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#01_死はいつだってぼくの隣にあった|小松理虔

地方と不確実

 なんだろう 、妙な感覚なんだけれど、ここ最近、自分に死が近づいてきたように感じることがある。といっても、ぼくが重い病気にかかっているとか、近い友人が大きな怪我をしたとか、そういう類の話ではない。なんとなく、以前よりも死を身近に感じるようになったというか、死というものは案外自分のそばにあるぞ、ということを実感するようになったのだ。もちろん、ぼく自身が年を取ったからという理由もあるだろうけれど、死との距離感が縮まった最大の理由は、たぶん「新聞を取るようになったこと」だ。

 いったいどういうことだろう。すこし順を追って紹介してみる。ぼくはこの春から、仕事の関係で朝日新聞を取るようになった。福島県内に住んでいるので、正しくは福島県版の朝日新聞なのだが、その新聞の折り込みチラシのなかに、日々「お悔やみチラシ」というのが入ってくる。A4サイズの白い紙に、どこの誰が、いつ、何歳でなくなったのか、葬式と通夜がいつどこで行われるのか、喪主は誰か、といった葬祭がらみの情報が掲載されているものだ。はっきりと故人や喪主の名前が書いてあるので、見覚えのある名前を発見して「うわ、あの社長のお父さん亡くなったのか!」と驚かされることもあれば、仮に知らない人だとしても、その人の名前や肩書きを見て、「へぇ、このなんとかさんって人、103歳じゃん」「すごっ、大往生だね」なんて会話が家族のなかで始まったり、「こっちのなんとかさんは家族葬で済ませちゃったみたいだな」とか、「ああ、こちらの方はだいぶ若くして亡くなってる。病気かなあ」なんて、余計なことをあれこれ妄想してしまう。死者の名前。肩書きや年齢、さらには本籍や葬祭場のある場所の地名。たしかに断片的な情報だけれど、それらの情報は故人を語るうえでかなり決定的な情報でもある。だから、チラシを受け取ったぼくは、出会ったこともない故人について勝手な妄想を繰り広げてしまうのだ。
 
 都市部の人たちには馴染みがないかもしれないけれど、地方で「お悔やみ」は大事な情報である。チラシ以外にも、たとえば地方新聞の紙面上に小さな「お悔やみ欄」が掲載されている新聞が多い。それだけ読者からニーズが寄せられているからだろう。新聞ならそのページを開かなければ目にしなくて済むけれど、ぼくの場合、それが、スーパーや家電量販店や人材募集のチラシといっしょに、毎日、しかもチラシの一番上に挟まれて配布されてくるのである。だれかのお悔やみ情報は、地方の人たちにとって、お買い得情報や就職情報と同じくらい暮らしに根づいたニュースだということだ。

 毎朝、新聞受けに新聞を取りにいく。茶の間に戻り、さて今日はスーパーでなにを買って帰ろうかなあと新聞を開くとお悔やみチラシがある。そこで死者の名を、享年を知る。ぼくの朝は、そうして死者の名を確認することから始まるわけだ。カムチャッカの若者がキリンの夢を見ているとき、小名浜のぼくは、あくびをしながらだれかの訃報を受け取っている。

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毎朝の訃報

 そもそも、この「お悔やみチラシ」は、なぜ毎日折り込まれてくるのだろう。早速、地元の新聞店に電話して、ことの真相を確認した。電話口の男性は店長さんだろうか。年配とおぼしき男性が、このお悔やみチラシについて丁寧に答えてくれた。

 店長さんの話でまず驚かされたのが、ぼくが受け取っているお悔やみチラシが、この新聞店の自腹で印刷され、折り込まれていたという事実だ。毎日7000枚近く印刷するらしい。手順はこうだ。まず、朝日新聞の福島総局内にある「福島朝日会お悔やみ係」が、県内の葬祭場などから寄せられるお悔やみ情報を取りまとめる。新聞店は、取りまとめられた情報から自分の地域の訃報をセレクトし、パソコンに自ら情報を打ち込んで、A4サイズの紙に印刷する。さらに、印刷の終わったお悔やみチラシを、ほかの広告と一緒にまとめ、新聞と一緒に各世帯に配達する。店長さんは「ぜんぶウチの負担になるんで経営的にも厳しいんですが、お客様からの強い要望があって、入れないわけにもいかないんです」と胸の内を語ってくれた。

