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少女から若いお爺さんまで…編集者が贈るブックガイド:【第1回】ちょっと長いまえがき|駒井稔


著者に寄り添い、あるいは対峙しつつも、読者と同じ立ち位置の存在でもある編集者ならではの気取らぬ読書論を、雑誌編集者として、また古典新訳文庫の編集者として長年活躍してきた駒井稔が、エッセイ風に綴ります。

「8歳から80歳までの本好きの方々に贈る、とっておきのブックガイド」

話題は日本だけでなく、海外の書店や出版社、編集者、作品へと縦横無尽に広がる予定です。肩の力を抜いてどうぞお楽しみください。


第1回:ちょっと長いまえがき


駅で見かけた本好きの少女


先日、ちょっと忘れがたい出会いがありました。

小学校の高学年、5年生か6年生くらいの少女が、飯田橋で地下鉄から降りた私の前を歩いていたのですが、改札に向かうエスカレータ―に乗ったとたん、手に持っていた厚い本を手すり(ベルト)の上に置き、一心不乱に読み始めたのです。

私が確信したのは、彼女がコミックではなく、本を読んでいるだろうということでした。なぜなら、彼女の眼は忙しく上下動を繰り返し、活字を夢中で追っているのが一目瞭然だったからです。

そのあまりに真剣な表情に、私は打たれました。本当に本が好きで好きでたまらない人間がここにいる。じっと見つめる私を一顧だにせず、少女は本を読み続けたままです。私は胸の高まりを抑えらませんでした。少女は改札に向かって歩きながらも、本を読むのをやめずに、そのまま悠然と改札を通り抜けていきました。

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書店の文庫コーナーで出会った老婦人


つい最近、もう一つ、新しい出会いがありました。散歩の途中で立ち寄ったショッピングモールにある大きな書店で、私はいつものようにお気に入りの文庫の棚へと歩いていきました。なかなか素晴らしい品揃えのコーナーがあるのです。そこに歩行器に身をもたせ掛け、熱心に本を選んでいる老婦人がいました。

彼女の手にあったのは、全米図書賞を受賞して評判になっていた、柳美里さんの『JR上野駅公園口』です。失礼ながら、歩くことも大儀そうな年齢の婦人が、最新の話題作を手にしているのを見て、驚きを禁じ得ませんでした。彼女はその他の文庫も次々と手に取っていきます。いずれも最近刊行された作品ばかりです。

書影1_JR上野駅公園口

そして最後に、ナイジェリア出身の女性作家・アディーチェの短編集『なにかが首のまわりに』にじっと目を落としているではありませんか。その優れた短編集は私も読んでいましたが、アメリカとナイジェリアを舞台に描かれた小説は、どれも大変魅力的なのです。思わずじっと見ていると、婦人は私の邪魔になると思ったのか、よろよろと歩行器を押しながらその2冊を持ってレジに向かいました。

書影1_なにかが首のまわりに

彼女は柳美里さんやアディーチェの本に関する情報をどこから手に入れたのでしょうか。私は直接尋ねたくなる自分を必死に制しながらも、不思議な感動に襲われていました。あの少女の70年後を見たような気がしたからです。そして、この二人が、本との出会いをもっともっと充実させたいと考えていることが手に取るように分かったからです。あの少女はきっと編集者になるのではないかと勝手な妄想が膨らみました。

週刊誌編集者時代の、とある記憶


じつは私にも、少女のような経験があったのです。時は20世紀の終わり近く。30代の半ばであった私は、雑誌編集者として男性週刊誌の現場で働きながら、今の若い世代には想像もできないような無頼で懶惰(らんだ)な日々を送っていました。しかし、編集者という仕事柄、激動する世界の動きを敏感に感じ取る環境にいたことも確かです。

ですから私は、こんな時こそ原点に帰るという意味で、世界の古典を読み直そうと考えていました。そして文字通り寸暇を惜しんで読書に励んだのです。もちろん、そんな時代ですから、大好きなお酒を飲むことはやめませんでしたが。

ある晩、同僚たちと新宿でお酒を飲んでいたのですが、どういう流れからか、突然、歌舞伎町のクラブに行くことになりました。どんな無駄話でも編集に関する話は、私にとっては大きな関心事でしたが、クラブのようなところで交わされる会話は、じつはとても苦手だったのです。先輩や上司たちが妙齢の女性たちと楽しそうに話しているのを見ながら、私は焦燥に駆られていました。本が読みたい。

ついに我慢ができなくなった私は、ほの暗いクラブのソファの片隅に座ったまま、目立たぬように、そっと本を出して読み始めてしまったのです。異様な行為だということは十分理解していましたが、どうしても自分を制することができませんでした。その光景を今でもまざまざと思い出すことができます。ですから少女の心情はよく理解できたのです。

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「編集者」の読書論?


