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IT巨人が用意した快適な犬小屋?―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史

3章⑦ なぜ今メタバースなのか?

光文社新書編集部の三宅です。

岡嶋裕史さんのメタバース連載の20回目。「1章 フォートナイトの衝撃」「2章 仮想現実の歴史」に続き、「3章 なぜ今メタバースなのか?」を数回に分けて掲載していきます。今回は3章の7回目です。なぜここに来て、メタバースということが言われ始めたのか? その背景を探っていきましょう。

メタバースはそもそも必要なのでしょうか? 人類に何らかの福音をもたらすものなのでしょうか? 

下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。 

3章⑦ なぜ今メタバースなのか?

■メタバースはそもそも必要なのか? 人類にどのような福音をもたらすのか?③(最終回)

それはIT巨人が用意した快適な犬小屋か?

 正義はより大きな声を出せる者、四六時中発信し続けて倦むこと知らぬ者の手に移行しつつある。もとより正義など、市井の者にとっては遠く手に余りがちなものであったが、個々人が自分の正義を持たねばならないこの状況が、皮肉にもその傾向に拍車をかけている。

 正義を大きな声で語る人に、悪意があるとは思わない。必要なことであり、権利でもあると思う。でも、彼らにフィードバックがかからないことは、不幸なことだと思うのだ。フィルターバブルでいう、エコーチェンバー現象である。フィルターバブルでは、同属性の人たちが集うことで、似たような意見が言説空間内を飛び交う。すると、そこに参加している者は、周囲が自分と同じ意見ばかりであることに意を強くし、その意見はより先鋭化していく。

 イメージしにくければ、幼稚園のころのことを思い出してみるとよい。先生に怒られたときに、「みんなもやってた」と言ったことはないだろうか。そしてそのみんなとは、たかだか2~3人の仲の良い友だちではなかっただろうか。フィルターバブル内では、大人でもこの陥穽にはまる。

 正義はフィルターバブルで加速する。SNSを使っていなくても、である。マジョリティは沈黙し、周囲には似た意見の者が集まる。世界中を飛び回って多様な社会を見ている人でもあまり関係がない。どこの国にも同属性の人はいる。

 正義を主張する人は、その善意から、まだ正義に至っていない未開の人を啓蒙しなければと焦る。こうして、正義を決める人とマジョリティの懸隔は大きくなる。

 感情と正義の同一化もやっかいな問題である。個人主義の浸透した世の中では、個人が自分なりの考えを持つのは良いこととされている。「君が嫌だと感じたら、ハラスメントなんだ」という言い方もある。それはおそらく正しいのだけれども、表層的に理解してしまうと、「自分の気分を害するものは、不正義だ」と短絡してしまう可能性がある表現である。

 そのため、正義にまつわる論争なのか、単に自分の感情を害されて怒っているだけなのか、にわかには判別がつかないレスバトルがある。

 いま私たちがおかれている環境は、このようなものだ。よほど強い主張がなければ、よほど確固たる覚悟がなければ、参入するのをためらう空間である。だから多くの人は降りてしまうのである。バランスの良い意見を持つ人ほど、嫌気してしまうのである。SNSの奥底に引きこもり、フィルターバブルの繭につつまれ、快適に過ごすほうがよほど良い。生産的ではないかもしれないが、自分も傷つかないし、他人も傷つけない。

 SNSは過渡期の技術であるため、繭としての機能は十分ではなく、またリアルに帰っていく必要もあるが、メタバースはさらにその世界への没入を許し、分厚くて安全な繭になってくれるだろう。

 それは福音ではなく、単に地獄の回避であるかもしれない。やがてくる破局を先延ばしにするか、別の破局を呼び込むものでしかないかもしれない。国家や村社会から逃れ、自由の荒野からも逃れた先は、IT巨人が用意した快適な犬小屋だったのかもしれない。

 しかし、それを飲み込んでなお、メタバース的なものを求めている人は、私たちの想像を超えて多いだろう。テックジャイアントに支配されることは気持ちがいいだろう。胡乱な政府より、ずっと質のいい快適を提供してくれる。

 私たちにできることは、人々が欲求し、これから確実に産み落とされるメタバースが、私たちを飼い慣らす技術ではなく、個々人の人生の選択肢を拡げる方向へ作用するよう、考え、利用していくことである。(3章了)

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