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【新連載】小説家はつらいよ――エンタメ小説家の失敗学1 by平山瑞穂

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「書籍が売れない」という言説は、1980年代から存在したそうです(出典失念)。出版不況について「底が抜けた」という表現もよく使われますが、いったい何枚底があるのかわからないくらい見聞きしてきたので、もはやただの枕詞のようにしか感じなくなりました。他人事ではなく、弊社もこの荒波に揉まれ続けています。

こういう状況は当然、書き手の方も直撃します。特に専業作家であればあるほど。

本連載は小説家の平山瑞穂さんが、自らの身に起こったことを赤裸々に書き綴ったものです。

平山さんは、2004年に『ラス・マンチャス通信』で第16回日本ファンタジーノベル大賞を受賞され、作家デビューを果たされました。作品リストには大手出版社の名前がずらりと並び、自作が映像化されたこともあり、『あの日の僕らにさよなら』(新潮文庫)は10万部を超えています。にもかかわらず、小説家で食べていくのは無理だとおっしゃいます。にわかには信じられませんが、いったいなぜなのでしょうか?

本連載は、平山さんがこれまでの小説家人生を振り返り、それを「失敗学」という枠組みでまとめるものです。いったい何が”失敗”だったのでしょうか? 平山さんのファンの方、本好きの方、小説家・編集者志望者、出版業界人であれば、間違いなく興味深く読んでいただけますし、前出の疑問に対する答えも出てくるでしょう。

しばらくの間、よろしくお付き合いください(光文社三宅)。

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平山瑞穂さん、最新刊です。

はじめに 前編

恐怖のPOSデータ

 出版不況が叫ばれはじめて久しい。市場規模で見ると、過去二〇年以上にわたって減少が続き、ピーク時である一九九六年と比較して四割減にも達しているとのデータもある。映像なども含めたコンテンツ産業の多角化に伴い、いわゆる活字離れはもはや否定しようのない段階に達していると言っていいだろう。

 それでもなぜか、「小説家になりたい」という人はあとを絶たない。

 年々、インターネットを媒体としたものも含めた無数の新人賞の公募に応じるなどの形で、多くの人が作家デビューを果たそうとしのぎを削っている。これだけ小説というものが読まれなくなってきている中、その担い手になろうとする人だけはいっこうに減らないのはなぜなのか。僕にとっては、それが積年の謎のひとつになっている。

 それというのも、僕自身が、まさにその出版不況の煽りをもろに受けた当事者の一人でもあるからだ。

 僕は小説家であり、二〇〇四年、『ラス・マンチャス通信』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞することでデビューしてから一八年間にわたって、評論も含めれば二八の作品(二七の長篇と、短篇集がひとつ)を世に問うてきた。発表した作品の数として、決して少ないほうではないと思う。それも、新潮社、小学館、KADOKAWA、早川書房、幻冬舎、中央公論新社、文藝春秋など、ほとんどはよく知られた、大手から中堅どころの出版社を版元としている。そこだけに目を向ければ、順調に作家としての階梯を辿ってきたように見えるかもしれない。

 しかし実のところ、その道のりは悪戦苦闘の連続だった。大手を振って「売れた」といえる本は、一冊かせいぜい二冊しかない。それ以外はことごとく初版止まりで、注目されることもなく、おびただしい刊行物の織りなす大海の藻屑として消えていった。

 毎回、「今度こそ」という思いを込めて、あの手この手で作品にさまざまな趣向を盛り込んでいったが、どれもこれも不発に終わった。そして過去数年に至っては、自分名義の本を出版すること自体がきわめてむずかしくなっている。最近は、本業では食っていけず、ライター業に身をやつしてどうにか糊口をしのいでいるありさまだ。

 そんな艱難辛苦を味わわせられているこの世界に、彼らはいったい、何を好き好んで飛び込んでこようとしているのか――小説家になろうとしている人々を見ると、ついそんな気持ちにさせられてしまうのである。

 この本を手に取られた方は、「小説家になりたい」と思っている人である確率が高いと思う。そういう人に対していきなり手厳しいことを言うようだが、小説家としてやっていくことは、そうたやすいことではない。その点は、最初にはっきりさせておく必要がある。

