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生き延びるためには、勇ましくあってはならない|森村泰昌の「人生論ノート」

1985年、ゴッホの自画像に扮するセルフポートレイト写真『肖像・ゴッホ』を発表以降、今日に至るまで、一貫して「自画像的作品」をテーマに作品をつくりつづけている美術家の森村泰昌さんはこのたび『生き延びるために芸術は必要か』を刊行されました。自然災害、戦争、AIの発達、地球環境、パンデミック、情報革命、差別、貧困……現代社会は「生き延びる」ことについて危機を痛感する事態が繰り返し起きています。ここ数年、大学で行った講義を振り返ってみると、「生き延びる」というテーマに関連した内容が意外に多かったと語る森村さん。そんな森村さんが「芸術」を手がかりに、「生き延びるとは何か」というテーマに取り組んだ一冊です。発刊を機に本書の「はじめに」を公開いたします。

その家はまだ生き延びている

だれも住んでいない家がある。かつてそれは私の実家だった。いまはほとんど物置小屋になっている。私が生まれてすこしたって両親とうつり住み、30代後半までくらしていた。これまでの人生の半分ばかりをこの家とともに生きてきたことになる。

道路ぞいの長屋の北端にあるこのちいさな家で父は緑茶を商っていた。もともとは店だけで住まいは近所のべつのところにあった。ひっこしを機に一階の店舗のよこに四畳ほどの居間が増築され、さらにそのよこにはちいさな風呂場もつくられた。二階の座敷はふた部屋にしきられて、ひと部屋は私の寝室兼勉強部屋に、もうひと部屋は両親の寝室になった。

なぜひっこしたのか私は知らない。父母はすでに他界し、私はひとりっ子だった。ひっこしのいきさつを知るひとはもういないのだ。

両親が結婚したのは戦後すぐのことだった。中国に出征後復員した父と、女学校を卒業してすぐの母親が見合いでむすばれた。次男坊の父が実家から暖簾のれんわけしてもらい、ふたりはこの家で商売をはじめることになったのだった。

両親が若いころは、茶どころから「たて」というおおきくて丈夫な紙袋に詰められたお茶っぱが、荒縄でしばられてひっきりなしにトラックではこばれてきた。それら産地直送のお茶っぱを父がブレンドし、はかり売り用の袋に小わけして商品にする。すべてが手作業だった。「とおし」や「みの」によってお茶をえりわけるのだが、それらの道具類はいまも店にホコリをかぶって残っている。

商いは小売だけではなかった。市場への卸、それに工場や会社への配達もあった。父はホンダドリーム号(バイクの名前)の荷台に荷物を山積みにし、いそがしくはたらいていた。
がいこう」と呼ばれる行商スタイルのおっちゃんたちも、お茶の仕入れに自転車でやってきた。「外行」のおっちゃんたちの名前は、なぜかよくおぼえている。ヨシオカはん、ゴウダはん、ヒロセはん、ミナミはん。「だれそれさん」というところを、かつて大阪の商人たちは「だれそれはん」という。

おっちゃんたちは私のことを「やすぼん」と呼んだ。「やすまさ」の「やす」プラス「ぼっちゃん」で「やすぼん」。しかし私には「やすもん(安物)」と聞こえてしまうので、この呼び名が好きになれなかった。

1950年代の私の記憶のなかでは、家も父母もはつらつとしている。

私が高校生だった1960年代後半、「外行」のおっちゃんたちはほとんどこなくなった。高齢化による廃業がおもな理由だが、もはや「外行」の時代ではなくなったということもある。

私が大学生となった1970年代には来店する客もめっきりへって、かつての店のにぎわいは急速に陰っていった。町には大手スーパーが乱立しはじめた。ペットボトルや自動販売機はまだみかけなかったが、インスタントコーヒーや豊富な種類のソフトドリンクがテレビコマーシャルで大々的に宣伝されるようになった。個人商店で日本茶を買うという〝風習〟は影をひそめてゆく。

