なぜ「テロリズム」が「正義」になってしまうのか?|高橋昌一郎【第4回】
「テロリスト」と「真の愛国者」
2022年7月8日、奈良市大和西大寺駅前で参議院選挙の応援演説をしていた安倍晋三元総理大臣が銃撃されて死亡した。手製の銃から2発の散弾を発射した山上徹也被告が現行犯で逮捕され、殺人・銃刀法違反などの罪で起訴された。
山上被告は、母親が莫大な献金をして自分と家族を不幸のどん底に突き落とした「世界平和統一家庭連合」(旧・統一教会)に恨みを募らせ、その関連団体を称えるビデオに出演した安倍氏を狙ったと供述している。この事件は、裁判員裁判で審理される予定だが、いまだに「公判前整理手続き」も行われていない。
この事件について、法政大学教授・島田雅彦氏は、「暗殺が『奇跡的に』成功したことにより、今まで隠蔽されていた不都合な真実が露呈し、バタフライエフェクトのように、自民党自体の屋台骨が揺らいだ。おそらくは山上徹也容疑者さえ意図しなかった形で政治テロとなった」と分析している(「『安倍銃撃』を通して明るみに出た『日本を売るエリートたち』という大問題」講談社ウエブ2022年11月25日配信)。つまり、結果的な「政治テロ」と解釈するわけだ。
その後、島田氏は「こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれないけど、今までなんら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えばね、せめて暗殺が成功してよかったなと。まぁそれしか言えない」とネット番組で発言した(インターネット番組「エアレボリューション」2023年4月14日配信)。
この島田氏の発言は、「目的のためならテロや暴力を容認するのか」「非民主主義的・非人道的」「遺族に謝罪しろ」などの批判を浴びて炎上した。島田氏は「テロの成功に肯定的な評価を与えたことは公的な発言として軽率」だったと釈明する一方、「悪政へ抵抗、復讐という背景も感じられ、心情的に共感を覚える点があったのは事実」と述べている(『夕刊フジ』2023年4月19日号)。
さて、「テロリズム」の普遍的な定義は存在しないといわれている。というのは、その解釈には常に政治的・倫理的な価値判断が入り込むからである。たとえば「カミカゼ」と呼ばれることもある「自爆テロ(suicide terrorism)」は、その名の通り「テロリズム」とみなされているが、その実行者を「殉教者」と崇める人々もいる。アメリカの傀儡バティスタ政権時にキューバに侵入したカストロやゲバラは、当初は「テロリスト」だったが、虐げられていた農民らが支援したゲリラ戦で政府軍に勝利した後には「英雄」と称えられた。
本書の著者・保阪正康氏は、テロリストが「愛国者」として持ち上げられた1930(昭和5)年~36(昭和11)年の昭和初期を「異様」な時代と呼ぶ。とくに保阪氏が重視するのは1932(昭和7)年に生じた「五・一五事件」である。
「五・一五事件」は、海軍の士官、陸軍士官学校の候補生、農本主義団体の青年たちが、「君側の奸」「既成政党と財閥」「官憲」「特権階級を抹殺せよ!」と決起した事件である。彼らは、首相官邸で犬養毅首相を拳銃で射殺した。
本書で最も驚かされたのは、この事件の裁判に全国から100万通を超える「減刑嘆願書」や減刑祈願の「ホルマリン漬けの指」が届き、被告たちが「自分の命はどうなっても構わない。目的は真の日本の建設にある」と涙ながらに訴えると、それを聞いた弁護士や裁判官も一緒に泣いたという「異様」な光景である。新聞や雑誌も彼らを「英雄」扱いし、そこから日本は破滅へと向かった!