リアルでの格差やしがらみはリセットされる―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史
2章⑨ 仮想現実の歴史
光文社新書編集部の三宅です。
岡嶋裕史さんのメタバース連載の13回目。「1章 フォートナイトの衝撃」に続き、「2章 仮想現実の歴史」を数回に分けて掲載してきましたが、今回が2章の最終回です。仮想現実(≒メタバース)の歴史をたどることで、メタバースへの理解を深めていきましょう。
メタバース≒「もう一つの現実」では、リアルでの格差や不平等は解消されるのでしょうか?
下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。
「もう一つの世界」での格差
ただし、もう一つの世界が無条件で良いわけではない。リアルがつらく、しっくりこないと、別の世界へ行きたくなるが、そこで必ず勝ち組になれるわけではない。多くの異世界転生もののシナリオのように、チート級の能力をもってその世界でデビューできるわけではないのだ。
もう一つの世界は、リアルとは違う理で動いている。だから、リアルでの格差はいったんリセットされる。そこまではいい。でも、世界である以上、平等ではない。現代人は矛盾した希望を内包して生きている。自由と平等である。教科書で当たり前のように併置して教えられるそれは、実はかなり食い合わせが悪い。
自由を実現しようとすれば、自由にやった結果としての格差が必ず生じる。いっぽう、平等に重きをおけば、なんらかの制約や再配分が生じるため自由ではなくなる。現代の思潮では、重視されるのは自由である。特にインターネットにおいてはそうだ。だから、「もう一つの世界」でも、それは希求されるだろう。
だから、「もう一つの世界」にアクセスするとき、リアルの格差やしがらみはリセットされるし、そこで求められる能力はリアルのそれとは違うが、その世界に適した能力を発揮する者が得をするのは、どんな世界でも同じであり、厳然たる事実である。それは最終的には、その世界に対する満足度の、利用者ごとの大きな隔たりになるだろう。
それを気にしないことは、人にはできない。みんな違ってみんないい、は渦中にある者にとってはおためごかしに過ぎない。そこに沈殿した不満は、「平等」を求めて容赦のない叩き合いに発展するだろう。
もう一つの世界に移住すれば必ず幸せになれるわけではない。むしろ、自然状態では、もう一つの世界でも発揮すべき能力がなく、なじめず、敗北感と疎外感に打ちひしがれる人を大量に生むことになるだろう。
私はこうした状況に対して、フィルターバブルの境界を個々人にしてしまうことで、フリクションをなくす手法があり得ると考えている。いま、SNSがやっていることをもっと極端にするのである。同質の人間すらバブルの中に入れない。話相手や遊び相手が欲しくなったら、AIを立てる。
実際、RPGの旅の仲間としてスクウェア・エニックスが仲間AIと呼ぶものは、いい線をいっている。バンダイナムコが半分ネタとして実験した、自分以外すべてAIのSNS「Under World」は心地よかった。躊躇なく自分を甘やかしてくれるイエスマンしかいないのだ。これで、人はフリクションなく人生を生きていくことができる。そちらを目指すメタバースは必ず出てくる。
Under World
もちろん、そんなシステムは嫌悪する人が大多数だろう。だから、eスポーツをやるにしても、もう一つの世界でアクティビティに参加するにしても、背後に人が存在して、その人々とリアルではないけれど新しい形のコミュニティを作っていくのだろう。
ただ、その場合は、先ほど述べた平等のあり方、公平のあり方が極めて重要な課題となる。もう一つの世界でも、いやもう一つの世界だからこそ、人は平等にこだわる。
ソーシャルゲームでガチャの出現確率が、わずか百分の一パーセントでも告知と違えば、消費者庁に電話突撃が起こり、その世界からの退出が始まるのは偶然や気まぐれではない。不平等や不公平感はリアルだけで十分なのだ。メタバースにこれらを求め、しかしフィルターバブルの中に1人しかいない世界は拒絶するならば、私たちはメタバースでの新たな平等のあり方を模索しなければならないだろう。(2章了)
岡嶋さんの好評既刊です。現在2刷。