中野京子「名画で読み解く」シリーズ完全電子化記念|本文公開③ロマノフ家
中野京子「名画で読み解く」シリーズ全点電子化完了を記念して、序章その他を公開するnote連載。今回は、2014年発売の第3作、『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』。「弟が姉を、夫が妻を幽閉し、父が息子を、妻が夫を殺してきた歴史だ――(本文より)」と語られるように、”血で血を洗う”を地でゆくヒストリーだけに、絵も抜群に怖いです! 今回は「前史」を全文公開します。
■前史
ドイツとの関わり
ハプスブルク家の源流がオーストリアではなくスイスの一豪族だったように、ロマノフ家の始祖もまたロシア生まれではない。十四世紀初頭、プロイセンの地から――後世におけるドイツとの深い関わりを予感させる――ロシアへ移住したドイツ貴族コブイラ家が、息子の代でコーシュキン家と改姓し、さらにその五代目のロマン・ユーリエヴィチが、自らの名ロマンをもとにロマノフ家へと再変更した。リューリク朝イワン雷帝の時代である。
ロシア領土が、北は北極海、東は旧シベリア・ハン国、南はカスピ海までと飛躍的に拡大したのは、実にこのイワン雷帝の豪腕によるものだが、そうなる以前、まだ十代の若い彼は、シンデレラの王子よろしく国内各地から貴族の娘たちを城の舞踏会へ集め、その中から妃としてロマン・ユーリエヴィチの娘アナスターシャを選んだ。イワンはツァーリ(=ロシア皇帝)として正式に戴冠した初めての君主なので、ロマノフ家のアナスターシャも必然的に史上初のツァリーツァ(=ツァーリの妃)ということになる。
夫婦は稀にみる相性の良さだった。賢明で美しいアナスターシャは、怜悧で教養はあっても癇癪持ちのイワンを巧みに宥め、結婚生活は穏やかで幸せのうちに三男三女が生まれた(成人したのは次男イワンと三男フョードルのみ)。十四年後、だがそれは突然の終わりを迎える。アナスターシャが急死したのだ。毒殺が疑われた。証拠はなくとも雷帝は、犯人が保守的な大貴族たちだと確信した。かつて実母もこうして殺されたからだ。
必ずしもイワンの妄想とは言えない。外国のプリンセスではなく自分の家臣の娘や姪を妃にする場合の、リスクがまさにこれだった。権力争いに鎬を削る貴族らにしてみれば、血縁をツァーリの妃に据えただけで一頭図抜けるという構図は、陰謀をめぐらすに足る十分な動機になる。たとえ今現在ツァーリが結婚していても、妃さえ死ねばレースを再開できる。手っ取り早い手段として、妃を亡き者にしようと考える野心家は常にいた。まして今回は、弱小貴族にすぎなかったロマノフ家がたちまち競争相手を引き離し、政権中枢へ喰い込んだのだ。有力貴族連にとって、苦々しいことこの上ない。
「暴君」イワン雷帝
愛妻を弔った後、イワンは凄まじい復讐にとりかかる。疑惑を向けられた重臣たちやその関係者は、ろくな取調べも裁判もないまま悉く血祭りにあげられた。イワンの箍が外れ、ここからが真の「雷帝」誕生であった。はるか後世のスターリン時代が雷帝の治世になぞらえられたのは、粛清という恐怖の支配する世界、夥しい数の亡命者、あらゆる理不尽と惨劇が、両時代に共通していたためだ。
ロマノフ家の権勢はいささか揺らぐ。アナスターシャの残した後継候補の息子たちがいるとはいえ、雷帝の再婚は止められない。もし新しい妃を気に入れば、彼女の産む息子が跡継ぎに指名されるだろう。全ては雷帝の気分次第であり、しかもその気分たるや、次第に異常なほど変わりやすくなっていた。持病の糖尿病悪化もその一因と言われる。彼は次々に新妃を迎え、全部で七人(八人説もあり)の妃を数えたが、何かの呪いのように男児は生まれなかった(最晩年に庶子としてひとりできたが)。
やがて誰の目にも、次のツァーリはアナスターシャの血を引くイワン(父と同じ名前)だと納得された。高い知性と教養は無論のこと、母方のロマノフ一族の手ほどきで現実的政治手腕も積極的に学ぶ美丈夫である。雷帝もこの息子に期待していたのだが、運命は怖ろしい悲劇を用意していた。
『イワン雷帝と息子イワン』という有名な歴史画(レーピン)がある。死にゆく我が子を抱きしめたツァーリが、取り返しのつかない己の愚行に愕然とする様を描いた、衝撃の「怖い絵」だ。雷帝五十歳、イワン二十七歳に、何が起きたかといえば――。
