1+1=2ではない!? 誰も検証してこなかった真実|森本恭正
小学生の私が、同級生の子から投げかけられた言葉だ。吹いていたのは、学校から買わされた廉価なエボナイトのリコーダー。私は特に上手だった。しばしば、先生の代わりに吹いた。指名されたことの嬉しさより、ああ、これで、あの先生の固く割れた音を聴かなくて済む、という安堵感の方が強かった。そんな私だから、自分が入ると合奏が合わないと言われて、仰天した。
「君、何言ってるんだ」
と言い出しそうになったが、一方、「合奏が合わない」という事もわかっていて、慌てて口を噤んだ。誰も自分の笛についてこなかったのだ。やはり、悪いのは僕なのだろうか……。
このもどかしさは、私に纏わり付いて離れなかった。
それは、少年時代を経て、藝大と桐朋と二つの音楽大学へ入ってからも、また、十代で作曲家三枝成彰氏との出会いがあり、一応プロの指揮者として、NHKで彼の劇音楽の指揮を始めてからも、その後オペラを含む数々の現代作品の指揮や演奏で、邦楽からロックまで極めて多岐にわたる音楽家との共演を重ねながらも、ずっと続いた。
そして、二十代の終わりに私は米国へ渡る。もう一度指揮と作曲の勉強をし直す、というのが表向きの理由であったが、実際、日本での経験を破棄してまで留学した本当の理由は別にあった。日本で音楽活動をすればするほど生じる齟齬感にただただ疲れていたのと、そもそも、あの時、合奏が合わなかった原因は本当に自分なのか、それが知りたかったのだ。
南カリフォルニア大学大学院での音楽生活は、夏の間の語学集中講義で言葉の問題をほぼ解決したあたりから、極めて快適なものになった。私の音楽的主張は、指揮科のダニエル・ルイス(Daniel Lewis)教授にも、他の学生たちにも、拍子抜けするほどすんなり受け入れられた。指揮をしても、アンサンブルでピアノを弾いても、また、昔取った杵柄とばかりに、古楽器奏者とリコーダーを共演しても、「Morimotoが入ると合わない」などと言われたことは一度もなかった。だが同時に、米国、殊に、私のいたロス・アンジェルスの生活では、ヨーロッパ音楽の本質に迫る事は難しいとも感じていた。
シューベルト(Franz Peter Schubert)の歌曲集『冬の旅』の冒頭である。この主人公の境涯をなぞるかのように、彼はモラヴィアとシレジア(共に現在のチェコ)出身の両親のもとにいわば「よそ者」としてウィーンに生まれた。生前、作曲家として十分に認められ、千曲以上の作品を残したものの、成人後は梅毒に苦しみ、ある時は自分を世界一不幸な身であると嘆き、独身のまま三十一歳で亡くなった。
このシューベルトの、暗く鬱屈した、しかし人間の本質をじっと見詰めて慰撫するような歌は、南カリフォルニアの眩しく青い空のもとで、どんなに想像力を膨らませても聴こえてこないのだ。
二年後。
私はウィーンに移り、ウィーン国立音楽大学(現ウィーン国立大学音楽学部)に籍を置き、指揮者オトマール・スウィトナー(Otmar Suitner)教授のクラスに聴講生として入った。学生の身分保障を手にして、その後三年ほど、大学には週に一、二度顔を出すのみで、専ら様々なリハーサルに通い詰めた。
しばらくして、ウィーンで活躍する多国籍の若手演奏家を集め、作曲と指揮活動を開始するのだが、当時ウィーンにいたヴァイオリンの久保田巧氏や、糸井真紀(現糸井マキ)氏のような国際的ソリストの奏者をはじめ、私は、非常に優秀な演奏家に恵まれた。彼らのうち何人かは、現在もウィーンフィルハーモニーやRSO WIEN等で活躍している。爾来三十五年、シューベルトには及ぶべくもないが、それでも二百曲以上の作品を書き、そのほとんどをヨーロッパで初演してきた。作曲コンクールの審査員(ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール)にも二度就任。しかしいつも頭の隅にあったのは、私が海外へ渡った本当の理由、小学生の頃のあの「仰天」に端を発し、日本で感じていた複雑な齟齬感に対する疑問であった。
間違っているのは自分か、それとも周りか。
この問いの答えを示す事で、クラシック音楽の本質を解くことができるのではないかという予感が、二十年を超える歳月をかけて、確信へと変わっていった。それが本書執筆の動機である。
唐突だが、私たちは1+1=2であると習ってきた。そして、その定義に沿って生活している。だから、リンゴを2個買ったら2個分のお金を払う。しかし、ここに1+1=2ではないかもしれないと主張する人が現れ、だからいくら払ったらよいかわからないので、一緒に考えようと言われたらどうするだろう。店を閉めて一緒に考えるか、その人物を追い出すか。
人は見たいものしか見えず、聞きたいものしか聞こえないといわれている。そしてその見たいもの、聞きたいものに対して教育が落とす影は大きい。私たちは三拍子は一拍目が強いと習ってきた。今でも確実に全国の小学校ではそのように教えている。
だが、それは違う、三拍子は三拍目にアクセントがくるのだ、今まで弱拍と教わってきたものは、すべて強拍なのだ。と、日本の西洋音楽理解を根底から覆す概念を多角的に論じたのが、二〇一一年に光文社から上梓した拙著『西洋音楽論』である。あれから十二年経った。が、いまだに私の考えが人口に膾炙したとは言い難い。だが、それでもまだ私は店先に留まって、議論を続けている。
二〇二三年の九月、たまたま私はウィーンでこの「はじめに」を書いた。そんなある日、かつての教え子で、ウィーン大学大学院で音楽学を修めた人物に会った。彼女は『西洋音楽論』の主論である、西洋音楽は基本的にupbeat(裏拍・弱拍)が強いという点に、ずっと懐疑的であったという。これからカフェでもと誘ったその路上で、待ちきれないとばかりに差し出されたのが、二十年前に博士課程にいた彼女が記した、バロック時代の舞曲に関する講義ノートである。
「私、ちゃんと習ってたのですね……」。そこには、三拍子は三拍目が強調される(auf der dreiにbetonung)と明瞭に記されていた(プルス=puls=拍)。
本書は『西洋音楽論』の続編として読んでもらっても構わないし、その後アルテスパブリッシングから南博氏との共著で上梓した『音楽の黙示録』を補完する書として読んでもらっても構わない。実際、ここはどうしても再度強調したいという箇所は、この二つの書から直接引用している。
ただ、今回、図らずも、日本のクラシック音楽界の過去から現在まで、その関係者ほとんど全てに対して諍う書となった。実際、彼らが読んで心地のよい記述はあまり出てこないかもしれない。すでにこの前書きで一定の読者を失っている可能性もあるだろう。
だが、プロ、アマを問わず、あるいはリスナーとしてでも、これから音楽の海に泳ぎ出そうとしている若い人々にこそ読んでもらいたい。先入観と因習にとらわれずに飛び込めば、イルカのように流麗に泳ぐ方法があるという事がわかるはずだ。