店の経営とは無関係に生きていた私であっても、店がさびれていくのをまのあたりにすると、「ああ、これがいわゆるジリ貧というヤツか」と心がうずいた。しかし店を継いで再起をはかる気持ちはなかった。美大生の私は店の手伝いもせず、二階のせまい自室にこもり、写真の暗室作業や100号大の絵画制作にあけくれた。現像液と油絵の具の匂いがまじりあっていた。ベッドもこの部屋にあったから、いかにも体にわるそうな環境のなかで寝おきすることになるのだが、このにごった空気の匂いが私には誘惑的でここちよかった。

神経質な母は家族のゆくすえを心配し、倹約と貯蓄に目くじらをたてたが、父のほうは「まあなんとかなるやろ」といたって呑気であった。だれもこない店の帳場にすわり、テレビをみて晩年の日々をすごしていた。

2024年の現在、この家はまだそこにある。しかし住まなくなると家は荒れてゆく。和式トイレの水漏れがとまらない。物干しの屋根をささえる柱がくさってくずれそうになってくる。屋根のあちこちに瓦のずれがあり、いつ落下するかわからない。床や柱を虫が喰い荒らしている。二階の床にかたむきがあり、部屋にたつと平衡感覚がおかしくなってくる。

近所の住人から苦情があった。たしかに危険なので、屋根や物干しやトイレの応急処置をなじみの工務店におねがいすることにした。こうして、この家はまだなんとか〝生き延びている〟。

建物と終活

いきなり私事を書きつらねてしまった。

家というものは、それがりっぱな門構えのお屋敷であれ、長屋のちいさな一区画であれ、くらしていた人間や出来事の記憶を確実に宿している。たいていのばあいそれらの記憶は、ありふれたの集積にすぎない。社会や他人の関心事になるはずもない。だから傍目には、そんなこわれかけた家ならさっさと更地にするか、売却してしまうか、ともかく早々に処分すべきだという結論にもなろう。

それに昨今では、終活という人生への決着のつけかたを選択するひともふえた。個人的な記憶世界は自分の心のうちにとどめおき、思い出の品はきれいさっぱり捨てさってしまう。後の始末の面倒を他人様にできるだけかけないようにして逝くという、なかなかいさぎよい人生の終わりかたである。

なるほどと納得する。自分がこの世を支配する王様か女王様であったかのように、みずからの足跡をことさら残そうとあがくのはあまりにもみぐるしい。人知れずいつしか消えてわすれられていくという静かな終わりかたには、たしかにそれなりの美学が感じられる。やっぱり私の実家も、さっさと処分してしまうのが最良の選択なのだろうか。

建物を介護する

しかしいっぽうではこうも思う。これは終活問題ではなく、ある種の介護のエピソードではないのかと。しだいにこわれゆく私の実家、それは第三者には寿命がつきかけたありふれたボロ家にすぎない。しかし私はこの家とだれよりもながくつきあってきたわけである。

家は私が生まれるより以前の戦後の混乱期を知っている。父母や店を訪れたさまざまな人びとの残像も、家のそこかしこにみえかくれする。

店のまえを路面電車が走っていた。道路のまむかいには理髪店があった。理髪店の店主はチョビヒゲをたくわえ、毛髪は最期までまっくろに染められていた。

うちのとなりはカメラ店だった。父はここでライカを買った。カメラ店の奥さんは病弱だった。みかけるときはいつも寝起き姿だった。でもきれいなひとだった。私にとってのカメラの思い出は、確実にこのひとの面影とかさなっている。

道路の筋むかいには銀行があった。あるとき銀行強盗がたてこもった。在日朝鮮人のひとだった。あのときはうちの店が報道陣の詰め所になった。

この銀行、昨年から解体工事がはじまって、跡地には超高層のタワーマンションが急ピッチで建設中である。これが完成すれば、私の家はますますちっぽけにみえるだろう。ますます時代おくれで、ますますうすぎたなく感じられるだろう。それでもやっぱりまだその家は生きている。