周囲に諫める者もいなくなり、手のつけられぬ暴君ぶりを発揮していた老ツァーリは、気に入らないことがあると傍の者を長い王杖で殴打するのが常だった。ある日、息子イワンの妻が、身重のため略装で現われた。それに腹を立て、さっそく杖で打ち据えたせいで、彼女は流産。さすがの息子も我慢の限界を超え、周りの制止をふりきって父の居室へ直談判に出かけた。親子は怒鳴りあい、雷帝はまたも杖を振り上げる。怒りの発作がおさまってみれば、愛妻の忘れ形見にして大事な跡取り息子が、目の前に虫の息で倒れているではないか……。
今度ばかりはさすがの雷帝自身、己が責任を痛感した。息子殺しの大罪というばかりでなく、せっかく安定させた自らの王朝の危機まで招いてしまったのだ。なぜならもうひとりの息子フョードルは甚だしく知能が低く、とうてい君主の器ではなかった。雷帝は老いた身を奮い立たせ、新たな男児を作るべく、翌年、重臣の娘マリヤを妃に迎えると同時に、イギリス王室との婚姻への道を探った。実はヨーロッパ名家のプリンセスを妃にするのが雷帝の積年の夢であり(それはロマノフ家の代になってようやく半分ほど叶う)、それができればマリヤとは離縁する気でいた。かつてプロポーズしたエリザベス一世はすでに老いていたから、彼女の姪をもらおうと画策しているうち、マリヤに男児ドミトリーが生まれ、まもなく雷帝自身が死病にとりつかれて、五十三歳であっけなく世を去った。
ドミトリー追放
この時点でリューリク朝の終焉は見えたも同然だった。フョードルがツァーリとして戴冠したが、心身脆弱な彼が跡継ぎを残せるわけもない。またマリヤの子ドミトリーは――ギリシャ正教が妻は四人までと定めていたので――庶子とされ、田舎へ追放された。ここから水面下で有力貴族たちの壮絶な権力争いが始まる。アナスターシャの実家ロマノフ家や、新ツァーリ、フョードル一世の妃の実家ゴドゥノフ家も参戦していた。正確には、アナスターシャの甥フョードル・ニキーチチ・ロマノフと、フョードル一世妃の兄ボリス・ゴドゥノフだ。後者が勝った。ムソルグスキーの傑作歴史オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』で有名なボリスは、敗者を修道院へ追放した。フョードル・ニキーチチ・ロマノフは修道士フィラレートとなり、妻と息子ミハイルも別の修道院へ放り込まれた。ロマノフ一門は完全に叩き潰されたかに見えた。
ロシアの実質的支配者となったボリス・ゴドゥノフに、さらなる野望が芽生えたのは必然であろう。操り人形のフョードル一世はいずれ死ぬ。そのとき自分がツァーリの冠をかぶるためには、リューリクの血筋を完全に断ち切っておかねばなるまい。ウーグリチの町に母とひっそり暮らしていたドミトリーは始末された。ところが人々は少年の死に黙っていなかった。イワン雷帝は民衆の間でいまだ高い人気を保っており、たとえ庶子であれ彼の実子が何者かに殺された、いや、「何者か」ではなく、明らかにボリス・ゴドゥノフに殺された、という点を声高に糾弾したのである。
こういう場合、権力を持つ犯罪者がよく使う手を、ボリスも用いた。ドミトリーの死は殺人ではなく、ナイフ遊びでの事故だったと大々的に発表、監督不行き届きで母マリヤや親族を修道院送りにして責任転嫁した。その上で、ドミトリーが殺されたと偽情報を鳴らし伝えたとして、ウーグリチ教会の鐘にも有罪を言い渡した。群衆の見守るなか、哀れな鐘は鐘楼からどすんと落とされ、十二回も鞭打たれ、舌を抜かれ、耳(吊り下げ用のでっぱり)を片方切断されて、シベリア送りになってしまう。現代人の感覚からはナンセンス極まりないが(とはいえ古物に精霊が宿ると考える日本人にとっては一脈通じる)、物にも魂があると信じ、とりわけ教会の鐘に深い愛着を持つロシア人にとって、鐘はそのまま記念碑にもなると同時に、人間と同じように処罰の対象にもなるのだった(ちなみにこの無実の鐘は、三百年後、ウーグリチ市民の懇望により地元へ戻された)。
こうしてドミトリー問題を沈静化させたボリスは、計画どおりフョードル一世の死後ツァーリとなって、七年間ロシアを動かした。フョードル時代を含めれば二十年以上の天下取りであったが、しかし継承したイワン雷帝の農民政策はだんだんうまくゆかなくなり、ボリス晩年にあたる十七世紀の幕開きは、深刻な飢饉とそこから派生した農民暴動の頻発とともに始まった。おまけに死んだはずのドミトリーが実は生きていたとの触れ込みで現われ(第一偽ドミトリー)、不満分子とともに蜂起するなどの政情不安の下、ゴドゥノフ王朝の地盤固めをできないままボリスは病死。その跡を息子がフョードル二世と称して継いだが、二ヶ月後にはもう暗殺されてしまう。
三年間の空位
大動乱時代は続く。
