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戦争・音楽・演劇|佐々木敦『90年代論』第4回

戦争が始まった

 イラン・イラク戦争(イ・イ戦争/1980年~1988年)によって軍備を飛躍的に増強させたイラクは、経済的には窮状に陥っており、原油価格の大幅下落を惹き起こしたのはOPEC(石油輸出国機構)の制限を超えて原油を過剰生産しているクウェート(とアラブ首長国連邦)だとして批判、するとクウェートはイラクにイ・イ戦争時の400億ドルの借款の返済を要請し、二国の間で一挙に緊張が高まります。1990年8月2日、イラクがクウェートに攻め入ります(クウェート侵攻)。イラクはクウェート全土を制圧し、クウェート政権はサウジアラビアに逃れて亡命政府を設置しました。国際社会はイラクを強く非難し、西欧諸国は経済制裁を実施、クウェートからの即時撤退を求めますが、イラクの大統領サッダーム・フセインはそれに応じず、1991年1月17日未明、アメリカを中心とする多国籍軍(戦闘に参加したのはアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、イタリアの五カ国)がイラク軍への攻撃を開始しました。いわゆる「砂漠の嵐作戦」です。多国籍軍の空爆は一ヶ月半近く続き、地上戦を経てイラク軍は敗走、クウェートは解放されて停戦協定が締結されることとなりました。

 これが「湾岸戦争」の概要です。ちなみに、この戦争は現在は「第一次湾岸戦争」と呼ばれることがあります。周知のように、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を経て、2003年3月に「第二次湾岸戦争(イラク戦争)」が起きたからですが(海外ではイ・イ戦争が「第一次」と呼ばれることもあり、呼称は必ずしも統一されていません)、もちろん、ここでしたいのは中東の歴史のおさらいではありません。しかし、それ以前にさまざまな経緯があったとはいえ、2024年現在に至る中東情勢の混乱が、1990年代の幕開けとともに始まったということは押さえておくべきかと思います。

 (第一次)湾岸戦争は、当時、NINTENDO WAR(任天堂戦争)などと呼ばれたように、GPSが実戦で初めて援用され、ステルス機が本格投入されたハイテク戦争でした。戦地から遠く離れた司令部で遠隔で作戦を指揮し、巨大な複数のモニターに戦闘の模様がリアルタイムで映し出されている、といったハリウッド映画的なイメージは、ほぼ現実のものでした。とはいえ、多国籍軍の約八割がアメリカ軍の兵士で構成されており、50万人以上が戦闘に参加したので、アメリカ合衆国としてはベトナム戦争以来の大規模な海外派兵だったわけです。アメリカにはベ戦争以後、かつての日本のような強制的な徴兵制はありませんが、よく似た制度として「Selective Service System(選抜徴兵登録制度)」というものがあります。1980年、ジミー・カーター政権(民主党)が施行した制度で、1960年1月1日以降に出生した18歳から25歳までのアメリカ国籍の男性はこれに登録する義務があります(違反には罰金刑が課せられる)。SSSは潜在的な米軍兵士のリストになっているわけですが、実際の兵役は志願制であり、近年は志願兵の数が著しい減少傾向にあるようです。当然と言えば当然ですが(そのような現状を踏まえて、2024年6月、米連邦議会では徴兵制の復活を検討する議論が始まっています)。

 第二次湾岸戦争以降に中東(アフガニスタン)に派兵された退役軍人たちの自殺やPTSDは、のちにアメリカで深刻な社会問題になりましたが、第一次湾岸戦争においても、SSS施行後初めて海外に出兵したアメリカ人兵士が沢山居たということです。志願の動機は色々だと思いますが、経済的な理由で兵役を選んだ人もいたでしょう。アメリカ国内の失業率は1992年に上昇曲線のピークに達しており、以後は緩やかに改善されていったことを示すデータもあります。もちろんそのまま結びつけることは出来ませんが、仕事がない若者が仕方なしに兵士になって異国に赴く、そして殺し合いをする(させられる)。これはやはりベトナム戦争の再現と言えるかもしれません。

