた勇猛果敢なジャーナリストである。本書には「取材相手の無意識に漂う心の内側」に迫る彼女の写真も多く収められている。
本書で最も驚かされたのは、パプアニューギニアの奥地に入った大石氏が「人びとは一見、裸に見える姿でもおしゃれにはかなり工夫を凝らしている」と述べている点である。女性が身にまとう腰ミノは、密林の奥にしかない植物を石で叩いて柔らかくして編み込んだもので、部族によって形も素材も異なるという。さらに彼女たちは、貝殻や野豚の牙を加工した首・耳・鼻飾りで競い合う。被写体の美意識に迫る視線が、メスプレから大石氏に引き継がれていた!