さて、この連載のタイトルは、『編集者の読書論』です。編集者の友人たちから、「お前も偉くなったもんだなあ。なんと読書論を書いたのか」と言われるのが目に見えるようです。ご安心あれ。私の読書論は、「論」と銘打ってはいますが、編集者ならではの現場で学んだ経験に基づいて書くものですから、理論的かつ思想的な所見が満載の学者や専門家の書いた読書論とはまったく違うものです。

とはいえ、雑誌を含め、たくさんの書籍を編集してきた経験から学んだことは、きっと皆さんの参考になるはずですし、そういう意味ではあまり類例がない内容となると思います。どうぞ気楽に読んでいただきたいと思います。本連載で私が目指すのは、「読んで楽しめる読書論」です。

そうはいっても、「編集者」と冠してあるけれども、本当のところ、「編集」がどういう仕事なのかよく分からない方も多いと思います。これが「新聞記者」という職業なら、極めて鮮明なイメージを描くことができるでしょう。報道の対象を取材して記事を書くという具体的な像が浮かぶと思うのです。それに比べて、編集者という職業は、具体的にイメージするのは意外に難しい。

にもかかわらず、最近は大きな書店に行けば、「編集者」というコーナーまであって、編集者たちが書いた編集論や読書論、さらには自伝のような本もたくさん並んでいます。

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編集者の一般的なイメージを思い浮かべることのできる例を一つ挙げてみましょう。日本のテレビドラマによく登場するのは、若い編集者です。新人の彼/彼女は、張り切って大家の原稿を取りにいくのですが、最初は失敗ばかり。大作家の不興を買います。しかし、夢中で原稿をお願いするうちに、作家の方もその意気込みと誠実さを理解して、失敗を許し、原稿を締め切りまでに書き上げる。こんな筋立てのドラマを、一度は観たことがあるのではないでしょうか。

この若者こそが、日本における平均的な編集者像を体現しているように思えてなりません。しかしながら、それはあくまで編集者の仕事の一面を伝えているにすぎないといえるでしょう。

日本における典型的な編集者と作家の関係


山田宗睦(やまだ・むねむつ)という思想家が書いた『職業としての編集者』という本があります。1965年にカッパブックスで『危険な思想家』というベストセラーを出した学者ですが、実は東京大学出版会で編集者としてそのキャリアをスタートしています。

ちなみに『職業としての編集者』という同じタイトルで、もう一人、『君たちはどう生きるか』を書いた吉野源三郎が岩波新書で書いていますが、こちらもお勧めです。

さて、その山田宗睦が書いた本には、編集者として啓発される言葉が散りばめられています。現在は古書でしか手に入りませんが、一読する価値のある本だと思います。そこに、昭和の前半のことだと断りながらも、大衆向けの読み物の雑誌編集者から聞いた話としてこんなエピソードが紹介されています。

 
作家の印税を届けるのに、紋付き、袴(はかま)で、人力車で乗りつけ、玄関先でうやうやしく袱紗(ふくさ)につつんだ印税を、渡したという。一種のセレモニーである。出版社の威勢と、その作家の社会的体面と、双方を立てるセレモニーである。

さきほど、テレビドラマに出てくるような日本における平均的な編集者像をお伝えしましたが、このエピソードも、日本における典型的な編集者と作家との関係を表しているといえるでしょう。

書影1_職業としての編集者


欧米における「editor」の地位


他方で、私はある時、欧米では編集者に対するイメージが全然違うことに気づきました。

16年にも及ぶ週刊誌編集者の仕事を離れ、書籍編集部に異動になった後、ロンドン滞在中に、友人になったイギリス人たちと夕食を共にしたことがあります。そのころ私は、イギリスの文学散歩を楽しむ旅によく出かけていたのです。