 地方新聞には、もともと「お悔やみ情報」を掲載するコーナーがあった。しかし、朝日新聞のような全国紙はそこまでのローカル情報を取材する態勢にはなっていない。お悔やみ情報が紙面上に掲載されるのは、多くの場合、地域の著名人の訃報だけだ。すると、購読者から「地方紙にはあるのにお宅の新聞にお悔やみ欄がないのは不便だ」と注文が入る。それで、この新聞店では店独自に お悔やみチラシを折り込むようになったのだという。
 
 店長さんは、もうひとつ面白い話をしてくれた。同じいわき市内でも、地域によって、その「お悔やみチラシ」に対する反応が異なるというのだ。たとえば、ぼくの住んでいる小名浜地区など、わりと古い家のある地区の購読者ほどお悔やみ情報を必要としていて、「チラシの中のほうに入っていると探すのが大変だから折り込みの一番上のところに入れて」とリクエストされるのだそうだ。一方、若い世帯が多いニュータウン地区の購読者からは「朝から縁起でもないからお悔やみチラシは要らない」とクレームが届くのだという。なお、「ウチには入れてくれるな」というクレームが届いた場合、お悔やみチラシは折り込まないそうだ。つまり、チラシを入れたり外したりを、新聞店がわざわざ世帯別に調整しているというわけだ。まじすか新聞店。そこまでやるんだ。同じいわき市内でも、地域によってお悔やみに対する意識の差が生まれるというのも驚きだけれど、新聞店のきめ細やかな営業努力にも驚かされる。店長、ありがとうございました。

 このお悔やみチラシ、あとになって、折り込み広告業界の人に話を聞いたり、知人の新聞関係者に問い合わせたりして調べてみたのだけれど、どうやら都市部には存在しないらしい。そもそも、先ほども書いたように、全国紙は一般人のお悔やみ情報を掲載できるほど地域に密着しているわけではないし、その役割を求められてもいない。お悔やみ欄はハイパーローカルな情報を掲載することで全国紙と差別化を図りたい地方紙の専売特許のようなものだ。都市部には膨大な数の人たちが住んでいるわけで、お悔やみ情報のネタ元を当たるだけで日が暮れてしまう。

 それにプライバシーの問題もあろう。お悔やみチラシは個人情報の塊であり、また、死というのは極めてプライベートな問題だから、報じられることに抵抗を感じる人は多いはずだ。個人情報保護の意識は年々高まりつつある(その意味で、地方のお悔やみチラシだって早晩なくなる運命にあるのかもしれない)。

 ただ、とはいってもだ。地方紙はハイパーローカルな情報を今後も追い求めるだろうし、地方に暮らすぼくたちも、暮らしの情報と同じレベルでだれかの死に関する情報を心のどこかで求めてしまっている。それを知りたいと思う人たちの数もすぐには減らないだろう。実際、お悔やみチラシは日々配布されているのだ。ぼくは、その「お悔やみチラシが配布されている地方」をできるだけ面白がりたいと思っているし、地方に暮らすぼくたちは、都市に暮らす人たちより、だれかの死をより身近なものとして感じているのではないか、とも思う。

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遺影と死者

 地方だからこそ身近になる死、というものがあるのではないか。はて、チラシの他にもあるだろうかと考えて、ふと思い出したのは母方の祖母の家だった。いわき市常磐湯本町上浅貝。かつては炭鉱町だった町の片隅の、山の上のどん詰まりに祖母の家はあった。祖母は、その家の一番奥にある仏間にいた。8畳くらいだったか。仏壇とこたつ、嫁入り道具と思しき年季の入ったタンスが置いてあった。膝を悪くしていた祖母はいつもそのこたつに座り、お茶をすすりながら母とおしゃべりをしていた。こたつに入ってにこやかに話す祖母の姿が目に浮かぶ。