国中がカオス状態だ。地方の領主らの後押しと国民的人気を背景に、偽ドミトリーがツァーリになるが、早くも翌年には仲間に殺され、次いでボリスの部下がヴァシーリー四世として戴冠する。しかしこの新ツァーリによる四年弱の治世中、フョードル一世の隠し子だという偽ピョートルや、我こそは本当に本当のドミトリーだという者(第二偽ドミトリー)が現われて、いっこうに世は落ち着かない。とどめは混乱に乗じたポーランドの侵攻だ。ポーランド王がツァーリの地位を狙っていると知り、危機感を覚えた有力貴族たちはヴァシーリーを退位させたはいいが、誰も玉座が怖くて近づけず、三年もの期間、ツァーリの座は空位という危機的状況に陥った。
一六一二年、ようやく解放軍がポーランド軍をモスクワから追い払い、翌年早々有力貴族たちはツァーリ選定の全国会議を招集した。候補者にはスウェーデン王子やポーランド王子、ロシア人ではモスクワ解放に尽力した軍人や大貴族など複数いたのだが、それらを打ち破って新ツァーリとなったのがミハイル・ロマノフ、即ちイワン雷帝の最初の妃アナスターシャを大叔母に、そしてボリス・ゴドゥノフに失脚させられたフィラレートを父にもつ、十六歳であった。
この若さで強敵を抑えてツァーリになるとは、よくよくのカリスマ性の主に違いない、と思えばさにあらず、ミハイルが自分からその地位を望んだわけでは全くない。それどころか何度も申し出を固辞した。戦乱もまだ完全には収まっておらず、国土荒廃もきわまったこんな時期、ツァーリに祭り上げられるということは命を差し出すのと変わりがない。偽ドミトリーやヴァシーリー四世の二の舞になるのではと怯えたし、そもそも野心もなかった。この先三百年も続くロマノフ王朝の始祖が、ツァーリの椅子に魅力を感じない気弱な若者だったという事実は、何という歴史の皮肉であろう。
ミハイルを推す代議員ら(士族・商人・コサックが主)は、彼の臆病を承知していた。だからこそ選出したといえる。隣国の王子など論外だし、新興の軍人や保守派の老貴族も御免で、とにかく自分たちの勢力拡大に都合のよいツァーリが欲しいだけだ。幸いにして国民も代議員の多くもリューリクの高貴な血にこだわっている。実際にはミハイルに雷帝の血は一滴たりと入ってはいないが、もっとも愛されたツァリーツァであるアナスターシャの名は、リューリクと強く結びついており、ミハイルはツァーリたる正統性が高いと見做された。
ミハイル・ロマノフの戴冠
イパーチェフ修道院に母と隠棲していたミハイルは、使節団の訪問を受けてもなお拒絶した。やむなく彼らは、この決定は奇蹟のイコンによるものだから逆らうことは神に背く行為だと、半ば脅すようにしてミハイルをモスクワへ連れ出す。一六一三年七月十一日、十七歳の誕生日前日に、ミハイルはしぶしぶ玉座についた。自分がなぜ選ばれたかは知っていたし、前途多難も感じながらの戴冠だった。
ハプスブルク家の始祖ルドルフ一世が、五十五歳で神聖ローマ皇帝に選ばれた状況とよく似ている(『ハプスブルク家 12の物語』参照)。陰の実力者たちから、どうせ無能な人間だし傀儡にするには都合がいい、何かあったら使い捨てだ、と軽んじられつつ、ルドルフもミハイルも、どっこい相当の粘りと地力を発揮して、運命に与えられたチャンスを決して手放さなかった。
すでに老年だったルドルフに比べ、ミハイルは若いだけにいっそう非力で、しかしそれでも懸命に貴族や会議派と合議しながら政治を学んでいった。彼には臆病ゆえの賢明さが備わり、ツァーリの権限を無理に拡大して周囲と対立するような愚は冒さなかった。またラッキーだったのは、六年後の一六一九年、それまで長くポーランドに抑留されていた父フィラレート(フョードル・ニキーチチ・ロマノフ)が帰国したこと。ボリス・ゴドゥノフと争ったほどの政治家フィラレートは、モスクワ総司教として、この後、息子を力強くサポートする(初期は完全な院政を敷いたとされる)。初代ロマノフはロシア正教との祭政一致で、ツァーリズムの維持強化を図ったのだ。
ミハイルの治世は三十二年にわたり、農奴制や身分制が承認されて中央集権が強化された。望んで得たツァーリの地位ではなかったし、その一生はひたすら国家再建に捧げられて苦労も多かったが、暗殺や国家転覆や外国支配に対する不安は杞憂に終わった。国民はロマノフ王朝を完全に受け入れ、ミハイルの死後、その長男アレクセイが即位することに誰も異議を唱えなかった。 (了)
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