しばらく歓談した後で、一人の男性が遠慮がちに私の職業を尋ねました。私自身もそんなに意識することなく、英語で編集者にあたる「editor」という単語をごく自然に使いました。

その時の反応は予想を超えたものでした。一瞬、女性も男性も黙ってしまったのです。これには私の方がびっくりしました。なにか気に障ることでも言ったのかと思ったのです。しかし、そういう雰囲気でもありません。

そのうち沈黙を破るように、その男性が陽気な口調でこう言ったのです。

「ハイ、ミノル(これは私のファーストネームです)、一度、俺の家に来て母に会ってやってくれ。生きているうちにエディターと話すことができたら、本の大好きな母はさぞや喜ぶだろう。頼むぜ」

いかにもイギリス人らしいジョークではありましたが、他の人間は笑いながらも深く頷(うなず)いているではありませんか。私のなかで不思議な印象が残った瞬間でした。エディターはこの国では、そんなに尊敬されている存在なのかと思ったからです。実際、その印象はあまり間違っていなかったようです。

職業人としてのエディター


私は翻訳書の編集に携わったおかげで、外国の出版社と直接コンタクトする機会に恵まれました。

たとえば、世界最大のブックフェアであるフランクフルト・ブックフェアには毎年参加して、世界中から来た出版関係者と話をすることができました。また、ニューヨークでは、映画で観たような摩天楼の中に入っている出版社を訪ねて、遙か眼下にニューヨークの市街を眺めながら、これから刊行される本の紹介をしてもらうのが常でしたし、ロンドンのブックフェアに参加した時には、イギリスの老舗出版社を訪問する機会もありました。

そういう時に感じたことを率直に言えば、日本に較べて編集者の地位が高いなあということでした。誤解してもらっては困るのですが、別に威張りたいのではありません。しかし、先の引用で紹介した編集者のように、日本では編集者は偉い先生の原稿を押しいただく存在として捉えられることが多い。

海外の出版界との付き合いで感じたのは、そういうものとはまったく違う編集者像でした。誤解を恐れずにいえば、編集者は書き手と対等ですし、書き手にも率直に意見できる存在なのだということでした。

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ブックフェアで出版関係者と話していると、時々、「今日は“エディター”がいる」と紹介されることがあります。そういう時に「エディター」は、少なからぬ尊敬の念をもって語られることが多いことに気づきました。「エディター」の翻訳語が「編集者」だとすると、かなりニュアンスが違うのではないかと直観的に悟ったのです。

先ほどのテレビドラマに登場する若手編集者に代表されるように、日本では「出版社に属する組織人」のイメージが先行しますが、欧米では「職業人としてのエディター」が、独立して存在している印象がありました。

編集者の資質とは?――第一級の批評眼


さて、それでは、編集者に必要な資質とは何でしょうか。

あくまで私の個人的な意見ではありますが、なによりも編集者は一級の批評眼を持っていなければならないと思います。

興味深いエピソードを一つ紹介しましょう。気鋭の現代ラテンアメリカ文学研究者である寺尾隆吉さんの書いた『ラテンアメリカ文学入門』には、以下のような驚くべきエピソードが紹介されています。

書影1_ラテンアメリカ文学入門

1955年に、スペインのバルセロナにある先進的な新興出版社であるセイス・バラル社は、「ビブリオテカ・ブレベ」という文学コレクションを立ち上げ、ラテンアメリカ文学の動向を注視するようになっていたのですが、そこでこんな奇跡的な出来事が起きたのです。

 
 一九六二年のある日、「ビブリオテカ・ブレべ」の創始者の一人だった編集者カルロス・バラルは、書庫に眠っていた不採用原稿の山を何気なく探りはじめ、三番目に手にした草稿の書き出し「―〈「四だ」ジャガーが言った〉―」に興味を覚えて読みはじめた。「たった数ページで世紀の大発見をしたことに気づいた」と後にバラルが回想したこの小説の作者は、マリオ・バルガス・ジョサ、パリ在住のペルー人だというので、勢い込んで訪ねていくと、場末の古びたアパートから出てきたのは、口髭(くちひげ)の目立つ「タンゴ歌手のような」男だった。この「疑り深い目つき」の若いペルー人とそのまま長時間話し込んだバラルは、セイス・バラル社の看板企画だったビブリオテカ・ブレベ賞に草稿を提出する約束を取り付け、目論見どおりこの作品を六二年度、第五回の受賞作とすることに成功した。

