「子育て罰」は「子育てすること=罰」という意味じゃない【本文公開②】
見出し画像

「子育て罰」は「子育てすること=罰」という意味じゃない【本文公開②】

光文社新書の永林です。7月の新刊「子育て罰」が話題です。先日、公開した「まえがき」でも触れていますが、もう一度「子育て罰」という言葉の意味を整理しておきましょう。もともと経済学等の学問で使われいた「child penalty」の訳語で、「子育てすること=罰」という意味ではありません。末冨芳日本大学教授による1章、そして桜井啓太立命館大学准教授による2章より、「子育て罰」の定義について触れた箇所を抜粋して公開します。

本書における「子育て罰」の定義
(1章より/末冨芳)

 第1章では「子育て罰」を生み出した要因のうち、政治に関する3つの要因について、課題と解決策を述べていきます。ここで、「はじめに」でも述べた「子育て罰」の定義をもう一度整理します。

 まず「子育て罰」とは、日本が「子どもと子どもを持つ世帯に冷たく厳しい国」である現状をとらえるための概念です。本書では「子育て罰」を、政治や社会が子どもと子育てする親に課す冷たく厳しい仕打ちであり、日本においてなくすべき課題ととらえています。

「子育て罰」は政治と社会によって生み出され、厳しくなってきました。日本の政策は、児童手当などの「現金給付」、教育の無償化などの「現物給付」ともに不十分で、子どもと子育てする親の生活を、所得階層にかかわらずに苦しめています。専門的に言えば、子育て世帯への所得再分配の失敗が「子育て罰」の根本にあり、その背景にある子どもと親に冷たく厳しい政治が、日本で「子育て罰」を生み出してきた最大の要因です。

 また、社会や企業も「子育て罰」の拡大に貢献してきました。企業が雇用、賃金、昇進等において女性を差別していることで、子どもを持つ親、とくに母親の就労の不安定化は抜本的には改善されていません。母親に過度の家事育児負担や子育ての責任が期待される日本社会の中で子どもを育てることに、私自身もつねに息苦しさを感じています。

 そして、父親も長時間労働や非正規労働の拡大の中で、子育てに参加したくてもできない状況にあります。日本の男性の家事育児参加時間が先進国でもっとも短いことは、あまりにも悪名高い事実です。

※ ↑内閣府,2017,「男性の暮らし方・意識の変革に向けた課題と方策~未来を拓く男性の家事・育児等への参画~」p.4


 母親への過度な期待をする社会。父親の子育て参加を困難にして母親の安定就労を難しくする旧態依然たる企業行動。そして、大学卒業までの子どもの教育にかかるお金は、社会全体ではなく親が負担すべきだという「親負担ルール」。これらすべてが、子どもに冷たく厳しい日本社会を成立させてきた要因なのです。

「子育て罰」の正体:親、とくに母親に育児やケアの責任を押し付け、父親の育児参加を許さず、教育費の責任も親だけに負わせてきた、日本社会のありようそのもの。

画像1

「チャイルド・ペナルティ」を「子育て罰」と訳した理由(2章より/桜井啓太)

 桜井啓太と申します。貧困問題や生活保護制度を専門に研究しています。「子育て罰」の生みの親とご紹介いただくこともありますが、あまり発案者を名乗る気はありません。というのも、この「子育て罰」はもともと「child penalty:チャイルド・ペナルティ」という学術用語で、以下のような形で使われていました。

① 子育てしながら働く母親(ワーキングマザー)と子どもを持たない非母親との間に生じる賃金格差を示す経済学・社会学の概念(そのため「motherhood penalty:母親ペナルティ」とも呼ばれる)。

 このチャイルド・ペナルティに着目した研究は、2000年以降、とくに2010年代後半から、海外で積極的に行われていますが、日本ではほとんど言及されていません。数少ない例外として社会政策学者の大沢真理先生の論文で、次のような指摘がされています。

②日本の再分配政策(税・社会保障制度など)は、子育て世帯に対して機能していない、あるいは状況をむしろ悪化させており、「就業や育児を罰している」。

※ ↑ 大沢真理,2015,「日本の社会政策は就業や育児を罰している」『家族社会学研究』第27巻) 