「白昼夢国家(デイドリーム・ネーション)」

 アメリカ各地では、1980年代中盤から、ガレージパンクやハードロック、ヘヴィメタルなどラウドでアグレッシヴな音楽性を併せ持ったバンドが次々と登場し、ローカルなインディ(ペンデント)・レーベルからデビューして、ラジオや雑誌(ZINE)などを介して全国的な(更に海の向こうでの)人気を獲得するということが多発するようになっていました。その代表的な存在がソニック・ユースです。結成は1981年のニューヨーク。変則チューニングを多用したギターアンサンブルにタイトなリズム隊、ノイズやフリーインプロヴィゼーション、ミニマルミュージックなどにも近接する実験的な音楽性によってアンダーグラウンドなバンドシーンで注目を集め、カリフォルニア州ロングビーチのSST、NYのホームステッド、イギリスのブラストファーストなど、数々の野心的な新興レーベルからリリースを重ねるごとに人気を高めてゆき、殊にゲルハルト・リヒターの絵画をジャケットに使った1988年の大作『デイドリーム・ネイション』は非常に高い評価を獲得、1990年6月、アルバム『GOO』でDGC(現在のゲフィン・レコード)からメジャーデビューを飾りました。ソニックユースのメジャーディールはインディシーンで活動していたバンドにとってサクセスモデルとなり、またメジャーのレコード会社もめぼしいインディバンドの獲得に躍起になっていくことになります。いわゆるオルタナ(ティヴ)・ロックの台頭です。そしてオルタナから生まれた90年代前半のアメリカンロック最大のムーヴメントが、グランジです。

デイドリーム・ネイション(1988)

 オルタナ~グランジロックの世界的なブームを決定づけたのは、何と言ってもニルヴァーナです。1987年にワシントン州アバディーンで結成されたニルヴァーナは、その後、シアトルのバンドシーンで頭角を現し、1989年にシアトルのインディレーベル、サブポップ(SUB POP)からファースト・アルバム『ブリーチ』をリリースしました。この作品も音楽メディアからは一定の評価を受けましたが、この後、ニルヴァーナは深い親交のあった先輩ソニック・ユースと同じくDGCとメジャー契約、1991年9月リリースのセカンド・アルバム『ネヴァーマインド』で大ブレイクを果たします。先行シングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は空前のスマッシュ・ヒットになりました。語義としては「ゴミ屑、汚物」を意味する「グランジ」というキーワードは、ニルヴァーナ、そのフロントマンにしてソングライターのカート・コバーン、そして「スメルズ・ライク~」のクールで陰鬱なメロディとともに世界を駆け巡りました。1993年9月には先日惜しくも急逝したシカゴの鬼才エンジニア、スティーヴ・アルビニのスタジオでレコーディングされたサード・アルバム『イン・ユーテロ』を発表。活動は順調に見えましたが、1994年4月、数日間の失踪ののち、コバーンがショットガンによる自殺体で発見され、グランジのブームは唐突でショッキングな終焉を迎えてしまいます。

 ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』は、湾岸戦争と同じ年です(戦争終結が1991年2月末、アルバムリリースが同年9月)。その音楽が、当時のアメリカを覆っていたであろう空気に影響を受けていないはずがありません。確かに戦争には勝った。しかしそれは他国同士の戦争にわざわざ関与しに行ったのだし、死んだ兵士もいた。国内には職にあぶれた明日をも知れぬ若者たちが不満と不安を抱えながら日々を生きていた。ニルヴァーナやソニック・ユースなどオルタナ/グランジロックは、80年代後半~90年代初頭のアメリカが、まさに「白昼夢国家(デイドリーム・ネーション)」であったことと無関係ではない。

イン・ユーテロ(1993)

「戦時下の音楽」——グランジ、そしてローファイ

 もうひとつ、グランジとほぼ同時期に、アメリカの音楽シーンではもうひとつのムーヴメントも起こっていました。ローファイと称されたブームです。

 ペイヴメントは1989年にカリフォルニアのストックトンで結成されたバンドで、数枚のEPを経て、1992年にファースト・アルバム『スランティッド・アンド・エンチャンティッド』をNYの新鋭レーベル、マタドールからリリース、脱力した愛すべきヘタウマ(ヘタヘタ?)なバンド・アンサンブルと、アバンギャルドとポップが絶妙にミックスされた音楽性で一躍脚光を浴びました。同作の冒頭に置かれている「サマー・ベイブ(ウィンター・ヴァージョン)」は、1991年8月にシングルとしてリリースされていた、初期ペイヴメントの、そしてローファイブームのアンセムともいうべき名曲です。ペイヴメントはあっという間に人気を加速させていき、1994年の大ヒットアルバム『クルーキッド・レイン』でその名声を決定的にします。

