中野京子「名画で読み解く」シリーズ完全電子化記念|序章公開②ハプスブルク家
中野京子「名画で読み解く」シリーズ全点電子化完了を記念して、序章その他を公開するnote。今回は、重版を重ねに重ねて32刷り!の第1作、『名画で読み解く ハプルブルク家12の物語』。新書版発売は2008年、表紙は麗しき悲劇の皇妃、エリザベートです。すべてはここから始まった…!!
序章 青い血の一族
ハプスブルク家の人々は、自らを神に選ばれた特別な存在として高貴な青い血を誇ったが、その裏付けは、五つの宗教と十二の民族を何世紀もの長きにわたって束ね続け、神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占してきたという自信であった。
王朝の支配権は、現オーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ポルトガル、ブラジル、メキシコ、カリフォルニア、インドネシアにまで及んだ。ひとりでもっとも多くの国の君主を兼ねたのもハプスブルク家で、カール五世はヨーロッパ史上最多の七十以上の肩書きを持ったし、マリア・テレジアの正式称号も、「オーストリア女大公、兼シュタイアマルク女公、兼ケルンテン女公、兼チロル女伯、兼ボヘミア女王、兼ハンガリー女王……」と、「兼」が延々四十以上つらなっていた。またフランツ・ヨーゼフが戴冠した十九世紀半ば、帝国末期でさえ、なお領地面積はロシアをのぞいてヨーロッパ最大だった。
かくも強大なこの一族の源流はといえば、意外やオーストリアでもドイツでもなく、十世紀末ころスイス北東部の片田舎にあらわれた弱小の豪族である。その豪族から二、三代経た十一世紀初め、「ハービヒツブルク城Habichtsburg」が建てられた(城砦の一部がスイスのブルックに現存している)。ハービヒトHabichtは「大鷹」、ブルクBurgは「砦」「城砦」の意で、ここからハプスブルクHabsburgの名称が生まれたらしい。いずれにせよ十二世紀に入り、この城を本拠とする子孫がハプスブルク伯爵を名乗り、当時点をもってハプスブルク家の始まりとされる。
「伯爵」だが、これは今でいう爵位と違い、混沌とした領地分捕り合戦時代における、多分に名乗った者勝ちの手前勝手なものであったろう。しかしたとえそうだとしても、伯爵と称して周囲を納得させられるだけの力を、一族はすでにこの頃つけていた証とはいえる。実際、領地は飛び地の寄せ集めとはいえ、バーゼルを含むライン川上流一帯を中心にかなり増えていた。
それからさらに百年を経過した、十三世紀初頭。未だ田舎の貧しい豪族、ハプスブルク伯ルドルフに、まさに運命の転換点と言うべきビッグチャンスがめぐってくる。神聖ローマ帝国皇帝の座だ。
■神聖ローマ帝国の威光
それにしてもまず「神聖ローマ帝国」とは何か、説明する必要があるだろう。「帝国」とは複数の民族と国家を統合した君主国のことで、「神聖」とは要するにローマ教皇から加冠してもらい、カトリックの盟主たるお墨付きを得たということだ。九六二年にオットー一世が戴冠して始まったこの帝国は、ドイツ国(北部イタリアを含む)の王が自動的にローマ教皇から皇帝位を受け、いつの日か全イタリアを領有して古代ローマ帝国を再現しよう、との見果てぬ夢の名称と言い換えていいかもしれない。
ちなみにナチスはこの神聖ローマ帝国(九六二~一八〇六)を「第一帝国」、続くプロイセンのビスマルク時代(一八七一~一九一八)を「第二帝国」、そして一九三四年から始まるヒトラー独裁国家(~一九四五)を「第三帝国」と呼んだ。ドイツ民族の理想国家建設を目指して命名したわけだが、誰もが知るとおり、無惨な結果に終わっている。
十三世紀へ話をもどすと、ドイツは依然として建前上は神聖ローマ帝国の支配下にあることになっていた。ところが実態は戦国時代の日本と同じ群雄割拠状態、諸侯が足の引っ張りあいをし続けているため、なかなか中央集権国家が築けない。それどころか、力で国をまとめる英雄的皇帝が出現しないものだから、ドイツ王、即ち神聖ローマ皇帝の座は、世襲ではなく有力諸侯七人(選帝侯)による選挙で決められることになった。
後世のヴォルテールが、「神聖でもなくローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と皮肉ったように、神聖ローマ帝国はとっくに名目上の呼び名でしかなく、皇帝になったからといって領土が増えるわけでも集中的な権力を得られるわけでもなかった。
しかし面白いもので、いくら名目上とは言っても、カトリックの権威と古代ローマ帝国の継承を結合させたこの象徴的呼称には、やはり絶大な心理的威光があった。富とも権力とも直接には結びつかないが、いちおうヨーロッパ最高位(「皇帝」は「王の中の王」の意である)ということで、名誉としてはこれほど輝かしいものはなく――乱暴すぎる喩えかもしれないが、ドイツ内の諸国を現代のイギリス、ロシア、中国、日本など各国になぞらえれば、皇帝の地位はアメリカ大統領兼国連事務総長のようなものか――、だからこそ皇帝位をめぐって熾烈な駆け引きがくり広げられたのである。
選帝侯たちは誰かひとりが傑出するのを望まず、なんのかのと理由をつけ、ドイツ王の選定を先送りし続けた。ローマ教皇がたびたび催促したにもかかわらず、呆れたことに二十年間も帝位を空白のまま放置(「大空位時代」)。ついに痺れをきらした教皇が、それなら自分が指名しよう、と乗り出すに及んで、仕方なく人選を始め、できる限り無能で、こちらの言いなりになる男、という基準で選んだのが……ハプスブルク伯ルドルフ、という次第。
■皇帝位をめぐる戦い
選帝侯たちにとってルドルフは、うってつけの人間に思えた。アルプスの瘦せた領土しかない成り上がり者で、おまけに五十五歳と高齢、大した財産もないから戦争能力に乏しく、皇帝の名を投げ与えてやれば、無給の名誉職でもきゃんきゃん尻尾を振って忠義を尽くし、どう間違っても他の諸侯の脅威にはならないだろう。
知らないということは恐ろしい。この時点では誰ひとりルドルフの野心と底力に気づいた者はいなかった。だがまもなくそれがわかる時が来る。
当時、急速に勢力を伸ばしてきていたボヘミア王オットカル二世が――この有能なオットカルこそ、選帝侯たちが絶対に皇帝にさせたくない相手だった――、ルドルフの戴冠に異議を唱え、ローマ教皇に直訴して曰く、ハプスブルク家など、どこの馬の骨ともしれぬ一族は、帝位にふさわしくありません!
