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「イカゲーム」はなぜ、「パラサイト」のアカデミー賞作品賞受賞を凌駕する、Kコンテンツ最大のヒット作となり得たのか?

「イカゲーム」はご覧になりましたか? 私はネットフリックスの予告編を見た瞬間、「これは」と思い、配信開始からかなり早く見終えることができました(やや自慢)。予告編は、例の「ムグンファ コッチ ピオッスムニダ(무궁화 꽃이 피었습니다)」のシーンが中心でした(上の写真も参照)。それに一発でやられてしまったわけです。ただ、見るときは夢中だったのですが、内容が凄惨すぎて、「愛の不時着」や「賢い医師生活」のように何度も繰り返す見るには至っていません。まあ、吸い寄せられるようにまた見てしまうとは思いますが。

さて、韓国ドラマ視聴歴が20年以上に及ぶ作家の藤脇邦夫さんが『人生を変えた韓国ドラマ 2016~2021』(光文社新書)を上梓されます。ソウルの夜景を全面に敷いたカバーが目印です。それを記念しまして、ネットフリックス視聴数歴代ナンバーワンとなった「イカゲーム」について存分に語っていただきました。ネタバレや核心部分に触れている箇所もありますので、未視聴の方はお気を付けください(新書編集部 三宅)。

※11月18日発売です。

藤脇さんの韓国ドラマについての既刊本はこちら。

「イカゲーム」の問いかけるものとは何か

「イカゲーム」については、『人生を変えた韓国ドラマ 2016~2021』(11月18日発売)でも触れているが、締め切り間近だったこともあり、紙面の都合ですべてを収録することが出来なかった。以下は、その補足も含めて、別の側面から書いたもので、新書内の記述に続いて読んでもらえれば幸いである。尚、一部ネタバレを含んでいることをご理解頂きたい。

 誰が、何のために、この死のゲームを企画したのか。その意図はドラマの中の主人公たちにも視聴者にも最後まで分からない。本作における、ある目的で集められた集団という設定は、群集劇の新しい在り方ともいえる。最初の参加者456人をドラマ内の群衆としてそのまま数えるならば、韓国ドラマ最大の集団ドラマとなる。ドラマの世界はSFと信じたいが、管理社会を象徴するようなフロントマン(一見、ゲームの主催者と思しき人物)は、見方を変えれば、さながら『一九八四年』(1949年 ジョージ・オーウェル)のビッグ・ブラザーの現代版のような人物である。

 5日間で5つのゲームをするのは、いずれも巨額の借金を背負い、人生の瀬戸際にいる者ばかりである。だが、人生の敗残者たちの単なる生存ゲームではないことが、見ている内に分かってくる。

 映像的に興味深いのは、誰もが指摘する、原色の色遣いの階段からなるゲーム機械の中のような構造を俯瞰で見せるところで、その中にいる人間はまるでゲームの中の歯車のように見える。さらに、ゲームの前に現金が積み重ねられていくのを実際に見せる場面も効果抜群で、金を取るか、命を取るか、という究極の選択が眼の前に差し出される。

「イカゲーム」の潜在テーマの一つである、現実の世界には希望がなく、ゲームの世界だけに希望があるというロジックには、単なる現実の反映以上の意味が込められていると見るべきだ。

 毎日の現実が地獄であるならば、ゲームであっても最後のチャンスに賭ける行為にはそれなりのリアリティがある。しかも、死を賭けたゲームには巨額の賞金が用意されている。だから、ゲームに参加しない人間は、まだそこまで追い詰められていないと言い換えることも出来るだろう。

 そもそも本作は、そういう境遇にない人種が見るドラマであるとの指摘がネット記事にあったが、これもまた一方の真実である。格差社会に苦しむ当事者だけではなく、そうでない層も視聴したからこそ、このドラマは世界的にヒットしたのではないか。

 参加者の過半数の同意があれば、ゲームは中断できるという不文律が最初に示される。途中の中止の提案で投票が開始され、実行・中止が半々となる。最後の老人が中止を選択することで、ゲームはいったん中断されるが、最後まで視聴すると、この中断が以降のストーリー展開の壮大な伏線となっていることが分かる。周到に考え抜かれた構想による脚本で、この構成の完成度には心底感服する。

 脚本が出来た時点でドラマの成功は約束されたようなものだが、現在ヒットしている事実からそう思うのであって、監督・脚本のファン・ドンヒョクは、映像化まで実に12年の歳月を要したという。

 ゲームには常に殺人が絡むという、ある意味反社会的な内容であり、現実の格差社会・競争社会の核心を衝きすぎているだけに、製作側が躊躇したのは無理もない。本当の本音、つまり真理そのものの露見は、辛すぎて実際には正視したくないものだ。だが、テレビ・映画で映像化できない題材が配信ドラマで可能になるのであれば、見たくない現実を暴く傾向が強くなるのは自明の理である。2020年代の映像の未来はその方向にしか見いだせない――監督はそう考えているのか。

 それにしても、警備員やフロントマンのマスク等のコスチュームは限りなく無機質で、中身が誰か分からない効果は本作の独創といっていい着想である。他の見どころとして、すべてのゲームを制覇した3人の正装による豪華な晩餐と、潜入した刑事の最後の顛末との対比は、映像のコンストラクトとして優れている。

 だが、「イカゲーム」の画期的な構想・見どころはそれだけではない。

 分析の前に、ゲーム参加者の主なキャラクター・演じた俳優について触れておこう。

主な登場人物と演じた俳優について

 まず、主人公ギフンを演じたイ・ジョンジェである。1972年生まれのキャリアの長い俳優だが、最初の当たり役は「砂時計」(1995年 SBS) の準主役への抜擢で、以後、テレビドラマ、映画と30年近くわたって主役級の存在を維持している。98年頃から、映画に活動の場を移し、「情事」(1998年)、「インタビュー」(1991年)、「イルマーレ」(2000年)、「ラストプレゼント」(2001年)等、韓国映画が日本に紹介された時期の作品に立て続けに出演していた。2019年の「補佐官」(JTBC)辺りからテレビに復帰、「イカゲーム」が久々のヒットとなったのは言うまでもない。