編集者バラルのおかげで、マリオ・バルガス・ジョサ(リョサ)のこの作品は、スペイン語圏全体を巻き込む大ヒットなりました。この小説こそ、かの名高い『都会と犬ども』だったのです。没原稿の山から大傑作を見つけ出す。まるで映画のような仕事ぶりに思えるかもしれませんが、個人的にはこれこそが編集者の仕事だと思います。

書影1_都会と犬ども

しかし、編集者も人の子。もちろん、間違いも犯します。後世に残る傑作も、最初の段階ではほとんどの出版社に拒否されたという話は珍しいものではありません。

編集者はビジネスパーソンであらねばならない


もう一つ付け加えれば、編集者は本の市場を観察することに長けたビジネスパーソンでもあらねばならないということです。このことはあまり触れられませんが、じつはとても重要なことだと思います。

理想を掲げるのは尊いことですが、市場を読み誤ると、継続した出版は不可能になります。だからといって、売るためにだけに愚劣なヘイト本を出していいことにはもちろんなりません。

フランスを代表する名門出版社・ガリマール社の名前を聞いたことのある方も多いと思います。『ガストン・ガリマール――フランス出版の半世紀』という本に、創始者であるガリマールについて、こんなエピソードが紹介されています。

 
 だがこの素人実業家(ガストン・ガリマールのこと)は数年間の実務経験から、出版業とはなによりもまず商売なのだということを早くも悟った。そこで、それまでは無頓着でコンサートや舞踏会の常連だった耽美主義者は突如としておそるべき実業家、平然としてでたらめを口にする狡猾な男、他人に何かを頼み、求める場合は執拗きわまりない人間に変貌したのである。

この評伝の作者の書き方は、いささかアイロニカルで極端な感じもしますが、言いたいことはよく分かります。フランスの老舗出版社の創始者で「フランス文学、それは私だ」とまで言った人物でも、このような変身が必要であったということでしょう。

書影1_ガストン・ガリマール


「読書論」「読書術」について考えてみる


さて、今度は「読書論」について考えてみましょう。

世の中には無数の読書論、あるいは読書術の本があります。書店にも図書館にも、「読書論」の棚が必ずといっていいほど用意されています。私自身の書棚を見ても、清水幾多郎や小泉信三の『読書論』、加藤周一の『読書術』などなど、高名な学者の書いた読書論が並んでいます。これを見ると、今さら私ごときがなにを付け加えることがあるのかと逡巡してしまうくらいです。

かのショーペンハウワーの有名な『読書について』は後の章で触れることにしますが、「読書論」とは、とにかく昔から優れた書き手によって、たくさんの本が書かれてきたジャンルであることは間違いありません。

1979年に河出書房新社から刊行されたムック形式の『読書術――人生読本』という、今となってはちょっと気恥ずかしいタイトルの本があります。この連載を書くために、書棚の奥から久しぶりに取り出してみました。そこには、小林秀雄から始まって、江藤淳、石川淳、長田弘、庄野潤三、桑原武夫などなど、錚々たる詩人や作家たちが読書について書いた懐かしい文章が並んでいます。

その中に「読書術」に対する三島由紀夫の極めて辛辣な表現を発見して、これに共感した若い自分を思い出しました。「私の読書術」と題されたエッセイには、以下のような文章が収録されています。


 しかし、本とはよくしたもので読むはうに「読書術」などといふ下品な、町人風な、思ひ上がった精神があれば、本のはうも固く扉をとざして、奥の殿を拝ませないのが常である。殊に文学作品を読むには、それなりに一定の時間と、細心の注意と、酔ふべきものには酔ふ覚悟が必要である。

芸術至上主義者の三島らしい言葉だと思いませんか。忘れていたことを思い出させてくれる真の文学者の言葉だと思います。彼が今の世に蘇り、現在の本を取り巻く状況を見たら何と言うかは想像がつきます。

さて、私の印象に残っているもう一つの文章は、詩人の谷川俊太郎さんが書いたものです。「本について」というシンプルなタイトルが付いています。


 本を読み過ぎるよりは、読み足らぬ方がいいというのが、私の主義です。近頃の本屋はそういう私には余りに量的すぎて不快です。私はよく、一冊の本を読むこととぼんやり草の上に座って夕焼けを眺めることとの重味を比較し、後者を択ぶことが多いのです。

