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ヒトの脳はなぜ大きい? 高度な認知能力に関与する候補遺伝子|林純一

現在、最も古い生物の痕跡が見つかっているのは約40億年前の地層からです。そこから今に至るまで地球上には様々な生物が誕生しました。そして、それらはある共通の特徴を持っています。「細胞」を基本単位とすること。これは現在の生物の定義にも使われています。
しかし、「細胞」が生き物の本質なのでしょうか。細胞を持たないウイルスすら持っており、生命の設計図とも呼ばれる「ゲノム」は本質とはいえないのでしょうか。光文社新書1月新刊『「生命の40億年」に何が起きたのか』では、長らく生物学の世界で研究を続けてきた著者がそんな問いへと立ち返り、今までにない生命観を構築していきます。
本記事では刊行を記念して、第8章より本文の一部を抜粋・再構成のうえ掲載。ヒトの認知機能を司るかもしれない遺伝子を探っていきます。

ヒトとチンパンジーの核ゲノムの違い

ヒト核ゲノムの解読は2003年に、チンパンジー核ゲノムは2005年に完了した。両者の核ゲノムに存在するタンパク質遺伝子はともに2万個で、塩基配列の違いは1.2%だ。また、核ゲノムの全体像は細胞分裂時にだけ出現する染色体に集約されるが、ヒトが23種類の染色体を母親と父親からそれぞれ受け取って計46本になるのに対し、チンパンジーなどの大型類人猿は24種類、計48本の染色体を両親から受け取る。

実は、チンパンジーの染色体にはヒトの2番染色体に相当する染色体がない。逆に、ヒトにはチンパンジーの12番と13番染色体がない。ただ両者をつなげると、大きさや染色パターンがヒトの2番染色体とほぼ一致することから、ヒトとチンパンジーの共通祖先が持っていた12番と13番染色体の融合によって、ヒトの2番染色体が形成されたと推定できる(図表1)。

図表1 ヒトの祖先で起こった染色体融合

さらに両種の核ゲノムの全塩基配列を比較することで、染色体融合の分子的な証拠も見つかった。チンパンジーの12番と13番染色体の融合位置に相当するヒト2番染色体の中央部に、染色体末端の名残としてテロメア配列が存在していたのである。また、ヒトの2番染色体にはセントロメア配列も2箇所で見つかった。セントロメアは、細胞分裂の際に紡錘糸が結合する場所で、各染色体に1箇所だけ存在し、染色体を2つの娘細胞に均等に分配する重要な役割を持つ。現在ではこの2箇所のうち、チンパンジーの13番染色体のセントロメア配列と相同な配列が、ヒトの2番染色体でセントロメアとして機能し、もう片方はその痕跡を残すのみである(図表1)。

ちなみに、ネアンデルタール人やデニソワ人の染色体数もヒトと同じ46本と推定できる。なぜなら、彼らはヒトの祖先と交雑して繁殖力のある子孫を残せただけでなく、核ゲノムの全塩基配列のなかで2番染色体に相当する領域に、ヒトと同じようにテロメアやセントロメアの痕跡が存在しているからである。

ヒトの祖先がチンパンジーの祖先と分岐した後に生じたこの染色体数の変化は、ヒトとチンパンジーの祖先の完全な分岐を促進したかもしれない。なぜなら少なくともこの変化によって、両者が交雑して子孫を残すことは困難になったからだ。この分岐の後にヒトの祖先が獲得した主な遺伝形質は直立二足歩行である。その後、石器の作製や火の使用、体毛の退縮、脳容積の拡大などの新しい遺伝形質が次々に加わった。

ただここでの問題は、両者を隔てるすべての遺伝形質やその原因となるすべての突然変異の差を列挙することではなく、ヒトだけが持つ高度な認知機能、つまりヒトと他の生命を分ける特別な遺伝形質に焦点を当て、そのために必要な複数の遺伝子やスイッチに存在する突然変異のセットを探索することである。次からはここをもう少し詳しく見ていこう。

認知機能を高める突然変異をどう評価するか

近年、チンパンジー以外の大型類人猿(ゴリラとオランウータン)の核ゲノムの全塩基配列も次々に解読された。これを活用すると、類人猿ではまったく変化していないのに、ヒトだけで変化した塩基配列を特定することができる。そこで、そのなかからヒトだけが獲得した遺伝形質である高度な認知機能に関連する遺伝子やスイッチの突然変異を探索する研究が盛んに行われるようになった。しかし、この探索によって見つかるのはすべて状況証拠だけである。なぜなら、倫理的な理由によりヒトや霊長類の脳組織を使った実験で直接的な証拠を得るのはとても困難だからである。