 その部屋には、ご先祖の遺影も飾られていた。和服に身を包んだ優しげな女性がいた。軍服姿のどこぞの男性、それに、紋付の袴を着た男性もいた。だれひとり名前すらわからない。会ったことも、話したこともない。それなのに、祖母の部屋に行くと、ぼくはいつも彼らに見張られているような気持ちになったものだ。ご先祖という死者の存在を、ぼくは遺影を通じて感じていたのだろう。

 その遺影のなかに、会ったことのない祖父もいた。遺影のなかの祖父は白髪まじりの角刈りで、紋付の袴を羽織っていた。「威厳」というものはこういうものをいうのだな、と思わせるような、鋭さと優しさが混じり合った目をしていた。祖父はもちろんなにも語らない。生きてすらいない。けれど、その目は、いつもぼくの背中を真っ直ぐにさせた。怒られているような、見透かされているような、そんな気持ちになった。

 祖父は炭鉱夫だった。母によれば、祖父は、坑の最深部に入ってダイナマイトで発破をかける「前山」の担当だった(掘り出された石炭を運び出す担当を「後山」という)。荒々しいヤマの男たちを統べる前山である。祖父もまた、ヤマの男然とした人だったのだろうと思っていたが、母が語る祖父からは、その荒々しさは感じられない。その仕事ぶりとは裏腹に、人柄に荒々しさはなく、家では本ばかり読んでいたそうだ。「父ちゃんはすごく本を読んでた。あんたが物書きになったのを知ったら喜ぶだろうね」と母は言う。その後もヤマの仕事を続けた祖父は、後年ガンを患い、母が高校生の時にこの世を去った。祖父は、本当はどんな人だったのだろうか。

 ぼくは、父方の祖父も4歳の時に亡くしている。ぼくが生まれたときにはすでに認知症が進んでいて言葉を話すことができなかった。なんとなく覚えているのは、ニットの帽子を被せられ、こたつに座ってぼんやりと虚空を見つめていた祖父の姿である。だから、ぼくにはほとんど「おじいちゃん」の記憶がない。おじいちゃんとはいかなる存在か、ということをぼくは知らずに育ったわけだ。おじいちゃんに会いたければ、常にその遺影を通じて会うほかなかった。いや、遺影を見れば祖父に会うことができた、と書くべきだろうか。ぼくは、遺影を通じて、たしかにふたりの祖父と会い続けていたのだ。ぼくが遺影に対してなにかか特別なものを感じるのは、それが理由かもしれない。

 あなたにも覚えがないだろうか。お盆やお正月。実家に帰ったり、田舎にある親戚の家に寄ったりして、だれかの遺影を見たとき、その死者に見守られているような、どこか見張られているような気がして、なんとなく背筋が伸びるような感じがした、なんてこと。

 特に田舎だと、自然の音や静寂がまた、「なにか」や「だれか」の存在を際立たせてくれるようなところがある。鳥や虫、カエルの鳴く声、木々のざわめき、風が戸を揺らす音、しんしんと降る雪の気配や雨が屋根を打つ音。そうして人工的ではない音や気配が感じられたり、シーンと静まり返った静寂がふと訪れたときに、怖いような、でも、どことなく優しげな感覚を覚えたことはないだろうか。祖母の家に泊まりにいくと、夜が少し怖かった。死んだじいちゃんが枕元に出てきたらどうしよう。ひとりでおしっこに行くの怖いなあ、なんて具合に。

