仮想現実でもできる恋人との触れ合い―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史
3章③ なぜ今メタバースなのか?
光文社新書編集部の三宅です。
岡嶋裕史さんのメタバース連載の16回目。「1章 フォートナイトの衝撃」「2章 仮想現実の歴史」に続き、「3章 なぜ今メタバースなのか?」を数回に分けて掲載していきます。今回は3章の3回目です。なぜここに来て、メタバースということが言われ始めたのか? その背景を探っていきましょう。
今回は、前回に続き、メタバースの成立を可能にするユーザ(人間)側の変化について触れます。
下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。
3章③ なぜ今メタバースなのか?
■人間の変化:リアルでなくても構わない人が増えた②
仮想現実でどうなる? 恋人との触れ合い
では、恋人との触れ合いはどうなのだ、と問う向きもあるだろう。それを仮想現実で再現することは難しいだろうと。しかし私はこれも仮想現実内で完結させられると思う。それは、VRヘッドセットやVRグローブの精度が上がって、恋人の息づかいや感触をリアル同様に感じられるようになるとかそういう話ではなく、リアルの恋人を忌避する方向である。
相手が異性であれ同性であれ、恋愛関係こそは互いの価値観のぶつかり合いだろう。自分が相手に対して折れることが、自分だけの問題ではなく、ジェンダーの敗北や趣味嗜好の敗北、生き方の敗北とリンクして語られる社会では、恋人同士の間でも摩擦は大きくなる。
恋愛関係を快適に感じられなかったり、リスクが大きいものと捉える傾向は強くなっている。未婚率の高止まりや、恋愛経験の長期的な下落傾向は、就学期間の長期化や長時間労働、体感所得の低下だけが原因ではなく、リアルな恋愛の魅力低下も加えて考えなければならない。
恋愛のいいとこ取り
だからといって、人間の恋愛に対する欲求がなくなるわけではない。だから、自分にとって都合の良い、恋愛のいいとこ取りを求める。コミュニケーションのいいとこ取りを求めたSNSと同じである。恋愛の仮想現実化である。
恋愛のいいとこ取りを求めた仮想現実化は、昔からあった。売買春がそうであり、素人が参入しやすいライトな用語、概念としてのホストクラブや援助交際、パパ活、港区おじさんなどがどの時代にも雨後の竹の子のように現れる。
恋愛のいいとこ取りなどという都合のいい話はない。しかし、それをお金で買うわけである。いいとこ取りをしたい者は金品や便宜を支払い、いいとこ取りされる者は対価を最大化するように振る舞う。
太古から需要も供給もあった価値移動の一形態だが、この市場に参入する者はあくまで社会の中の一部に限られていた。それが、もっと大きな範囲へ拡大しようとしている。現在という時間を消費する利用者が求めているのは、自分が傷つかない都合のいい恋愛だ。もう少し優しい言い方をするならば、相手も傷つけたくはない。どちらにしろ、身も蓋もない話ではある。
だが、やむを得ない一面もある。
進むリスク回避傾向
学業や仕事、生き方についての考え方と同じだ。自由が実現した社会で、個人の決定にはとても価値がある、自分の頭でものを考え、決め、実行しなければならないと促す圧はとても強い(エヴァンゲリオンでもミサトさんがそう言ってた)。
恋愛においても、そもそも恋愛をするかしないか、するとして対象は同性か異性か、あるいは性別を超越した者か。近年、不倫や浮気はとても強い社会的制裁を受けるが、いっぽうでポリアモリー(複数恋愛)ももてはやされている。モノや概念と結婚してもいいらしい。
このような状況で、何かを決断することはとても難しい。そして、仮に自分のポリシーを決め、恋愛を実行したとして、その相手も無数の選択肢の中から選んだポリシーを自己にインストールしているだろう。この2つがぴったりかみ合うことは、ひな祭りの貝合せよりも困難だ。
自分の意見を押し通したら、相手の人格の否定やハラスメントに直結するだろう。では、相手の言うことをすべて飲めばいいかと言えば、自由を謳歌すべき社会のなかで「何も考えていない」「主張すべき自己がない」烙印を押され、敗北者と評価されることになるだろう。ネットワークによって透明度が上がり、可視化された世界ではこうした振る舞いがよく見えるし、見られている。
本来とてもプライベートな話題であった恋愛が、消費し、消費されるものになっている。当然、その人を評価する変数にもなる。もちろんDVやモラルハラスメントがあってはならないので、抑圧されてきたそれらが可視化されるのは良いことだと思う。しかし、単なる価値観の不一致が正義や評価とリンクして語られ始めると、そこからぞろぞろと降りる人が出たとして不思議ではない。
実際、学生のリスク回避傾向はここでも強い。狭い範囲の体験談でしかないので、ここは割り引いて読んでいただければと思うが、生まれてからずっと体感的な不況にさらされてきた彼らは、「失敗すると後がない」感を持っている。減り続ける体感所得のなかで、教育に資金を投じてくれた両親を裏切れないとも思っている。
すると、就職先の選択が保守的になり、自分がやりたいことよりも、長く続けられそうであること、ホワイト企業であることなど重視して選択をすることになる。さらにその選択に裏付けや保証が欲しくて、最終的な就職の決定を教員に求めたり、AIサービスを利用する傾向が増えている(参照:岡嶋裕史『思考からの逃走』日本経済新聞出版、2021)。