これも読書の本質を語った、詩人らしい、とてもシンプルで深い表現だと思います。本を読むより夕焼けを見る方がいいと敢えて宣明することは、とても素敵なことだと、この文章に大いに共感したものです。

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直接「役に立つ本」もいいけれど……


いわゆる「読書論」や「読書術」の本が激増したのは、20世紀の終わり頃からであったでしょうか。「バブルが弾けて」という決まり文句が終わり、「新自由主義」というほとんど誰も本質を理解できない経済用語が、まるで新しい生き方の指針のように喧伝されるようになった頃からだと記憶しています。社会に格差が広がり始めたことを実感し始めた時代といってもいいでしょう。

時を同じくして、日本人にとって革命的な本が刊行されました。『金持ち父さん貧乏父さん』です。この本がどれほどのインパクトを持っていたか。敗戦後に軍国主義に代わって民主主義を教えた新しい教科書もかくやというような急激な価値観の転換が行われ、瞬く間に世の中に広がっていきました。お金よりも大事なことがあるという価値観は根こそぎにされた印象があります。「読書術」と「投資」。一見すると何の関係もなさそうなこの二つのテーマは、しかしながら、わが国の書物の歴史においては、深いところでつながっているように思えてなりません。

若い世代がワンルームマンション投資をして、老後に備えるなどということが普通に行われるようになり、書店には株式投資や不動産投資をテーマに、大金持ちになれるというタイトルの付いた本が大量に並ぶようになりました。『年収が〇〇倍になる読書術』などというタイトルも目に見えて増えました。

これをもって責めることは誰にもできません。ビジネスパースンは生き残りに必死になるのは当たり前です。仕事に関係のある本はもちろん、自分の生活に直接役立つ本を読むことに人々が狂奔することは止めようもありません。しかし、そこにある種の切なさと痛々しさを感じるのは私だけでしょうか。

いとこの娘さんへのお勧め本は――編集者の腕の見せどころ


話は元に戻りますが、『編集者の読書論』において、ある意味多読を旨とする編集者の一番の腕の見せどころは、読者にお勧めの本をすぐに挙げることができることだと思います。個人的にも編集者という仕事柄、お勧めの本はありませんか、とよく尋ねられます。

従兄弟の高校生の娘さんは、超のつく本好きです。読み終わった本を送ってあげると、あっという間にすべて読破してしまう。その咀嚼(そしゃく)力には感嘆することしきりですが、ある時、この高校生が私に、フランスの古典文学を読みたいのだけれど何かお勧めはありますか、と聞いてきました。私が古典新訳文庫をプレゼントしていたので、聞いてきたのでしょう。

すでにかなり世界の古典文学を読んでいることは承知していましたので、試しにフローベールやゾラの長編は読んだかと聞きました。

「いいえ、いつも『感情教育』『ナナ』を読もうとして挫折してしまうんです。長い作品は、なんとか読めるものとまったく歯が立たないものとにはっきり分かれます」

そこで私が勧めたのは、古典新訳文庫に入っているフローベールの短編集『三つの物語』と、ゾラの『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家――ゾラ傑作短編集』でした。個人的にもたいへん好きな作品ばかりで愛読していたので、躊躇なく勧めることができました。

特に『三つの物語』の最初の短編である「素朴なひと」は、私の偏愛の対象です。

書影1_三つの物語

貧しい環境で育った主人公のフェリシテは、偶然ある家の家政婦になります。その家の娘を可愛がり、また自分の甥(おい)を溺愛しますが、女主人の娘も甥も不幸にして亡くなります。この家にもらわれてきた鸚鵡(おうむ)のルルだけが、彼女の心の拠り所となるのですが、その鸚鵡も死んでしまう。フェリシテはルルを剥製(はくせい)にして大切に保存します。やがて老いて病んだ彼女は死の苦しみに襲われます。私はラストの見事な文章を音読してあげました。