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神のいる、地方

 思えば、地方で身近に感じられるものは「死者」の存在だけではない。そこには「神」もいるという気がする。厳しく屹立する峰、生き物のように動く大樹の葉、稲穂を揺らす風や、夕日の沈む穏やかな山並み。大きな恵みをもたらし、時に牙を剥き、大災害を起こすこともある大自然の剥き出しの威容や、ときおり垣間見える超越的な力を感じたとき、ぼくは、「ああ、かつてここに暮らしてきた人たちは、こういうものを神様だと感じたんだろうな」と感じる。地層や地形、つまり大地そのものが、あるがままを見せてくれるからこそ、ぼくたちは自分という存在のちっぽけさや、自然のままならなさ、その超越的な力を感じることができるのだと思う。

 人智を超えるもの。自然。神。いつ荒ぶるかは誰にもわからない。それはとても不確実なものだ。ぼくたちは、災害が起きると、自然の不確実さを痛感する。だけれど、平時を取り戻すほどにそれを忘れてしまい、日常をコントロールできると思ってしまうし、終わりなき日常が明日もきっと続くと無意識に考えてしまう。けれど、やっぱりそうではないということを、いつだって自然が教えてくれる。

 ぼくの暮らす福島県の会津に磐梯山という山がある。古くから山岳信仰の対象になってきた当地随一の霊峰だ。名前くらいは知っているという人も多いだろう。磐梯山は、過去に何度か大規模な山体崩壊を伴う大規模な噴火を起こした。特に5万年前と1888年に起きた二度の噴火はものすごい噴火だったそうで、県下一の湖である猪苗代湖や、美しい湖沼群で知られる五色沼などは、この時の山体崩壊によって形成されたと言われている。そもそも、いまぼくたちが見ている磐梯山自体が「山体崩壊後」の磐梯山であり、噴火前は、周辺の山々と同化した「大磐梯山」とも言うべきとてつもない威容の山だったようだ。だからこそ山岳信仰の対象になっていたのだろう。

 現地には、噴火の歴史を伝えようという資料館や、当時の山岳信仰の歴史を残す神社や寺院などが点在する。登山も人気だ(ぼくも遅ればせながら先日、裏磐梯登山デビューを果たした)。噴火という大自然の猛威を知り、地域の歴史や防災の営みを学び、温泉にじっくりと浸かり、スキーやカヌー、トレッキングといったレジャーを楽しみ、山のごちそうをたんまりと味わう。そんな「大地の学び」にフォーカスしたツーリズムが、磐梯エリアでは盛んに行われている。

 噴火は多くの犠牲者を出した。いまぼくたちが見ている美しい山の景色は、多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけない。磐梯山の麓、磐梯町にある「慧日寺」という寺は、かつて最澄や空海と仏教論争を繰り広げた高僧、徳一が開いたとされる。徳一は、仏教の知が集まる奈良での論戦を離れ、西暦806年に噴火を起こした磐梯へ仏の道を求めた。住民の心を安んじるための実践、救済にこそ仏道があると考えたのだろうか。慧日寺に行くと、本堂の奥に磐梯の山並みが見える。心静かに手を合わせると、仏さまにだけでなく、この山に向かって手を合わせているとも感じる。神と仏が分けられていなかった時代の精神性、地景や風景のなかに立ち現れる神や仏というものを感じることができた気がする。とても不思議な感覚だった。

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死者と生きる

 お悔やみ、死、地方、自然崇拝、畏怖…。そう考えてくると、ぼくにとって強く思い出されるのは、やはり2011年の東日本大震災だろうか。あの震災は、−−こんなふうに数行でまとめるわけにはいかないのだけれど−−あまりにも多くの命を、そして暮らしを奪っていった。巨大な津波を前に人間はあまりに無力な存在だった。いわき市でも多くの人たちが亡くなった。ぼくだって、どこかで何かの拍子に津波に巻き込まれていたかもしれないし、倒れた塀に押しつぶされていたかもしれない。まさに紙一重。亡くなった人と生き残ったぼくとの間に大きな違いはない。たまたまぼくは命拾いしたにすぎないのだ。死んでいたのは、ぼくだったかもしれない。

