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【第99回】「戦前」とは何だったのか?

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★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!


「戦前」を支えた「神話」

「戦前」という言葉を聞いて思い浮かぶのは、天才的な業績「多変数関数論」で知られる数学者・岡潔のことである。1901年(明治34年)生まれの岡は、日本で最も有名な数学者だといっても過言ではない。世界的な「岡の定理」に加えて、彼が著作や講演を通して未来の日本人に警告を発したからである。
 
岡は、常にゴム長靴を履き、文化勲章を受章した際には、昭和天皇に「数学とは生命の燃焼です」と答えた。大学講師時代には、突然中学生を襲って自主退職し、「金星から来た娘」と会話を交わした翌日に「岡の定理」を発見。「2012年に天照大神が降臨する」と予言するなど数多くの奇行でも知られる。
 
岡は、日本人の「情緒」を何よりも大切にした。幼い頃から父親が岡に教えたのは「日本人は桜の花が好きである。それは散りぎわがきれいだからである」という信条だった。「父の話してくれる、北畠顕家や楠正行の率いる若人たちの死を恐れぬ疾風の進軍が、パッと咲いた花吹雪を見るように美しく思えた」と岡は言う。65歳になった岡が「今でも、小学校で習った唱歌『吉野を出でて打ち向かう、飯盛山の松風に……』を口ずさむと、そのときの感激がピリピリッと背骨を走る」と書くほど、彼は古風な父親の影響下にあった。
 
1965年に小林秀雄と対談した際には「私は日本人の長所の一つは、時勢に合わない話ですが、『神風』のごとく死ねることだと思います。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです」と主張している。小林が仰天して「あなた、そんなに日本主義ですか」と言っているくらいだから、岡の「日本主義」崇拝は相当なものである。(この対談の詳細な分析については、拙著『小林秀雄の哲学』をご参照いただきたい)。
 
本書の著者・辻田真佐憲氏は、1984年生まれ。慶応義塾大学文学部卒業後、同大学大学院文学研究科中退。現在は評論家。専門は近現代日本史。著書に『防衛省の研究』(朝日新書)や『日本の軍歌』(幻冬舎新書)など多数。
 
さて、「戦前」といえば「大日本帝国憲法」「八紘一宇」「教育勅語」「良妻賢母」「言論封殺」などの言葉が浮かぶ。「教育勅語謹解」では「孝行・友愛・夫婦ノ和・朋友ノ信・謙遜・博愛・修学習業・智能啓発・徳器成就・公益世務・遵法・義勇」を順守することが「臣民」の「忠孝」と定められている。
 
この「十二徳」に郷愁を抱く人々は「戦前回帰」を求め、戦後の日本に舞い降りてきた「自由・平等・平和」を求める人々は「戦前回帰」をグロテスクな時代錯誤とみなす。ところが、そこで使われる「戦前」という言葉自体が、「都合のよさそうな部分を適当に寄せ集めた」奇怪な概念にすぎないというのが辻田氏の立場である。辻田氏によれば、戦前の本質は「神話」にある。
 
本書で最も驚かされたのは、明治維新によって、日本は天照大神の直系である神武天皇に統治される「神国」だという「神武創業」の神話が法律や教育に組み込まれた、という分析である。そこから「天皇は万国の大君である」という天地開闢の誇大妄想に繋がり、「米英を撃ちてし止まむ」と大東亜戦争に繋がる。要するに、「戦前」とは「神話」に支えられた「物語」の世界だったというわけである!

本書のハイライト

「プロパガンダをしたい」当局と、「時局で儲けたい」企業と、「戦争の熱狂を楽しみたい」消費者という三者にとってウィン・ウィン・ウィンな利益共同体が、軍歌という空前の国民的エンターテイメントを生み出したのである。別に古臭くマニアックな話ではあるまい。現在でも、衝撃的なニュースが飛び込んできたら、便乗的なウェブ記事などがたくさん出てくる。消費者もそれを積極的に受容している。そして政府もそれに乗っかって予算や法律を通そうとしたりする。独裁的な司令塔があるわけではなく、ただ空気によってなんとなく流されていく。この「波乗り」は日本社会でよくみられる現象だ。(pp. 284-285)

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著者プロフィール

高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。


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