恋愛も同じである。就職と結婚は若年層における大きな選択の二大巨頭で、ここで失敗するとダメージが大きい。モラルハラスメントでも起こせば、親にも迷惑がかかる。そこで、マッチングサービスを利用したり、市場から降りたりすることになる。
極めて細分化された恋愛への要求を、自分の半径5メートルの範囲で満たしたり見つけたりすることは困難である。しかし、SNSのフィルターバブルのように、母集団が大きければマッチング比率の高い相手が見つかるかもしれない。SNSが友だちを市場化したように、恋愛も市場化してフィルターバブルの中に囲い込むのだ。少なくとも、何も考えずに付き合い始めた相手よりは、フリクションや訴訟リスクを減らすことができるだろう。
アバターとの触れ合い
それでも心配なら、仮想現実化してしまえばいい。
自分と恋人との間にアバターをかます。ワンクッション入れたコミュニケーションを確立するのである。
アバターが相手なら傷つかない。アバターが相手なら傷つけても罪が軽いかもしれない。いっそ、アバターの中身がAIならなお良い。AIなら、どんなにエッジの効いた恋愛観も、ラディカルな主張も、フェティッシュな性的嗜好も飲み込んでくれるだろう。「決して自分を否定しない人生の伴侶」、ポストモダン化した生活で、これほど求められている存在もないだろう。それこそ、星新一の妖精配給会社のように他のすべてが霞んでしまい、いらなくなってしまうかもしれない。
AIが話相手であったり、人生の伴侶であることに違和感を持つだろうか? しかし、すでにSiriを話相手にしている人はいる。ゲームやアニメのキャラクタを配偶者と決める者も多い。
2021年の春アニメ「Vivy」では、AIとの結婚、AIの人権、人類のAIへの依存が主題として取り上げられた。メジャーなアニメの主題として採用される程度には、この考え方は熟成しているのだ。
恋人との触れ合いは恋愛を構成する抜きがたい要素だ、と断じる主張は今後説得力を失っていくだろう。そもそも多様化した価値観で、触れ合いや性的な接触は必須の要素ではなく、むしろそれを除外した恋愛観を持つ者も増えた、あるいは潜在していたものが表面化した。
そして、アバターは不可触であるとも言い切れなくなった。触感を感じさせるVR技術は進歩しているし、愛玩人形やラブドールの売上は欧米でもアジアでも右肩上がりだ。それらを情報システムと結びつけて双方向性を持たせる技術も向上し続けている。
人はイライザやAIBO、iPodにすら意思や感情を読み取ってしまう(イライザ効果)生きものである。感情AIを組み込んだラブドールに恋愛感情を持っても、驚くには値しない。
オリエント工業製のラブドール
ライフシミュレーションコンテンツ「AI*少女」
これらが実現するのは、フリクションとリスクを最小化した社会である。そこではもはや、フィルターバブルの中には1人しか入れない。居心地良い空間を作る膜の中にいるのは、自分だけである。
データサイエンスを駆使したSNSがあれだけ選別に選別を重ねても、確執と衝突は起こるのである。現代は、衝突が起こりがちなのに、衝突を容認しない社会である。ならば抜本的な解決策は1つだけだ。フィルターバブルの中で1人だけで生きていく。
リアルの男性や女性が恋愛市場で敗北する日
今まではそれが技術的に難しかった。SNSで快適に過ごしても、どこかで路銀を稼ぎにリアルへ出て行かねばならない。メタバースはそれを仮想現実の中で可能にする。
1人が寂しければ、AIが形作る仮想人格や愛玩人形が無聊を慰めてくれる。
あまりにも侘しい人生に感じられるだろうか? しかし、それすらが過去の極めて硬直した価値観であるかもしれない。
サブカルチャーは炭鉱のカナリアとして利用できると述べた。この分野でオタクはすでに先行事例を大量生産している。ゲームやアニメのキャラクタを恋人や配偶者として扱い、ガチャに数千万を投じ、抱き枕や等身大人形を連れて旅行に出かけ、誕生日を祝ってきた。
二次元キャラクタとの結婚式を行う挙式サービス
リアルのチャペルで、二次元キャラクタとの結婚式を行う者もいる。
勘違いして欲しくないのは、よく言われているように「リアルで相手にされていないから、二次元に逃げている」人だけではないのだ。多くの者が、リアルよりも二次元の方が好きだから、キャラクタを恋人とし、配偶者とする。近年の「正義」や「多様性」のくくりには入れてもらえないので認知が進まないが、そういう性的少数者だということである。
今まではこうした少数者だけの市場だったが、長い時間を経て仮想空間で恋人や配偶者を実装するための技術が洗練されたこと、リアルの恋愛リスクが高騰していることなどから、もう少し大きなセグメントがリアルから仮想現実へ流れていくことが予想される。
いまはまだ想像の範疇でしかないだろうし、嘲笑う人も多いかもしれないが、2章で見た芸術作品のように、コピー不可能だと考えられていたオリジナルも、閾値を超えた情報の質と量を得たときデジタルで再現できるようになる。少なくとも、人の感覚にそう捉えさせることができるようになる。
リアルの男性や女性が恋愛市場で敗北する日は決して絵空事ではなく、遠い未来の話でもない。
それを不毛な自己愛の肥大と捉えるか、高齢者も障害者も性的少数者も、躊躇なく恋愛市場に踏み出せる理想社会の到来と考えるかは、それこそ自由である。(続く)
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