なお、末冨先生が述べられたように、本書ではこの定義をさらに広げています。

③社会のあらゆる場面で、まるで子育てすること自体に罰を与えるかのような政治、制度、社会慣行、人びとの意識。

◆「子育て罰」にこめた想い

「子育て罰」の元ネタは①と②なのですが、チャイルド・ペナルティを「子ども罰」ではなく、「子育て罰」とあえて訳したのにはこだわりがあります。その1つは「子どもの貧困」をはじめとする日本の子育て政策に対する強い不満です。

 日本において「子どもの貧困」が社会問題・政策課題として認知されて10年以上が経ちました。「日本には本当の貧困などない」と政治家が発言していた時代を思うと隔世の感があります。

 一方で、マスメディアなどでは、かわいそうな「子ども」を取り上げた取材や、貧困を乗り越えるための熱意ある現場実践を紹介する記事が多く見られます。貧困事例の取材や希望ある支援実践、それ自体は意義のあることですが、貧困と社会福祉政策を研究している身からすると、それら貧困問題の多くは政治の不作為と社会の責任によるものです。そこがしばしば問われていないのです。

 貧困政策だけでなく、子育て支援政策全般も同じで「子育て世帯を応援(してあげる)」的な政策ばかり。そもそも、政治や社会の側が子育てしている人びとの足を引っ張っているという加害の意識のカケラもありません。
「子育て罰」という言葉の利点は、罰を与えている側の責任と罰を受ける側の被害が可視化できるという点にあります。子育て罰を行っているのは、多くは政治であり、それにとどまらず社会全体であり、そこには人びとの価値観も含まれます。

 誤解を招く表現であることは承知のうえで、あえて「子育て罰」としたときに、かわいそうな個人が貧困に陥っている(ので助けてあげよう)という話から脱して、「罰しているのは誰か」「罰されているのは誰か」という、いま現実にある差別と不平等を論じることができます。そしてそれは、罰や不利を取り除いた社会に思いをはせることにもつながります。

◆「子どもの貧困」という言葉が見えなくするもの

「子育て罰」のこだわりはもう1つあります。「子ども」だけを取り出して問題にするのではなく、「子育て」という関係性の概念でとらえることの重要性です(ちなみに子育ての主体は血縁上の親に限定する必要はまったくありません)。

「子どもの貧困率」がよく話題になりますが、その多くは「子育て世帯の貧困」です(もちろん児童養護施設などで生活する児童という見過ごせない問題はあります)。実は「子どもの貧困率」を測定するときは、親を含めた世帯の所得で貧困状況を測ってから、子どもだけを取り出して数えるというかなりいびつな計算をしています。

 子どもはたいてい無所得ですから、子どもが1人で貧困になることはめったにありません。子どもの奥にいる大人が貧困に置かれている。子育てするのに十分でない所得しか得られていない。その背景には、子育てをすること自体が貧困につながるような不利な社会構造がある――。「子どもの貧困」はそうした親・保護者に対する不利や排除(子育て罰)の結果が、まわりまわって世帯の中の子どもにあらわれているのです。その意味で、子育て罰は「子どもの貧困」を補完する概念といえます。

 ただ、この「子育て罰」という用語には危険性もあります。罰(ペナルティ)という言葉を使用すること自体に反対する意見もありますし、差別や不平等の視点をなくしてこの言葉が一人歩きする懸念もあります。また、子育てという関係性にとらえ直したことが、「子ども」を一個の権利主体として見る利点を消してしまっては元も子もありません。「子どもの貧困」がこれまで獲得してきたものを損なわずに、その困難や不利を減ずるために、新しい視点を追加できればと良いと考えています。

 長々と書きましたが、この章では「子育て罰」の元の使用法(①②)に近い観点(賃金や家庭の所得への影響)から、「子どもの貧困」に及ぼす子育て罰の国際比較の議論を取り上げます。子育て罰が子どもの貧困を生み、子育て罰の除去が貧困の解消へとつながる、そのようなイメージをみなさんと共有したいと思います。





この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
光文社新書

よろしければサポートをお願いいたします。もっと読んでいただけるコンテンツを発信できるように、取材費として大切に使わせていただきます!

アランちゃんともども心から感謝しています!
光文社新書の公式noteです。2021年10月17日に創刊20周年を迎えます。光文社新書の新刊、イベント情報ほか、既刊本のご紹介や注目の連載をアップしていきます。お気に入りの一冊について書かれたnoteを収録するマガジン「#私の光文社新書」は、投稿をお待ちしています!