 けれど、「どうせいつ死ぬかわからんのだから」とニヒリズムに陥ることなく、なんとか地元での暮らしを楽しむことができているのは、ぼくの両肩に死者という存在が乗っかっているからだと思う。震災で亡くなった人たちが、あの世から「お前らは最後の瞬間まで自分らしく生きろ」と叱咤してくれているように感じるのだ。勝手な解釈だとは思う。けれど、ぼくは自分の人生を最後まで面白おかしく生きることが、亡くなった人たちに多少なりとも報いることにつながるのではないかと思うようになった。

 ふわふわした話をしていることは自覚している。場合によってはこういう話を「スピリチュアル」などと呼ぶこともあるのだろう。呼び名はどうあれ、あの震災以来、ぼくは亡くなった人たちについて考えずにはいられなくなった。生き残ったぼくたちは死者とともに生きるほかないのではないだろうか。死者の存在を都合よく使うなと言われそうだけれど、まあとにかくぼくはそう解釈することで震災後の月日を乗り越えてきたのだ。
 
 死者とともに生きる。ふたりの祖父だって同じかもしれない。会ったこともない炭鉱夫の祖父や、幼い時に死んでしまった祖父と、ともに生きていくことはできる。遺影を通じて語りかけることもできるし、彼らの人生は、ぼくにも、ぼくの娘にもたしかな影響を与えている。いま書いているこの文章にだって影響を与えているではないか。そうして死者とともに生きていけばいいのではないだろうか。

 そう考えてみると、なんだか「死生観」が揺らぐ感じがする。祖父は、死んでいるが、生きている。死がすなわち「無」かというと、そういうわけでもなさそうだ。生と死が明確にきっちりと分けられ、はっきりとした「生/死」と「有/無」が二元論的に存在しているわけではなく、なにかもっとぐちゃぐちゃっとしたものが、ぐるぐるっと回っている。そんな気がする。

 ぼくがそのような死生観を持つようになったのは、多分、自然との距離、死との距離が近い地方都市に暮らしているからだと思う。日々送られてくるお悔やみチラシ、実家に飾られた遺影、なんとなく近くにいると感じるご先祖、物言わぬ山や川、美しくも時に猛威を振るう大地や大海、そして静寂。暮らしと、その暮らしを取り巻く自然の中に、そこはかとなく存在する「なにか」や「だれか」、人ではない、わたしではない存在。いうならば「異者」ともいうべき存在が身近にあるからこそ涵養される死生観というものがあるのではないだろうか。
 
 死生観についてもう少し踏み込んで考えるために、少し寄り道してみよう。京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典さんが書いた『人口減少社会のデザイン』という本がある。広井さんはこの本で、さまざまなデータを使って人口減社会を読み解き、医療や福祉、経済、地域づくり、情報のあり方など、非常に広範な議論を展開するのだが、意外にも、そこに「死生観」について考える章があり、ぼくの目に留まった。少しその本から引用して考えてみる。

 広井さんはその章で、日本人の死生観を、A「原・神道的な層」、B「仏教(キリスト教)的な層」、C「唯物論的な層」の三層構造で示す。といっても、実際にこの三層が意識されているわけではない。戦後の日本では、経済成長や物質的な富の拡大に関心が向けられ、また、死を讃美した戦前のトラウマが残ったことから、死生観そのものが空洞化してしまったのだと広井さんは言う。そして、人口減社会になりつつあるいま、もう一度、根底にある伝統的な死生観(先ほどの分類でいうAやB)の層を再発見、再評価する時代になっているのではないか、と論じているのだ。ぼくは本を読みながら、何度も深くうなずかされた。

 広井さんが言うように、物資的な発展ばかりを追い求めようとするあまり、ぼくたちは過度に人間中心的な思考に陥り、自然とともにあるような死生観を育む機会を失ってきたのだろうと思う。成長し続ける時代はそれでよかったのかもしれない。でもいまはちがう。もはや日本は下り坂の途中にある。衰える地方をどう考えるか。社会の不確実さをどう受け止め、自分や他者の弱さをどう認め合っていくのか、死をいかに捉え直すのかをじっくり考え直す時期にある。その鍵を「自然観」や「死生観」に見出した広井さんの主張は、地方に暮らすぼくにとって深く納得できるものだった。その自然観や死生観は、「地方」でこそ育まれるのではないか。