 ベックことベック・ハンセンは、ロサンジェルス出身のミュージシャンで、母方の祖父であるフルクサスのアル・ハンセンの影響もあって幼い頃から前衛芸術に触れていましたが、次第に音楽に関心を持つようになり、1993年から自作曲の発表を開始、同年3月に出したシングル「ルーザー」がインディながら大ヒットとなり、ソニック・ユース、ニルヴァーナに続きDGCと契約、「ルーザー」を含むメジャー・デビュー・アルバム『メロウ・ゴールド』が1994年3月にリリースされると、瞬く間にスターダムを駆け上がり、アメリカのポップミュージックの最高ランクに躍り出ました。「ルーザー」が典型的ですが、この頃のベックの音作りは自宅録音、いわゆる宅録で、カセットテープレコーダーで録ったかのようなモコモコした音質(ローファイーーハイファイの逆ーーというワードはここから来ています)と、安価な機材を使ったサンプル・ループ(「ルーザー」ならブルースのギターフレーズ)が特徴的であり、アイデアを思いついてすぐに一発録りしたかのようなインスタントな生々しさが却って新鮮でした。

 ペイヴメントとベックを中心として、ローファイと呼ばれた一群のミュージシャンが登場しました。いずれも音質にはこだわらず(むしろ音質の悪さを魅力に転じて)、宅録で、完成度やクオリティより気分優先で、それゆえに多作。当時はカセットテープ専門レーベルが多数存在しており(近年、アナログ盤やカセットは音楽のデジタルデータ化への反動で復活していますが)、インターネット前夜でしたが、その分ZINE文化も盛んでした。パンクとはまた違うタイプの初期衝動の音楽と言えるローファイは、90年代前半の一時期、百花繚乱の様相を呈すこととなりました。私はこの頃、映画館を辞めてフルタイムのライターになっており、音楽専門誌などでローファイを盛んにプッシュしました。もちろんグランジも聴いていましたが(それ以前からソニック・ユースの大ファンでした)、自分の気性としては、ローファイの方が合っていたのだと思います。

 グランジとローファイは、時期的にはクロスフェードしていますが、ほぼ同時代現象と言ってよいと思います。この二つのーー音楽的にも人脈的にも相互に関係し合うーー流行は、アメリカがふたたび「戦争の時代」に入っていった最初の文化的反応のひとつだと私は考えています(映画や小説、アートにも「反応」を見出すことが出来ると思いますが、本稿では触れられません)。そしてようやく本論のテーマに繋がるのですが、グランジとローファイは、ほとんどタイムラグなしに日本にも伝わりました。ニルヴァーナの大ヒットは世界レベルだったので当然ですが、まだ音楽雑誌も元気だったので、ジャーナリズムは挙ってこの「流行」を取り上げ、煽りました。ただし、湾岸戦争抜きで。もちろんグランジもローファイも明示的に「戦争」を題材にしていたわけではありません。彼らがしていたのは、空気の描出であり、気分の吐露でした。音楽は(サブカルチャーは、芸術文化は、と言っても同じことですが)常に時代の表現としての貌を持っています。グランジとローファイは、90年代前半の「アメリカ」の自画像、少なくともそう呼べるような一面を有していた。そしてその「アメリカ」とは、戦争の、失業の、白昼夢の「アメリカ」だった。

