「自由に生きよう。変でもいいじゃん!」京大倫理学教室発『哲学古典授業 ミル『自由論』の歩き方』
まえがき
人類の黄金時代は過ぎ去ったのか、それともこれからやってくるのか――これについては議論が尽きないでしょうが、過去において古典と呼ばれるにふさわしい文学や哲学の著作があることは、おそらく誰にも異論がないでしょう。しかし、多くの人にとって、古典の書名は知っていても、実際にそれを手にすることは稀でしょう。それはなぜでしょうか。
古典に手が伸びない理由は、いくつか考えられます。第一に、現代の視点からすると、古くさい文体で書かれているということです。古典にはどうしても、最初のとっつきにくさが伴います。例えば、ビートルズの曲を初めて聞いたとき、私ぐらいの世代でも「古くささ」を感じました。ところが、聞き慣れてくると、不思議なことに最初に感じた古くささはなくなってしまい、今度は古くさく感じたことが不思議にさえ思えてきます。音楽でも本でも、その作品が今の時代から、そして今いる場所から離れれば離れるほど、その傾向が強くなります。当時は最新の音楽や文学であっても、時代や地域が異なる者からすると、ずいぶん異質なものに感じられるということです。
第二の理由として、古典を読むのは時間がかかる割に、その内容の重要さが読むまで明らかにならないということがあります。現代は忙しい時代です。時間の無駄は極力避けるべきであり、自分にとってどのくらい価値があるのかわからない本を時間をかけて読むことは、時間の浪費になりかねない。それゆえ古典を読む優先順位は低くならざるを得ない――このように考える人も多いのではないかと思います。
第三の理由は、やはり、古典は理解するのが難しい、ということがあります。光文社古典新訳文庫のように、かなり平たい言葉で古典を現代の日本語に訳しているものでさえ、やっぱり難しく感じます。それは、表面上の意味はわかっても、時代背景や他の著作や思想家との関係がわからないため、古典が古典たり得る価値を捉え損ねる、ということではないかと思います。一応最後まで読んだけど結局何も記憶に残らなかった、という経験は誰しもあることでしょう。
ここまでに述べた古典に手が伸びない理由は、外国旅行をしない理由といくらか似ています。外国旅行の場合も、やはり多くの人は、ローマなり、イスタンブールなり、バンコクなりの有名な観光地に一度は行ってみたいと思うものです。しかし、異質なものに出会うことへのためらい、多くの時間とお金をかける価値があるのか、また適切に現地のことを理解したり楽しんだりできるのか、といった疑念などから、実際に旅行に出ることには二の足を踏む人も多いでしょう。そして、年を取ってから旅行して、「ああ、もっと早くに行っておくべきだった」と後悔する、ということもありそうな話です。
海外旅行に関しては、『地球の歩き方』のようなガイドブックがあります。これを旅行の前に読むことで、例えばローマの名所や、おいしいレストラン、あるいは電車やバスの乗り方で注意すべき点など、旅行をする際に知っておくべきことがわかります。吉田兼好の『徒然草(第五十二段)』に、仁和寺の法師が年を取ってから初めて石清水八幡宮を参拝しに行ったが、山のふもとにある寺や神社を訪れただけで、山の上にある肝心の八幡宮は見ないで帰ってきてしまった、という話があります。吉田兼好は「先達はあらまほしきことなり」と締め括っていますが、鎌倉時代に先達が書いた『地球の歩き方』があれば、この法師はおそらくそのような間違いはしなかったでしょう。
本書は、いわば「古典の歩き方」として、ミルの『自由論』を紹介するものです。古典を読むために古典を解説する本を読むのは一見すると回り道のように思われますが、外国旅行にガイドブックが有用なように、古典にも道案内が必要です。読者に古典の翻訳だけを用意して、こうした道案内を用意しないことは、旅行者にパリへの航空券だけを用意して、パリのガイドブックを用意しないようなものだと言えます。もちろん、ガイドブックがなくても楽しめる人もいると思いますが、読んでおくとさらに楽しめるかもしれません。
この本を読んでから『自由論』を読んでいただいてもよいですし、ちょうどガイドブックを片手に旅行を楽しむ人のように、この本を片手に『自由論』を読んでいただいても構いません。あるいは、本書ではミルの文章も多く引用しているので、ガイドブックだけ読んで旅行した気分になるのと同じ具合に、この本だけ読んで『自由論』を読んだつもりになってもらってもよいと思います。
ミルの『自由論』は自由主義(リベラリズム)の古典だと言われます。ミルは本書で、言論の自由や行動の自由などの個人の自由が、本人や社会にとっていかに重要かについて論じています。逆に言えば、政府や社会が個人の自由を抑圧することが、個人や社会にとっていかに大きな損害となりうるか、ということを説得力のある仕方で論じています。
ビジネスパーソンや政治家、政策立案者向けには、『自由論』の内容を次のように紹介することができます。「社会の停滞を防ぐには、社会の革新を生み出すような天才が育つ土壌を保つ必要があり、そのためには他人に危害を加えない限り、人々に最大限の自由を認め、多様な人生の実験ができるようにしなければならない」。
しかし、『自由論』はビジネスパーソンや政治家だけではなく、学校などの集団生活を強いられる場で「普通規範」に縛られて自分の好きなことをできない苦しみを経験している人たちにも、ぜひ読んでもらいたいと思います。本書を読めば、ミルが『自由論』で行っている議論が、現代日本で暮らす私たちにとっても大変重要であることがわかるでしょう。
著者紹介
児玉聡(こだまさとし)
1974年大阪府生まれ。2002年、京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。京都大学大学院文学研究科准教授を経て、2022年より同教授。専門は倫理学。著書に『功利と直観 英米倫理思想史入門』(勁草書房)、『功利主義入門 はじめての倫理学』(ちくま新書)、『実践・倫理学 現代の問題を考えるために』(勁草書房)、『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店)、『Covid-19の倫理学 パンデミック以後の公衆衛生』(ナカニシヤ出版)、『予防の倫理学 事故・病気・犯罪・災害の対策を哲学する』(ミネルヴァ書房)などがある。毎日更新中のブログのデザインは、加齢によって考え方が固定化されないようあえて自分が選ばなそうなものを選ぶという著者の試みの結果であり、著者の趣味というわけではない。
底本『自由論』↓もぜひ
こちらも京大文学部発↓