介護の現場では、安楽死はやむにやまれぬ最後の選択としてあるはずだ。身体があり命があるかぎり延命をのぞむ、生き延びてほしいとねがってやまない。これが旅立つ者にたいしてできる、まだ生きている者のせめてもの敬意と愛情の表出ではないだろうか。

建物の介護などというと失笑をかうのかもしれない。建物なんて、固定資産税が発生したり、売買されたりする「物件」にすぎない。そのように乾いた気持ちでとらえることができたならどれだけ気楽になれることだろう。しかし建物に宿る長年の記憶のことを「命」あるいは「心」ととらえ、こわれゆく建物の柱や窓や壁や床や屋根、それらの総体を人間の「身体」と同等に感じてしまう者にとっては、それがどんな建物であれ、簡単に見放すことなどできるわけがない。

役に立つことと、
生き延びることはおなじではない

気分をかえて前向きな話題にもふれておきたい。それはいわゆる古民家再生プロジェクトというものである。昨今これがブームになっている。3Dプリンターで建物をつくるといったような、いわばデジタルアーキテクチャーが現実化しはじめているなかで、そうした最先端技術とバランスをとるかのように、アナログアーキテクチャーとしての古民家の再活用がみなおされているのかもしれない。

じつは私も自分なりに古民家再生プロジェクトを思い描かずにはおれなかった。父母と私がかつて使用していた電化製品や食器のたぐいも捨てずにおいてある。いたみはひどいが緑茶店の店部分もそのまま残っている。気のきいたリノベーションによって、昭和記念館的な雰囲気のショップやカフェへと変貌させることはけっして不可能ではない。道路をはさんで筋むかいに建設中のタワーマンションには、やがておおくのあたらしい住人たちがやってくる。そうしたそれなりの富裕層をターゲットに、なにかあたらしい店舗として再出発してみるのも一案である。

ふるさにあたらしさをつぎして生き延びる。この若返り作戦、思い描くとちょっとたのしい。擬人化していうなら、新手の高齢者再雇用計画のようなものだろうか。まだまだはたらけるのだというよろこび。レトロがむしろオシャレに若返るたのしさ。いいなと一瞬きもちがかたむいた。しかし結局この案は断念することにした。再生させて有効活用するというときの、この「有効活用」という言葉にひっかかったからである。

有効に活用して世の中に役立たせる。もちろんわるいことではない。むしろ称賛されてよい発想であり実践である。しかし有効に活用できないようなら廃棄する、役に立たなければ意味がないというふくみがかいまみえる気がしないでもない。

役に立つことと生き延びることは、まったく別問題である。役に立つから生き延びるのではない。役に立つかどうかとは無関係に、生き延びたい、生き延びていてほしいとねがう気持ちが、なにものかを生き延びさせるのである。

できるところからはじめてみる

本編にはいるまえにずいぶん寄り道をしてしまったが、まずは自分自身の足もとをみつめることからはじめたかった。それで実家のゆくすえという、目下私の頭を悩ませている人生の宿題について思いめぐらせてみた。

その結果わかってきたことは、ごらんのようにどうも一朝一夕にはいかないようだということだった。生き延びることができれば、それでいいということにはならないし、そもそもなにがなんでも生き延びなければならないときめつけていいものかどうかも疑わしい。

あたらしい建物や町ができれば、かつてあったものは消滅する。このさだめにはさからえない。同様に私が生き延びることが、だれか(あるいはなにか)の生き延びる道を断つ結果になっている可能性がある。逆にだれか(あるいはなにか)が生き延びようとすれば、私が生き延びることができなくなってしまうばあいもあるだろう。生き延びることはよろこびなのか、それともくるしみなのか。

当然、「生き延びる」問題は、身辺雑記的な話題にとどまらない。国際政治、地球環境、災害、情報革命、差別、性差、虐殺、貧困、パンデミックと、生き延びることに危機を感じる出来事は、いまや枚挙にいとまがない。生き延びたいのに生き延びることがゆるされない、そんな切迫した現実をみせつけられると、「生き延びるとはなにか」などと、あれこれ悠長に悩んでいるうちに、生き延びること自体が不可能になってしまいかねない。