教皇がその点を選帝侯たちに問いただすと、彼らはルドルフのカトリック信仰の深さを持ち出して弁護した。一方ルドルフはといえば、ちょうどこの時バーゼル大司教と交戦のまっ只中だったが、千載一遇のチャンスを逃してはならじと即座に講和して、戴冠のためかけ戻った(本能寺の変を知って、ただちに兵を引きあげた秀吉と同じだ)。こうして一介の田舎伯爵が神聖ローマ皇帝ルドルフ一世へと変身。ここにハプスブルク王朝の第一歩が、棚ボタ式僥倖によって(よろよろとだが)踏み出されたのである。
ただしオットカル二世との確執は年々深まってゆく。このボヘミア王は数年前、オーストリア領主に世継ぎのないのに乗じてウィーンを陥落させており、ルドルフ一世が返還要求しても意に介さなかった。神聖ローマ皇帝に堂々と反旗を翻したのだ、もはや叩き潰すしかない――ルドルフの決意に選帝侯たちも賛成してくれたが、口で応援するだけで手を貸そうとはせず、高みの見物を決め込まれてしまう。彼らにとっては、ルドルフのお手並み拝見、むしろ共倒れして領地分割できれば、もっとも都合がよかったであろう。
かくして戴冠五年後の一二七八年、ウィーン北東のマルヒフェルトで、名ばかりの皇帝に率いられた貧弱な軍隊と、名門で財政豊かな王に率いられた大軍隊は激突する。大方の予想は、ルドルフに勝ち目なしというものだった。戦端が開かれてすぐ、老いたルドルフは情けなくも落馬し、あわや予想どおりになるかと思われた。だが王朝を維持できるかどうかの境目の彼は、死に物狂いでまた馬によじのぼり、戦いは互角で推移する。
最後はルドルフが勝つわけだが、それは信心深い彼に神の御加護があったから――ハプスブルク家はそう信じているようだが(ルドルフは後に身内から「神君」と呼ばれる)、実際には、桶狭間なみの意表を突く奇襲作戦が奏功したにすぎない。
このころの戦場というのは通常、「やあ、やあ、遠からん者は音にも聴け、近くば寄って目にも見よ」の世界だった。騎士同士のかなり様式化した戦いといえよう。ルドルフはそれでは絶対負けると知っていた。そこで五、六十騎の伏兵を用意し、敵の油断を見すまし、途中いきなり側面攻撃をかけさせた。革命的兵法というべきか、騎士とも思えぬ、まさに「どこの馬の骨とも知れぬ」卑怯な戦い方というべきか、がむしゃらで美意識も何もあったものではない、ただもう勝つことのみに全てを凝集させる戦法だ。
ふいを突かれたオットカルは戦死、敵は総崩れになった。
無能な田舎の老人と侮っていた選帝侯たちは、さぞや焦ったことだろう。ルドルフ一世はこの戦いでボヘミアを手中にし、まもなくオーストリア一帯も自領にすると、スイスの山奥からオーストリアへ本拠地を移した。その後彼はイタリアには全く固執せず、ただただハプスブルク王朝の拡大維持を第一目標とし、神聖ローマ皇帝の座をハプスブルクの世襲とすべく、残り十年の余命を使って奮戦するのである。
ルドルフ一世という破格の人間がいなければ、ハプスブルク家はアルプス地方の一領主にとどまったまま、歴史の表舞台に飛び出ることはなかっただろう。
どんな王朝でも始祖は強烈なものだが、ルドルフの年齢や立場を考えた時、ハプスブルク王朝成立の経過はとりわけ奇蹟的に感じられる。これがあればこそ六五〇年もの王朝維持――徳川幕府二六五年、ロシアのロマノフ王朝三〇〇年と比較しただけでその凄さがわかる――という、まことの奇蹟が生じたのではないかと思われるのだ。
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