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気まぐれな自然

 自然に囲まれていると、だれもいないはずなのに、なにもないはずなのに、孤独だと感じることはない。そこに草木があり、土や水があり、動物たちが生き、先祖や死者の存在を感じることができるからだろう。自分の存在が、他の存在から完全に切り離されて個別に存在しているのではなくて、地続きなもの、どこかでつながっているものとして感じられるから、強い孤独を感じないのだと思う。もちろん、これは個人の感じ方の問題だから、そうとは感じない人もいるだろうけれど。

 なにかに思い悩んだり、こころの調子を崩してしまったりしたとき、物言わぬ海や山、川や木々、鳥たちの声に救われた、なんてことが、あなたにもなかっただろうか。

 ぼくにはある。3年半ほど住んだ上海から地元へ戻ったときのことだ。しばらくの間、新しい仕事が決まらず、自分のやりたいこともできず、恋愛にも失敗し、実家で腐っていたことがあった。ハローワークに通ってはチャリであてもなく港町をさまよい、港のそばにあったコーヒーショップでホットのカフェオレを買って、海をぼんやり眺めながらすする日々。その海に向かって、どれほどため息を吐き出しただろう。

 海は、ぼくの声を聞いてくれているようで、しかしなにも言い返してはこない。いつも同じように、寄せては返し、寄せては返し、波の音を響かせているだけだ。けれど、同じように寄せては返す波も、よく目を凝らせばふたつとして同じ形はなく、すべて変化の中にある。ぼーっと波を見ていると、次第に、心の中にあった淀みが薄まり、自分の置かれている状況がなんとなく客観視でき、自分のネガティブな変化を受け止められるようになった気がした。そして何より、海をぼーっと眺めていると気が晴れた。すごく安直な表現で気恥ずかしいのだけれど、ぼくは海に話を聞いてもらうことで少しずつ癒されていたわけだ。

 危機の時代、コロナ禍の時代である。こうした「自然との近さ」がポジティブに作用する人たちが案外多くいるのではないだろうか。環境が大きく変化したり、人のことが信じられなくなったり、なにもしたくねえなと思ったり、人には何度か「弱る」タイミングも訪れる。そんなときに、海や山、木々や花々に助けられるということも、意外とあるだろう。

 と同時に、自然は、ときに人を、暮らしを傷つけるものでもある。自然は「不確実さ」の上に成り立っている。というか不確実で絶えず変化するものだからこそぼくたちは癒されるのだ。だから、自然に向き合う私たちは、意識的にせよ無意識にせよ、心のどこかで自然の不確実さを受け入れているはずである。
 
 ところが、ぼくたちは、不確かなものに対面すると、思わずそれを制御下に置きたくなるという一面も持っている。一旦は受け入れたはずの不確実さを、今度は一転して制御したくなってしまい、次第に、その制御を壊すような行動を許せなくなってしまうわけだ。恋愛も、子育ても、似たようなものかもしれない。だれかを好きになってしまったり、子どもが生まれてしまったり。そもそもだれかとの出会いなんて不確実、偶発的なものだ。それなのに、思わず自分の周りのものをコントロールしたくなってしまう。

 というか、考えてもみれば、ぼくたちの社会は「確実」で回っている。確実でなければ困るからだ。電車は時間通りに来てもらわねば困る。商品が届く日が不確実では困るし、テストの結果も不確実ではダメ。契約は確実に履行されなければいけない。仕事が山ほど積まれている。あした死ぬわけにはいかない。ああ、そういえば、あの報告書は年度内に絶対提出しなければいけないし、あっちの事業では、予算をかけた分の成果を確実に出さなくちゃいけない。役割を、仕事を、任務を、責任を、成果を、確実に、確実に。ぼくたちはいつだって、確実な成果や目的、それに伴う責任で社会を回してきたのだ。