もうひとつの「渋谷系」

 しかし、日本は一見、状況がまったく違う。1989年1月に昭和が平成になって、1990年にバブル景気は弾けていたが、多くの人々はまだそのことに気づいていなかったか、気づかないふりをしていた(していられた)。前回と前々回で見たように、ニッポンの音楽においては、この時期は『イカ天』から「渋谷系」に連なる頃です。「輸入文化」としての「渋谷系」についても述べておきましたが、フリッパーズ・ギターが参照していたのは、主にイギリスのバンドです。とはいえ、影響がまったくないわけではなく、たとえばフリッパーズ解散後の小山田圭吾=コーネリアスの二枚目のアルバム『69/96』は、小山田が19「69」年1月27日生まれであることと、リリース(1995年11月1日)の翌年が19「96」年であることに因んだタイトルですが、では1996年の誕生日に小山田が何歳になるかといえば、27歳。ニルヴァーナのカート・コバーンが1994年4月5日に死んだ時の年齢と同じです(ポピュラー音楽にはなぜか27歳で夭折した伝説的ミュージシャンが多く、「27クラブ」と呼ばれたりしています)。コーネリアスのファースト・アルバム『THE FIRST QUESTION AWARD』のリリースは1994年2月25日なので、その時コバーンはまだ生きていました。初期のコーネリアスはアルバムごとにコンセプトを大きく変化させる——これはフリッパーズと同じです——のが特徴でしたが、『THE FIRST QUESTION AWARD』と『69/96』は一年半以上の時間差があるとはいえ、音楽性が激変していて、一言でいえばダークでヘヴィでノイジー、つまりグランジ的になっている。

69/96(1995)

 あるいは同じく元フリッパーズの小沢健二が1995年5月にリリースしたシングル「戦場のボーイズ・ライフ」の歌詞を挙げることも出来るかもしれません。いささか牽強付会に思われるかもしれませんが、それでもやはり無関係とは言えないのではないか、とだけ述べておいて、先に進むことにします。

 そういえば「デス渋谷系」というものもありました。小山田圭吾が所属レコード会社のポリスター内に設立した自己レーベル「トラットリア」からは、コーネリアスやカジヒデキ、カヒミ・カリィなど「渋谷系」のアーティストの他、90年代の日本のアンダーグラウンドなバンドシーンの台風の目だった大阪のボアダムズのギタリスト(当時)山本精一率いる想い出波止場や、同じくボアダムズのドラマーYOSHIMIのガールズバンドOOIOO、中原昌也のノイズ・プロジェクト暴力温泉芸者(のちのHair Stylistics)など、およそ「渋谷系」的とは言えないような「オルタナ」なミュージシャンのリリースもしていました、トラットリア所属以外にも、当時頭角を現していた、やはりボアダムズにいたことのある増子真二のDMBQ(Dynamite Masters Blues Quartet)や、Buffalo Daughter、ギターウルフなどといった「一見オシャレではないが一周回ってオシャレな気がしてくる」バンドは、一部で「デス渋谷系」と呼ばれました。彼らのスタイルはさまざまですが、いずれもアメリカのオルタナ~グランジ~ローファイとシンクロする音楽性を持っていました。コーネリアスの『69/96』には「デス渋谷系」のミュージシャンが何人も参加しています。

 「デス渋谷系」は「渋谷系」という現象が音楽性以上に人脈(ミュージシャン同士の人間関係)によって出来上がっていたことを示していると言えますが、それと同時に、「渋谷系」の趣味の良さ、オシャレさの裏側に、一見正反対に思えるような価値観が貼り付いていたことを教えてくれます。いうなれば「悪趣味」です。しかし、90年代について考える際に非常に重要だと思われるこの論点については、また章をあらためて考察したいと思っています。

 日本はアメリカと安全保障条約を結んでおり、憲法に戦争放棄が明記されている以上、自国の軍隊を持つことは許されず、その代替物として「自衛隊」という存在がある。周知の事実です。70年安保から20年が経過して、アメリカがベトナム戦争以来、久方ぶりに「戦争」に向かった90年代はじめ、日本はいまだバブルの残響の中にあり、海の向こうで戦争が始まっても、直接的な影響はほとんど感じられなかった。しかし「戦時下の音楽」とも言えるグランジ~ローファイと、その同時代現象としての「渋谷系」は、いわばねじれた形で繋がっていたのだと私には思えます。「輸入文化」である以上、それは避けられないことでした。

