なぜ「高学歴難民」が生じるのか?|高橋昌一郎【第15回】
博士課程難民・法曹難民・海外留学帰国難民
ミシガン大学大学院に留学していた頃、同期で最も優秀だった院生がジム・ジョイスである。彼は私と同じように学部で数学と哲学を専攻し、10年かけて哲学博士号を取得して、現在はミシガン大学の哲学・統計学の教授になっている。
ミシガンで哲学博士号を取得するためには、11のプログラム・ユニットを完結し、6つの専門分野試験に合格して、博士論文を完成させ、5人の権威者で構成される学位審査試問に合格しなければならない。順調でも8年はかかるカリキュラムである。私が在籍していた当時、博士号取得者の平均年齢は32歳だった。
私は博士課程修了前の28歳で日本に開校したばかりのアメリカの州立大学に就職した。ジムや私のように大学に就職した院生は同期の半数以下にすぎず、他は政府機関や企業に就職した。「世界一の哲学者になる」と大言壮語していたハーバード大学出身の院生は、なぜかマクドナルドに就職した。プリンストン大学で博士号を取得した新進気鋭のポスドクは、ミシガンで意思決定論を研究していたが、それが嵩じてか、今ではラスベガスのカジノ・ディーラーである。
そもそも「人生、一寸先は闇」であり、アメリカであろうと日本であろうと、高学歴であろうと低学歴であろうと、人生で成功するか否か、幸福になるか否かは、多分に偶然(いわゆる「運」)の要因に左右される。したがって、ことさらに「高学歴難民」をピックアップする発想には少し違和感も覚えるが、高学歴者を活かしきれない日本社会に対して、本書の問題提起は非常に重要である。
本書の「序章:犯罪者になった高学歴難民」には、振り込め詐欺に加担した30代男性、万引き依存症の30代女性、ネットで脅迫を繰り返した20代男性、ストーカーになった30代女性、子供への強制猥褻罪で逮捕された40代男性が登場する。どれも現代の日本では、ありふれた犯罪者だが、なぜ彼らが「高学歴であるにもかかわらず」犯罪に手を染めたのか、その経緯が浮かび上がる。
「第1章:博士課程難民」ではセックスワーク兼業で生きるポスドク30代女性、無職・借金1000万円の博士課程中退者、「第2章:法曹難民」では司法試験不合格から「ヒモ」で生きる20代男性、タクシー運転手の30代男性、「第3章:海外留学帰国難民」では日本に馴染めない50代女性、月収10万円のNGO職員の40代男性など、こちらも高学歴難民たちの悲惨な具体例の描写が続く。
「第4章:難民生活を支える『家族の告白』」には2000万円の教育投資が活かされず無職の30代息子を抱える60代女性、就職に失敗して苛立ちを妻にぶつける夫を抱える30代女性など、高学歴難民の犠牲になる家族が登場する。最後の「第5章:高学歴難民が孤立する構造」で、自己責任、厳しい就職事情、なぜ高学歴を求めるのかといった本質的な難問が提起されて、本書は終わる。
本書で最も驚かされたのは、「MBA: Master of Business Administration」(経営学修士)を「M(みじめ)B(ぶざま)A(あわれ)」と揶揄する言葉である。アメリカでは、難関のペンシルベニア大学ウォートン・スクール、ハーバード大学ビジネススクール、スタンフォード大学ビジネススクールなどのMBA取得者は、企業経営のエリートと認知されて一流企業に高給で就職し、入社当初から責任ある仕事を任され、卒業生ネットワークは世界に広がる。その学位が皮肉られるとは、MBA取得者の人格によほどの問題がある場合も考えられるが、異質な個性を認めない日本の「不寛容」な職場環境も改善すべきではないか?