ただ、その突然変異によって、脳の大きさや質にどのような影響を与えるかを評価できる実験系は2つある。1つは霊長類と近縁な齧歯類のマウスに、ヒトやチンパンジーの遺伝子やスイッチを導入して、脳の構造や生理機能を比較する実験系である。

もう1つは、近年の技術革新によって誕生した、脳の3次元擬似組織(脳オルガノイド=脳もどき)を作る実験系である。どんな実験系かというと、まずヒトの培養細胞を初期化し、多能性幹細胞であるiPS細胞を作製する。次に遺伝子改変技術により、高度な認知機能に必要と想定される遺伝子やスイッチを削除したり、ネアンデルタール人やチンパンジーの塩基配列に置き換えたりする。そして、分化誘導によってさまざまな脳組織と類似した構造や生理機能を持つ脳オルガノイドを作製し、その影響を調べるのである。

その結果、高度な認知機能に必要な候補として、胎児の大脳新皮質(複雑な情報処理機能を提供する組織)で発現し、この組織の容積増加や質的向上に関与する遺伝子やそのスイッチの突然変異が明らかになりつつある。そのなかの主なものは次の通りだ。

高度な認知機能の候補遺伝子

新しい遺伝形質の獲得には、既存の祖先型遺伝子の「重複あるいは部分重複突然変異」による新しい遺伝子の出現が関係する場合がある。実際にヒトと類人猿の核ゲノムの塩基配列を比較した結果、ヒトだけが持つ新しい遺伝子は確かに存在し、そのほとんどは類人猿も共有する祖先型遺伝子の重複あるいは部分重複突然変異でできた遺伝子であった。しかもそのなかには、認知機能に関わる大脳新皮質で発現している遺伝子もあることが明らかになった。

大脳新皮質の容積増加・質的向上に関与する部分重複遺伝子
これらの遺伝子は、ヒトの祖先がチンパンジーの祖先と分岐した後からサピエンスの祖先が登場するまでの間に、他の哺乳類も共有する祖先型遺伝子が部分重複したことにより新たにできた遺伝子で、ヒトだけでなくネアンデルタール人やデニソワ人の核ゲノムにも含まれている。

例えば祖先型遺伝子($${\textit{ARHGAP11A}}$$と$${\textit{NOTCH2}}$$)が部分重複してできた遺伝子($${\textit{ARHGAP11B}}$$と$${\textit{NOTCH2NL}}$$)は、それぞれ発生初期の胎児の神経前駆細胞(神経幹細胞からできる細胞で盛んに分裂してから神経細胞に分化する細胞)で発現することで、終末分化細胞である神経細胞への分化を抑制し、神経前駆細胞の細胞分裂を維持させるため、結果として大脳新皮質の神経細胞数の増加につながっている可能性がある。

一方、別の部分重複突然変異でできた新しい遺伝子($${\textit{SRGAP2C}}$$)は、神経前駆細胞から分化した神経細胞で発現し、祖先型遺伝子($${\textit{SRGAP2A}}$$)が作るタンパク質と結合して、その生理機能(神経細胞の成熟)を阻害する。その結果として隣接する神経細胞への接続数(シナプス数)は増加し、大きくなりつつある大脳新皮質の質的向上につながっている可能性がある。

脳の容積増加に関与する機能喪失遺伝子
新しい遺伝形質の獲得には常に新しい遺伝子が必要とは限らず、逆に既存の遺伝子の機能喪失で達成できる場合もある。脳は大量のエネルギーを消費するために、必要以上に脳が大きくなるのを抑制する遺伝子が存在するが、300万年前にヒトの祖先でこの抑制遺伝子($${\textit{CMAH}}$$)がレトロホゾン(Alu)の挿入により破壊された。この時期はヒトの祖先で脳が拡大し始めた時期とほぼ一致している。

また240万年前に、顎の咀嚼筋で発現していた筋肉タンパク質を作る1つの遺伝子($${\textit{MYH16}}$$)が欠失点突然変異で機能喪失して、咀嚼筋の収縮力が低下したことで、頭蓋容積の拡大を許容した可能性も考えられている。

高度な認知機能の候補スイッチ

新しい遺伝形質の獲得に必要なのは、何も遺伝子の獲得や喪失だけではない。既存の遺伝子でも、その発現をコントロールする別のスイッチが新しく誕生することで、遺伝子発現の場所や時期などが変化し、新しい遺伝形質の獲得に大きく貢献する場合もある。