『東京ノート』の新たなるリアリズム

 劇団「青年団」を主宰する演劇作家の平田オリザは、戯曲『東京ノート』によって、「演劇界の芥川賞」とも呼ばれる岸田國士戯曲賞を受賞します。1995年のことです。初演は1994年。平田オリザと青年団の出世作、代表作であり、何度も再演されている名作です。

 『東京ノート』は、こんな話です。今(1994年)から10年後の2004年、ヨーロッパで戦争が起こっており、貴重な美術品が失われてしまうことを防ぐため、日本にフェルメールの絵画が一時避難的に移送されてきた。舞台はフェルメールの展覧会が催されている東京のある美術館のロビーです。私は以前、この作品を入り口として、平田オリザとその「現代口語演劇」にかんして、幾つかの論考を発表しているので、詳しくはそちらを参照してほしいのですが(注)、簡単に整理しておくと、『東京ノート』や、その前後に発表された平田の傑作群の画期性は、日本の現代演劇に「新たなるリアリズム」を齎したことにあると言えます。その「リアリズム」は複数の要素から成るものですが、そのひとつはーー「現代口語」とあるようにーー日常会話と音量や抑揚が変わらない(ように聞こえる)台詞の自然な発話であり、そしてもうひとつが「時空間の限定」です。『東京ノート』は美術館のロビーのみで劇が進行し、場面転換はありません。また、この作品の上演時間は95分ですが、時間的な省略や回想場面などは一切なく、物語内の時間の進行と上映時間が完全に一致しています。つまりこれは「或る美術館のロビーの約1時間半の出来事」を切れ目なしに描いた作品なのです。いわば特定の空間にカメラを設置して1時間半撮りっぱなしにしたかのような演劇であるわけです。

 その結果、これも平田オリザの「現代口語演劇」の特徴のひとつですが、『東京ノート』は一本の明確なストーリーラインを持たない、たまたまその美術館のロビーに立ち寄った人々の言動を淡々と記録したかのごとき作品になっている。ロビーのベンチで複数の会話が同時になされる、平田の用語で「同時多発会話」も従来の演劇にはない趣向でした。しかしそれは現実世界ではごく普通のことなのであって、かくして「新たなるリアリズム」が醸成されてくるわけです。劇場の舞台で演じられているのですから、もとより劇であること、フィクションであることは誰にとっても自明であるのにもかかわらず、なんだか現実ぽい感じがしてしまう、ということです。

 そこに現れる人々は、しかしそれぞれにさまざまな事情や背景、物語の芽のようなものを持っています。登場人物は通り過ぎるだけの人も含めるとかなりの人数なのですが、大きく言うと、美術館に併設されたレストランでディナーを取ることになっている家族(特にそのうちの長姉とその弟の嫁)、有名な画家だった亡くなった父親の作品を美術館に寄贈する相談に訪れた女性と弁護士と女性の男友達、そして偶然再会する元家庭教師の男性と現在は大学生の若い女性、これら三つのグループの物語(のようなもの)が並行して描かれていきます。ここで注目したいのは、二番目の人たちです。

 10年後の近未来、日本は国としては戦争に参加していませんが、義勇兵のようなかたちで戦地に赴く人が増えている。その動機は正義や平和への責任の意識から経済的な理由まで色々であることが、何人かの人物のやりとりからわかってきます。「義勇兵」になることに決めたと語る人物に、そこに居合わせた第二のグループの男友達が「戦争反対」と独り言ぽく口にして喧嘩になりそうになる、という場面があります。その他にも、ほとんどドラマチックなことが起こらないこの作品には、「戦争」の影が遠く薄く、しかし切実な実感を伴いつつ見え隠れしています。『東京ノート』は非常に複雑な内容を持った作品ですが、これは明らかに「戦争(を描いた)演劇」なのです。