 もちろん、作家としてデビューできたこと自体は、またとない幸運だったと今でも思っている。新人賞などを受賞して自分の本を出せる立場になれるのは、ごくひと握りの人にすぎない。それで自分の好きなことを仕事にしてやっていけるなら、言うことなしだ。僕自身が、デビューした当時はそう思っていた。

 新人賞への応募を始めてからデビューできるまで、僕は一三年かかっている。それ自体、絶えざる忍耐力と意志の力が必要とされるつらい日々だったが、いざデビューが決まったとき、これですべてが報われると感じた。デビューさえできればこっちのものだと思っていた。自分には才能があると信じていたし、書きたい題材に事欠くことはないと踏んでいたからだ。

 しかし現実は、そう甘いものではなかった。僕は今もって自分の才能を信じているし、「こういうものが書きたい」というネタに困ることもない。しかし、いくら本人に新作を書ける条件が揃っていても、出版社に書かせてもらえなければ、それはなんの役にも立たないのだ。「書かせてもらえない」というのは、「企画として通してもらえない」ということだ。

 初版止まりが続き、「売れなかった」というデータが蓄積されていくと、作品のよしあし以前に、「この作家の作品は(どうせ売れないから)書籍化できない」という判断が下されるようになる。そうなるともはや、次の作品を刊行できる望みはあらかた絶たれてしまう。

 それは、実際に自分の本を出版してもらった実績のある特定の版元に限定される話ではない。紀伊国屋書店が提供する「パブライン」をはじめ、書店での実売数のわかるPOSデータなどを参照することで、その著者が過去に出した本がどれくらい売れているか(あるいは売れていないか)は、他社の社員であってもあらかた把握することができてしまう。その数字が軒並み悪ければ、よほどの特例的な事情でもないかぎり、そんな著者の新刊をあえて刊行しようとする出版社は、少なくとも大手の中には見つからないだろう。小説の書き手は、そういう流儀で切り捨てられていくのだ。

 小説家としての僕は現在、かぎりなくそれに近い状況にある。大きな利ざやは求めず、初版部数も限界まで絞り込んで勝負をかけているような小さな出版社から、いわばインディーズ的に、わずかな初版部数で小説を発表することは今後も続けていくつもりだが、名の知られた大手出版社などから新作を出すことについては、現時点でほぼ絶望視している。

 一〇年前、あるいはさらに遡ってデビュー直後くらいの時期は、もう少し業界も鷹揚だったと思う。それまでのところ売れた作品が存在しなくても、雑誌での連載を持つことができ、三、四本かけ持ちしている時期もあったし、前作の売れ行きがふるわなかったとしても、なお一作、二作は様子を見てもらえた。また、単行本が売れなくても、数年後にはほぼ自動的に文庫化してもらえた(文庫化というのは、単行本としてすでに存在している作品の、書籍としての形態が変わるだけで印税が入ってくるというものなので、その印税はいわば不労所得に当たる)。

 そうすれば、すべてが初版止まりだったとしても、連載時の原稿料、単行本の印税、そして文庫の印税(あとは、パーセンテージとしては小さいながら、電子書籍化の印税)とかき集めることでそこそこの収入にはなり、とりたてて贅沢はできないにしても、暮らしていくのに困ることはなかった。

 しかし二〇一〇年代に入ったあたりから、リスクを負うまいとする業界の引き締め姿勢は目に見えて鮮明になっていった。まず、連載を持たせてもらえなくなり、次に文庫化があたりまえのことではなくなった。単行本として売れなければ、文庫化もしてもらえなくなっていったのだ。それでもしばらくは、書き下ろしならかろうじて単行本を出すことができたものの、初版部数は減らされていった。そしてついに、企画そのものが通らなくなった。

 僕が直面させられたこうした苦難の数々が、出版不況の深刻化と無関係であったとは決していえないだろう。そういう意味で、僕は出版不況というものの厳しさを、肌で感じつづけてきた人間の一人だと言うことができる。同じ時期に小説家として活動してきた多くの人々が、おそらく多かれ少なかれ、似たような形で煮え湯を飲まされてきたのではないかと思っている。

 ただ一方では、そうした魔の手を逃れて売れつづけ、成功に次ぐ成功を積み上げている作家もいる。その違いは、いったいどこにあるのだろうか。(続く)

※本連載は終了後、光文社新書で書籍化予定です。

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