最後の息を吐き出した瞬間、フェリシテは、空が開かれてゆくところを見たように思った。そこには、とほうもなく大きな鸚鵡が、自分を包み込むようにして、羽を広げていた。

こんな話をしてから、従兄弟の娘さんに本を送ると、程なくして連絡がありました。

「読み終わりました。フローベールもゾラも、めっちゃ面白かったです。こういう作家なのですね。これなら長編にも再挑戦できそうです」

「めっちゃ」という言葉に笑いながらも、この反応にはうれしくなりました。

「若いお爺さん」へのお勧め


さらには、学生時代からの友人たちからアドバイスを求められる機会も激増しています。

「お前は編集者なんだから、俺たちのようなセミリタイア世代が読む本を推薦できるだろう。昔、無理して読んだドゥルーズやデリダなんかの思想書なんかもうたくさんだし、小説も長い間読んでいないので、この年齢から何を読んだらいいのかわからないんだ。本屋に行っても、もちろん図書館でもうまく選べないんだよ」

そう言って嘆いたYは、もともとは文学部出身の文学青年です。メーカーに長く勤めたので、本とは少し距離ができてしまったようです。難解な思想書はもう勘弁してくれというのは、よく分かります。若い時に背伸びして構造主義などを分かったふりして語った世代ですから。

そしてたしかに、シニアといわれる若いお爺さんのための読書ガイドがないことに気づきました。結局、Yに勧めたのは『ガリバー旅行記』でした。

書影1_ガリヴァー旅行記

小人国と巨人国の話は、子ども向けにダイジェストされた本でほとんどの日本人が知っています。小人国で髪の毛をピン止めされたガリバーの絵は、子ども向けの本には必ず載っています。しかし、原典は大人のために書かれた物語ですから、話はさらに先に進むのです。なんとガリバーは日本に来ているのです。そして踏み絵を踏まないようにうまく立ち回るのですが、この話をするとYの眼が輝きました。「それ、すぐにも読んでみるよ」

私が推薦したのはワイド版 岩波文庫『ガリヴァー旅行記』でした。老眼が進んだこの世代にはぴったりの、ありがたい字組みだからです。やがてYからLINEが来ました。

「今まで何を読んでいたのだろう。あまりの面白さに夢中で読んでしまったが、自分が読んだ『ガリバー旅行記』は、ほんの一部だったのだな。騙された!」

彼の怒りに逆に癒される思いがしました。

私なりのたくさんのお勧め本を紹介します


さらには、40代になって男の料理教室に通い始めた独身の友人には、ブリア・サヴァランの『美味礼讃』(中公文庫)を勧めました。うれしいことに、料理の奥義を語り尽くしたといわれる名著『料理の四面体』を書いた玉村豊男さんが編訳したものが刊行されたのです。

「君が何を食べているか言ってみたまえ。君が何者であるか言い当ててみせよう」という有名な言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。この本は、従来の翻訳ではなかなか読むのが大変でしたが、玉村さんの解説が随所に挿入されているこの新訳なら、気持ちよく読書できます。

書影1_美味礼讃


このように、私なりのたくさんのお勧め本があります。それを含めて、この連載では読んで楽しい「読書論」になるよう心がけるつもりです。

すでに触れたように、真面目な読書論の本はもうすでにたくさんありますが、読んで楽しめる読書論はあまりお目にかかったことがありません。ですから、本の好きなすべての方々に読んで欲しいと思っています。

読者と同じ立ち位置である編集者ならではの気取らぬ読書論をエッセイ風に綴っていきますので、肩の力を抜いてどうぞお楽しみください。


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【第1回の読書ガイド】


・『JR上野駅公園口』
柳美里著、河出文庫
・『なにかが首のまわりに』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著、くぼたのぞみ訳、河出文庫
・『職業としての編集者』山田宗睦著、三一新書
・『職業としての編集者』吉野源三郎著、岩波新書
・『ラテンアメリカ文学入門』寺尾隆吉著、中公新書
・『都会と犬ども』マリオ・バルガス・リョサ著、杉山晃訳、新潮社
・『ガストン・ガリマール――フランス出版の半世紀』ピエール・アスリーヌ著、天野恒夫訳、みすず書房
・『三つの物語』フローベール著、谷口亜沙子訳、光文社古典新訳文庫
・『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家――ゾラ傑作短編集』ゾラ著、國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫
・『ガリヴァー旅行記』スウィフト著、平井正穂訳、ワイド版 岩波文庫
・『美味礼讃』ブリア・サヴァラン著、玉村豊男編訳・解説、中公文庫
・『料理の四面体』玉村豊男著、中公文庫


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【著者プロフィール】

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駒井 稔(こまい・みのる)

1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。

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