文学者声明と平田オリザの「抵抗」

 『東京ノート』というタイトルは一見とてもシンプルですが、ここにも深い含意が込められています。「東京」には小津安二郎の『東京物語』へのオマージュが窺えます(平田オリザは小津からの影響を公言しています)。では「ノート」はどうでしょうか? これはスペインの作家フアン・ゴイティソーロが当時泥沼の内戦が続いていたボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォを訪ねて著したルポルタージュ『サラエヴォ・ノート』(1993年)を思い出させます。同書の日本語訳が出たのは1994年の11月なので『東京ノート』の初演(同年5月)よりも前ですが、原著が刊行されるとすぐに国際的な話題になっていました。忘れてはならないことですが、中東で湾岸戦争が起きていた頃、ヨーロッパの東では内戦(ユーゴスラビア解体→ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)が激化しました。スーザン・ソンタグは1993年の夏にセルビア軍に包囲されたサラエヴォに滞在し、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演しました。「ゴドー」がいつまで待ってもやってこないという「不条理」を描いた20世紀最重要戯曲を戦地で上演する意図はあまりにも明白かつ痛烈でした。このことも『東京ノート』の構想に影響を与えたかもしれません。つまり『東京物語』+『サラエヴォ・ノート』=『東京ノート』ということです。

 平田オリザは、なぜ『東京ノート』のような戯曲を書いたのでしょうか。その直接的なきっかけは、はっきりと述べることが出来ます。PKOです。
 湾岸戦争が始まり、日本はアメリカを中心とする多国籍軍に巨額(90億ドル)の資金援助を行いましたが、金だけ出すのでよいのかと内外の一部から批判されました。そこで日本政府(当時は自由民主党の海部俊樹政権)は1992年の夏に「PKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)」を成立させ(国会審議での野党との論戦は紛糾し「PKO国会」と呼ばれました)、自衛隊をペルシア湾に派遣することになります。もちろん戦闘に参加は出来ませんが、自衛隊が海外の戦場に赴いたのは史上初めてのことでした。

 この流れに対して、柄谷行人、中上健次、津島佑子、島田雅彦、田中康夫、高橋源一郎、いとうせいこう、岩井克人など文学者・学者が発起人となって、日本の戦争参加に反対する集会を開き、いわゆる「湾岸戦争に反対する文学者声明」を発表します。この「声明」は、個人的な発言を除けば長らく政治的な問題提起をしていなかった「文学」からの久々の意思表示として注目されました。

 「湾岸戦争に反対する文学者声明」は二つの「声明」に分かれています(「声明1」と「同2」は署名者の数が異なる)。

声明1 私は日本国家が戦争に加担することに反対します。

声明2 戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、『戦争の放棄』の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。
われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。

 このような文学者による「政治」への働きかけの是非については、当時の文壇でも意見が分かれていました(もちろん署名しなかった人も沢山いました)。また、後の章で詳しく扱いますが、ここに示された「憲法」と「戦争放棄」の関係をめぐっては、のちに加藤典洋が「敗戦後論」(1995年)に始まる一連の論考で批判し、議論を巻き起こします。2003年の「第二次湾岸戦争」の時は同様の声明が出されなかったことに疑問を呈する論者もいます(確かにこれは私もおかしかったと思います)。ともあれ、80年代の政治的無風状態から90年代の「戦争」の時代へ、という世界の変化のなかで、ニューアカ(デミズム)のブームに踊ったニッポンの文化人・知識人たちも、意識的/無意識的なノンポリ(ノンポリティカル)な態度への反省(?)と政治的なコミットメントを求められることになった、ということです。

 平田オリザは1961年生まれなので当時は30代の前半、まだ世間に名前も知られてはいなかった。彼は「湾岸戦争に反対する文学者声明」には参加していません。求められることもなかったでしょう。しかし彼は「署名」する代わりに『東京ノート』を書いたのです。それは若き無名の演劇人にとって、紛れもなくひとつの「抵抗」の表現だったのだと思います。

(注)『即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア』(青土社、2011年)、「小説の上演」(『新しい小説のために』所収。講談社、2017年)、「アンドロイドはロボット演劇の夢を見るか?ーー平田オリザの転回」(『小さな演劇の大きさについて』所収。Pヴァイン、2020年)、「「ロボット」と/の『演劇』について」(『批評王』所収。工作舎、2020年)など。

佐々木敦(ささき・あつし)
1964年、名古屋市生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。多目的スペースSCOOL運営。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学、立教大学などで教鞭もとる。文学、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで批評活動を行っている。『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『映画よさようなら』(フィルムアート社)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』(筑摩書房)など著書多数。最新刊は『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。

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