なにからはじめていいのか、もはやわからなくなってしまっているというのが、だれもが感じている本音のところなのかもしれない。ならばともかく、各人が自分にできるところからはじめてみるほかないではないか。

「生き延びる」を、異なる角度からながめる

ところで私は2019年から現在まで、某大学で毎年数回の講義を担当させてもらっている(*1)。美術家としての私がその時々に考えたこと、伝えたかったことをお話しするのだが、これまでの講義をふりかえってみると、「生き延びる」というテーマに関連した内容が意外におおかった。そしてこの地道につづけてきた講義もまた、私にとっての「できることからはじめてみる」こころみだったのではと、しだいにそう思えるようになってきた。

ならばこの講義の記録を下敷きにして、あらためて「生き延びる」問題にむきあってみてはどうだろうかと考えた。その私なりのむきあいかたのお披露目が本書にまとまっていった。

第一話では、AI(人工知能)の急激な進化によって、個人も社会もいささか混乱しているかに思える昨今の状況を、「生き延びる」というキーワードによって自分なりに読みといてみた。

第二話と第三話は、今後語ってみたいと考えていた内容をさきどりするかたちで書きおろした。フランシスコ・デ・ゴヤとディエゴ・ベラスケス、このふたりの画家にとって「生き延びる」とはなにを意味していたのか。画家の足跡を追いながら考察してみた。

第四話は、ロシアがウクライナに侵攻するという国際政治をゆるがす出来事が勃発した2022年に実施した講義である。

第五話は、新型コロナウイルスの感染拡大がいつ終わるのか、まだまだ世界中が不安のまっただなかにあった2020年7月〜8月に、オンラインで配信した講義である。

第四話と第五話を文字おこしするさい留意した点がある。それは、話した時点における臨場感をたいせつに考えて、可能なかぎり加筆訂正をしなかったことである。自分の言動をあとになって撤回したり、知らぬそぶりをきめこんだりするのは、できのわるい政治家などによくみられる下品な後出しジャンケンである。そのてつをみずからがふまぬよう、出来事がおこっているまっただなかのナマな声の忠実な再現をめざした。

第六話のタイトルは「生き延びるために芸術は必要か」となっている。本書と同タイトルである。

しかしここで問題にしたかったのは、「必要」か「不必要」かの二者択一ではない。むしろAかBかどちらですかという発想自体に疑問をなげかけることであった。第六話のストーリー展開はいささか紆余曲折している。結論を急がず寄り道することのおもしろさとしてうけとめていただけたらと思う。

第七話と第八話で語りたかったのは「明治」についてである。私はながらく、明治とは我々の時代からかけはなれたふるくさい過去にすぎないと思いこんでいた。いまにつながるてごたえがみいだしにくく、地続きな感じがしない。なんというか触れている実感にとぼしかったのだ。

とおくにあったそんな明治に目をむけさせてくれる機会があった。2021年、某美術館において画家、青木繁にまつわる展覧会を開催させていただいた(*2)。青木が明治という激変の時代をいかに生き延びようとしたか。あるいはなぜ生き延びることができなかったのか。いやいやそういうことではなく、人間として生き延びることができなかったがゆえに、芸術家として生き延びることができたのかもしれないではないかと、悲喜こもごもに青木繁へと思いを馳せるなかで、青木が生きた明治という激変の時代にも興味がわいてきた。

青木のライバルであり盟友でもあった明治生まれのもうひとりの画家、坂本繁二郎のことも、やがて気になってきた。正直なところ、坂本繁二郎については当初青木繁ほどの興味があったわけではない。しかし青木を知るには坂本を、坂本を知るには青木を知る必要があるとわかり、あらためて坂本繁二郎の画業と人生の足跡も追ってみたくなった。

青木と坂本の複雑な関係については、たとえば松本清張が1982年に発表した問題作『私論 青木繁と坂本繁二郎』がある(*3)。しかし私の視点はそれとは異なる。結果的にはむしろ松本清張とは逆の立場をとることになった。