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しゃあんめの精神

 それでもなお確実を追い求めるか。不確実だと開き直るか。さあ、どっちにする? どっちを選ぶんだい? とはぼくは聞けない。なんというか、その間を行き来しながら生きていくほかないと思うからだ。確実を追い求める社会で、コントールしたいという欲求を自覚しつつ、それが当たり前になりそうなときに、不確実さを今一度思い出せるような、もとのスタートラインに立ち戻れるような、そんな場所があったらいい。それが「地方」だと、もっといい。
 
 ぼくの地元に「しゃあんめ」という方言がある。直訳すると「しょうがない」という意味だ。いわき人は、これを絶妙に使いこなす。「雨降ってきちゃんだもの、しゃあんめ」「もうやっちまったんだもの、しゃあんめえよ」と言われると、「んだな、しゃあんめ」と返さざるを得なくなる。場合によっては「責任放棄」にもつながる言葉なので注意が必要なのだが、世の中がより確実さを求め、あらゆるものに数値目標を掲げて結果を出し続けなければいけない社会で、不確実なものの到来を「しゃあんめ」と受け止め、時に責任を逃れ、あるいは諦め、そして受容していこうといういわき人の態度に、案外、学ぶべき点は多い。

 もちろん「万策尽きる」には万策を練るという前提が必要だし、万事休するのは万事を弄した末である。いろいろやる。考える。やってみる。でも、どうしようもないことはどうしようもないのだし、想定外のことが起きたら、そのときには「しゃあんめ」と受け入れられたいい。だって、ホントにしゃあねえんだもの。

 結局のところ、人も社会も暮らしも、不確実さの上でゆらゆらと揺れていて、つねに変化のなかにある。今日まで変わらなかったものが明日変わってしまうかもしれない。もしかしたら隕石が落ちてくるかもしれない。巨大地震が起きるかもしれないし、雷に打たれるかもしれない。明日死ぬかもしれない日々を、ぼくたちは危うくもたくましく生きている。だから、すべてに責任を負うことなんてできない。しゃあんめ? 

 不確実さが、じつはぼくの人生を、この社会を、よりおもしろくしているのだということも忘れてはならない。人生が、暮らしが不確実だからこそ、説明不能のエラーが起きて、唐突にだれか好きになってしまったり、娘を授かったり、亡くなった祖父とのつながりを探したくなったり、いまこうして、わけのわからない文章を書いたりしているわけで。

 かといって、「どうせ不確実だ」「どうせ死ぬのだ」とニヒリズムに陥ってはいけない。不確実なものを確実なものにしたいと思うこともまた、人として自然なことだ。確実か不確実か。安心安全か不安か。経済か命か。生か死か。そうやってすべてを二つに分けてしまうのではなく、その二つの間を行ったり来たり、時にうじうじ、時に「しゃあんめ」をカマしてサバイブしていけたらいい。もはや、屈強な石橋を何本も作れる時代ではない。痩せ細るロープを、バランスを取りながら渡っていくほかない。

 そのバランスを取るためのひとつの軸が、本稿で考えてきたような「死生観」や「自然観」なのではないだろうか。 むき出しの自然から学びつつ、癒されつつ、神や仏、ご先祖の存在を感じながら、自分の人生や、社会のありようを思い馳せる。弱さを抱える地方だからこそ、山しかねえ、川しかねえといわれている地方だからこそ、実はそんな力が隠されている気がするのだ。

 さてさて、意外にも「死」や「不確実性」というキーワードから始まったこの連載…もまた不確実だ。この後、どう続くかわからない。続くかどうかもわからない。行ったり来たり、バランスをとりながら、都会と田舎、中央と地方、グローバルとローカルの「あいだ」から、地方の今を等身大を、レポートしていく。

写真/小松理虔

つづく


著者プロフィール

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小松理虔/こまつりけん 1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。ヘキレキ舎代表。オルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第45回大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著本に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。

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