大江健三郎とは何者だったのか。没後1年を機に考える|井上隆史
二〇二三年三月三日、大江健三郎がこの世を去りました。八十八歳でした。
東京大学でフランス文学を学んでいた学生時代の作品「奇妙な仕事」以来、常に文学界の先頭を走り続けた大江。一九五八年に「飼育」で芥川賞、一九六七年に『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞、一九七三年に『洪水はわが魂に及び』で野間文芸賞、一九八三年に『「雨の木」を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛次郎賞を受賞、そして一九九四年には、川端康成についで日本で二人目のノーベル文学賞受賞者となります。その理由は、「詩的な力を駆使して想像の世界を生み出し、生と神話を凝縮して、ギョッとさせるようなやり方で現代人の苦境を描き出したため」というものでした。
同時に、『ヒロシマ・ノート』(一九六五年)、『沖縄ノート』(一九七〇年)といった評論活動を通じて社会に向かって反核、反戦、護憲を訴えるその姿は、狭い意味での文学の領域にとどまらない戦後民主主義を代表する知識人としての生き方を厳しく貫くものでした。
しかし、正直なところ、私自身は長い間、大江文学を敬遠してきました。本書の中でも詳しく述べますが、読んでいるとこちらの精神が搔き乱される。それが嫌だからです。ノーベル賞の受賞理由として、「ギョッとさせるようなやり方で現代人の苦境を描き出した」ということを書きました。これは、form a disconcerting picture of the human predicament todayという英文の私訳で、ギョッとさせるようなに相当するのはdisconcerting、すなわち予期せぬ形でこちらの心を搔き乱す、という意味です。大江文学には、そういうところがある。愛読者の中には、そこが魅力だという人が多いようですが、私は苦手で、あまり触れないようにしていたのです。
とはいえ、密度の濃い文体といい、時空の限界を超えた視野の広がりといい、大江がただならぬ文学世界を創造する鬼才の持ち主であることは間違いありません。川端康成がノーベル賞を受賞した時、受賞レースで川端のライバルだった三島由紀夫が、若き詩人の高橋睦郎に、「もう俺にノーベル賞の目はないよ。次に貰うのは大江だよ」と言った(『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』平凡社、二〇一六年十一月)ことはよく知られています。事実、その予想通りになったわけですが、これも大江の異才、異能を物語るエピソードだと言えます。
そこで、私もある時期から大江を少しずつ読み進め、自分なりの大江像を探って来ました。そして、あらためて思ったことがあります。それは、大江は戦後民主主義を代表する知識人という枠には決して収まらない存在であり、大江文学の真の魅力は、そういう評価とは別の場所、むしろそれを裏切る場所にあるのかもしれないということです。脳に障害をもって生まれた光さんを父親として大切に見守り共に生きてきたことから、差別やケアの問題に敏感な作家とも言われますが、この点についても事情はもっと複雑であるように思われます。
いったい、大江健三郎とは何者だったのでしょう。『万延元年のフットボール』という小説の中で語られるキーワードに「本当ノ事」というものがあります。それはある秘められたインセスト(近親相姦)をめぐる出来事なのですが、大江自身の「本当ノ事」は、いまだ明らかになっていないのではないか。
大江の「本当ノ事」はインセストの問題にとどまりません。本書では、大江の代表作を初期から順に読み進め、その「本当ノ事」に迫ってゆきたいと考えています。