青木と坂本という明治生まれのふたりの画家を考察するにあたり、キーパーソンとして、ある文学者にもいきあたった。夏目漱石である。

漱石について語るにあたり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を援用した。しかしここでも結果的には、司馬遼太郎の明治史観への、なんというかおそれおおくもという感じだが、私なりの異議申し立てとなった。

松本清張も司馬遼太郎も私の敬愛してやまない立派な小説家である。共感するところがいっぱいあるのだが、「明治を生き延びる」とはどういうことなのかを自分なりにとらえていくなかで、このふたりの巨匠に少々違和感が生じてしまった。なおこの第七話と第八話のみ、大学講義ではなく東京と久留米の美術館での講演がもとになっている(*4)

以上全八話のテーマは一見ばらばらに感じられるかもしれないが、いずれにも生き延びるとはなんだろうかという問いが底流にある。異なる角度からながめてみることで、「生き延びる」問題が多面的にうかびあがってくることがめざされている。首尾よくそうなっているかどうかはあやしいし、一介の美術家にすぎない私が「生き延びる」という切実かつおおきなテーマにどれくらい肉薄できているのかは、はなはだ疑問でもあろう。

もとより本書は結論を急ぐのが目的ではない。読者のみなさんとともに、じっくりと生き延びる希望について語りあえたらと思う。

*1 大阪大学 文学研究科アート・メディア論コースの特任教授として、毎年平均2回の講義を行っている。第一回は2019年8月6日。現在も連続講義は続けられている。
*2 アーティゾン美術館における展覧会、『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×森村泰昌 M式『海の幸』─森村泰昌 ワタシガタリの神話』(2021年10月2日〜2022年1月10日)のことを指す。
*3 『私論 青木繁と坂本繁二郎』(昭和57年7月25日発行、新潮社)のことを指す。
*4 アーティゾン美術館・「青木×坂本展」土曜講座第1回・「ふたりの『繁』が作り出した美術の世界/前編」(2022年9月10日)および、久留米市美術館・講演会「ふたりの『繁』が作り出した美術の世界/後編」(2022年11月26日)のことを指す。

目次

【はじめに】――なぜ、「生き延びる」なのか
【第一話】生き延びるのはだれか
【第二話】「私」が生き延びるということ・その1
      ――フランシスコ・デ・ゴヤのばあい
【第三話】「私」が生き延びるということ・その2
      ――ディエゴ・ベラスケスのばあい
【第四話】華氏451の芸術論――忘却とともに生き延びる
【第五話】コロナと芸術――パンデミックを生き延びる
【第六話】生き延びるために芸術は必要か
     ――作品、商品、エンタメ、芸能、そして『名人伝』
【第七話】芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その1
     ――夏目漱石と『坂の上の雲』から明治を読み解く
【第八話】芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その2
     ――青木繁と坂本繁二郎が残したもの
【おわりに】――生き延びることは勇ましくない

著者プロフィール

森村泰昌(もりむらやすまさ)
1951年、大阪市生まれ。美術家。京都市立芸術大学美術学部卒業、同大学美術学部専攻科修了。’85年、ゴッホの自画像に扮するセルフポートレイト写真『肖像・ゴッホ』を発表。以降、今日に至るまで、一貫して「自画像的作品」をテーマに作品をつくりつづける。国内外で多くの展覧会を開催。ヨコハマトリエンナーレ2014ではアーティスティック・ディレクターを務める。’18年、大阪市北加賀屋に「モリムラ@ミュージアム」をオープン。著書に、『自画像のゆくえ』(光文社新書)など多数。’07年、芸術選奨文部科学大臣賞、’11年、毎日芸術賞を受賞、同じく’11年、一連の芸術活動により紫綬褒章を受章。’22年には、「人間浄瑠璃 新・鏡影綺譚」で企画、床本を担当し、文楽の人形遣い・桐竹勘十郎氏と共演するなど活動の幅を広げつつ、「私とは何か」という問いを追求しつづけている。

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