【第36回】そもそも「ケア」とは何か?
■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!
「医療」と「ケア」の対立
私は大学と大学院を通してアメリカで7年以上を過ごしたが、おそらく日常会話に最も多く登場した単語の一つが「ケア(care)」だったと思う。別れ際の「Take care!(お大事に・気をつけて・がんばって)」とか「I don’t care.(気にしない・どうでもいい)」や「Who cares?(気にするな・構うものか)」のように、文脈・状況に応じて微妙なニュアンスを伝えるのに便利な言葉である。
「ケア」自体は「心配・注意・世話」を指し、「medical care(医療)」「aged care(高齢者介護)」「those dependent on care(要介護者)」のように、名詞形で用いると一挙に「看護」や「介護」の意味に傾く。とくに「ケア」で問題になるのが、治療を望めない患者の「terminal care(終末期医療)」である。
本書の著者・村上靖彦氏は、1970年生まれ。東京大学教養学部卒業後、同大学大学院総合文化研究科修了。日本大学専任講師、大阪大学准教授などを経て、現在は大阪大学教授。専門は精神病理学・精神分析学。著書に『自閉症の現象学』(勁草書房)や『治癒の現象学』(講談社選書メチエ)などがある。
さて、村上氏によれば「ケア」とは「人間の本質そのもの」である。生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、あらゆる意味で大人が世話をしなければ生きていけない。つまり、周囲に依存しなければ生存できないという意味で、「新生児は障害者や病人と同じ条件下」にあると考えることもできる。
人間は、相互に助け合いながら社会を形成し、とくに苦境に立たされたときに「独りでは生きていけない」と実感する。村上氏は人間を「独りでは生存することができない仲間を助ける動物」と定義することもできると主張する。
本書に、神経難病に罹患し、禁食になった小学校3年生のエピソードが出てくる。約2年後、身体機能が低下して余命1カ月になった時点で、「誤嚥性肺炎」のリスクも覚悟のうえで、母親が手作りのプリンを娘に食べさせた。すると「無反応、無表情」だった彼女の頬を「大粒の涙」が流れたという。
「好きなものを食べたい」という患者の「小さな願いごと」を叶えるのが「ケア」であれば、それが「医療」と対立する場合には、どうすればよいのか?
本書には、心臓病患者が寿司を食べたいと望んだケースや、糖尿病患者がカレーパンを隠し持っていたという実例が登場し、医師と看護師がどのように折り合いをつけたかが描かれている。現場で行われているのは、「患者が医師の指示に従わず、節制しないことも織り込んだ上で、その人が望む生き方が持続可能になるようにサポートするという、綱渡りのようなあいまいなケア」である。そこに、論理的・倫理的に一般化できるような明快な指針はない。
本書で最も驚かされたのは、厚生労働省が終末期医療を家族や医療従事者と話し合う「人生会議」を提唱したにもかかわらず、そのポスターが猛烈な批判を浴びたため、配布を撤回した事件である。酸素チューブを付けたお笑い芸人が「俺の人生ここで終わり?大事なこと何にも伝えてなかったわ……」と嘆くポスターだが、なぜ厚労省はここまでセンスがないのか?!
本書のハイライト
本書は「ケアとは何か」という問いについて、私が対人援助職の語りを聴き、実践の現場を観察するなかで学んだことのエッセンスを記した本である。全体を通して読むと、「生を肯定する」「出会いの場をつくる」「小さな願いごとを大切に」「落ち着ける場所を持つ」「仲間をつくる」といった、シンプルな主題をめぐる変奏曲となっていることがわかるだろう。身体的なケアと心理的なケアのあいだに境目を設けていないだけでなく、医療と福祉を横断するような目線でケアを考えてきたことも、本書の特徴の一つではないかと思う(p. 227)。
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著者プロフィール
高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。