ヒト加速領域
ヒトとさまざまな霊長類の核ゲノムの全塩基配列を比較したところ、非遺伝子領域のなかで、ヒトで急速に変化した領域(ヒト加速領域)が複数存在することが明らかになった。これらの領域は、遺伝子発現に必要な新しいスイッチを含んでおり、これによって近傍の遺伝子の発現場所や発現時期が影響を受ける場合がある。また、ヒト加速領域の一部は主に胎児での大脳新皮質の形成に関与する遺伝子のスイッチに相当することも分かった。さらにこの領域のスイッチのなかには、ヒトの直立二足歩行という遺伝形質の獲得に貢献した可能性を指摘されているものある。

レトロポゾン(Alu)
真核生物の核ゲノムの非遺伝子領域に存在するレトロポゾンの一種であるSINE(第2章参照)は、哺乳類では核ゲノムの10%を占めている。核ゲノムに突然出現して自己複製し、大量に増殖したのち再び核ゲノムに挿入されたもので、そのまま変化せずに保存され続けるものもある。SINEの核ゲノムへの挿入が種の形成に関与している場合もあり、その一部は遺伝子のスイッチとしての生理機能を持つことで、陸上脊椎動物の四肢形成や哺乳類の乳腺形成でも重要な役割を果たしてきた。

これに対し、ヒト核ゲノムで急増しているのは霊長類ではじめて出現したAluという特殊なSINEで、ヒト核ゲノムの10%を占めている。そして、Aluも自己複製によって自身のコピーを核ゲノム内に増やし、多くの遺伝子のスイッチに変身している場合がある。このため、これらを利用する複数の遺伝子の発現が一挙にコントロールされて、高度な認知機能といった複雑な遺伝形質の迅速な獲得に貢献した可能性がある。

「生命の基本単位はゲノムである」という第2章で提案した生命観に立つと、ヒトは核ゲノムとミトコンドリアゲノムから構成されるだけでなく、そこに核ゲノムを生存環境として自己複製するAluなどのレトロポゾン、つまりゲノムだけでできている生命も加わることになる。とすると、まさにヒト核ゲノム内に共生する別の生命の自己複製という突然変異が、ヒトに高度な認知機能を提供した要因の1つなのかもしれない。

なお、ここまで述べてきたヒト特有の遺伝子やスイッチは、数万年前のネアンデルタール人やデニソワ人の核ゲノムにも存在した。しかし、ごく最近では、霊長類からネアンデルタール人やデニソワ人までは変化せず、ヒトだけに生じた突然変異を持つ遺伝子もいくつか発見されている。このなかで$${\textit{TKTL1}}$$や$${\textit{NOVA1}}$$といった遺伝子は脳で働いているが、これらのヒト特異的突然変異が、高度な認知機能に関係するかどうかは不明である。そもそも、ネアンデルタール人も高度な認知機能を持っており、絶滅さえしなければ文明を創造できた可能性を否定することはできないのである。

以上、ヒトの高度な認知機能という遺伝形質の獲得に必要な候補遺伝子や候補スイッチの突然変異をいくつか挙げてきた。ただ、その全貌を明らかにできるまでには、まだまだ多くの研究が必要である。

ヒトが獲得した「文明を創造できる高度な認知機能」が、ヒトと他の生命を分ける特別な遺伝形質であるのなら、これこそが、まさに探し求めてきた「ヒトたらしめるもの」に相当するのではないだろうか。ただ、この結論に対して筆者は違和感が拭いきれず、どうにも腑に落ちない。何かが足りないような気がするのである。それは、おそらくこのパズルを解くための最後の論理的ピースが足りないからだろう。そこで、あらためて「ヒトたらしめるもの」は何かという原点に立ち返ってみたい。

以上、「第8章 ヒトたらしめるもの」より一部抜粋して再構成。

目次

プロローグ
第1部|生命の再定義
第1章:生き物とは何か
第2章:自己複製する核酸の正体
第3章:遺伝子とは何か
第2部|ゲノムの表現
第4章:個体形成
第5章:個体老化
第6章:子孫形成
第3部|ゲノムの創造
第7章:ヒトゲノム創造までの40億年
第8章:ヒトたらしめるもの
エピローグ

より詳しい目次はこちらをどうぞ

著者プロフィール

林純一(はやしじゅんいち)
1949年北海道生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。’77年に東京教育大学(現・筑波大学)理学研究科動物学専攻博士課程修了(理学博士)。埼玉県立がんセンター研究所研究員、テキサス大学健康科学センター・ダラス校客員研究員、埼玉県立がんセンター研究所主任研究員、筑波大学生物科学系助教授などを経て、’98年より同大学の教授に。現在は筑波大学名誉教授。専門は生物のエネルギー代謝を司るミトコンドリアで、がんとの関連性やミトコンドリア病などの研究に従事してきた。著書に講談社出版文化賞科学出版賞を受賞した『ミトコンドリア・ミステリー』(講談社ブルーバックス)がある。



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