 それまでのキャリアの中でも一番情けない役柄にもかかわらず、俳優としての守備範囲の広さを感じさせる。例えば、「カルメ焼きの型取り」で、傘マークの裏をひたすら舐めることで型取りする必死のシーンは、何度見ても笑わせられる。というよりほとんど「恐怖の報酬」(1953年 フランス映画 監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)の世界で、死と隣り合わせの状況設定に背筋が寒くなること必至だ。この場面までは、特別、イ・ジョンジェでなければならない理由はそれほどないと思っていたが、この辺りから少し見直したというのが正直な感想だ。

 だが、ギフンの幼馴染のサンウ役は絶対にパク・ヘス(1981年生まれ)でなければならなかった。「刑務所のルールブック」(2017~18年 tvN)でクローズ・アップされてから、さほど色の付いていない状態でのキャスティングだったが、本作で俳優としての知名度を獲得したといっていいだろう。無表情のようで、それでいて野心を秘めているタイプで、役柄は思った以上に広いのではないか。ビー玉ゲームでパキスタン人を巧妙に騙す狡猾さは、ちょっと他の俳優では醸し出せない効果がある。家族ドラマに出たら、その得体の知れなさで、それこそ「異化効果」が起こること請け合いである。

 脱北者を演じる、笑うことを忘れているかのようなセビョク(チョン・ホヨン)の無感情の表情も捨てがたい。参加する前から人間感情を喪失しているようなキャラクターには最適の女優である。この無表情は意図的な演技なのか。

 女優陣の「当たり役」はもう1人いる。詐欺師で逮捕歴のある疲れた中年女(キム・ジュリョン)はこの手のドラマには必須の存在で、セビョクと対比させる人物設定としても冴えている。すべてを捨てたような振る舞いは絶品で、生活に疲れたというより、人生から逃避したものの、それでいてまだ未練のあるような女を演じて強い印象を残した。何とかして生き残ろうとする下心が透けて見えるところといい、本作の収穫の1人として挙げられると思う。

 そして、特筆すべきなのが、癌で余命わずかの老人を演じたオ・ヨンス(1944年生まれ)である(同名〈ハングル表記は違う〉の女優〈1971年生まれ〉もいる)。ドラマ内の老人役の設定(製作時76歳)は監督・脚本の極めて秀逸な発想で、この老人役の創出が本作の成功の一因だといっても過言ではない。人生の敗残者といえるような参加者の1人である老人がいるといないとでは、ドラマの色調は全く違ってくる。演劇出身の舞台キャリアの長い俳優で、テレビ出演は数えるほどだが、筆者がその存在を憶えたのは「善徳女王」(2009年 MBC)の僧侶役からだ。本作では、その独特の存在感が十分に活かされている。

 悪役としてのヤクザの参加はありそうな設定だ。閉鎖された世界で意味があるのはまず暴力であり、その存在としての脅威は、刑務所で同房となった場合と同じである。だが、本作ではあくまでもトリック・スターとしての役割であり、今まで悪役を多く演じてきた、俳優チョン・ドクスの好演をもってしても、ドラマ内では単なるヤクザという役柄に過ぎなかった。

 さらに、搾取された職場から逃げ出してきたパキスタン人がいる。出稼ぎの外国人という設定は極めて現実的で、同時代のリアリティを出すには抜群の配役である。

 もう一人、医療事故で医師免許を剥奪された元医師を演じるのが「SKYキャッスル」でも独特の存在感を示したユ・ソンジェだ。ゲームの最中に、警備員の内通者とともに臓器買売に加担する場面の猟奇的な感覚は、このドラマにはちょっと場違いのような気もするが、これも紛れもない韓国社会の一側面なのだろう。

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【注意!】以下、物語の核心に触れています。未見の方はお気をつけください。

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 最初の456人から最後は3人しか残らないという過酷な結末。だが、まだゲームは終わりではなかった。5つの死のゲームを制覇した後、残った3人を待っているのは何か。

 第8話辺りから、それまでのゲームをあたかも競馬のような賭けの対象として見ていたゲストたちが登場する。連中はさながら、「ソドムの百二十日」(マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』というより、パゾリーニが映画化した「ソドムの市」)の世界の支配者のようでもある。クラフト・エビングが『性的精神病理』(1886年)の中で提唱した「異常性欲」としてのサディズムの分類内の「淫楽を満たすためだけの殺人」の部分的な引用ではないかと筆者は推測している。言い換えるなら「殺人快楽」の現代的な発展形である。

 さらに、ゲームを賭けの対象として見ている動物の仮面を被った、富豪と思われる連中がいる。コリン・ウィルソンの『殺人百科』(共著、1961年)の例を引くまでもなく、古代ローマ時代より、殺し合いの格闘技を一種の娯楽として見る人種は常に存在する。ものの本によると、人類に残された最後の、最大の快楽とは性欲等ではなく「殺人」とのことで、また、その「殺人」――殺し合いを見ることだという。それは最大級の、至上にして最高の快楽であり、こうした古典的ともいえる定義を現代韓国社会に当てはめたアイデアが出色である。

 今まで見たことのない映像・創作物に遭遇した時、多くの視聴者・批評家たちが本能的に行うのは、自分の知識の中にある何かに関連付ける・紐付けることではないかと思う。それが行き過ぎると、何らかの影響下に位置づけられない未知の存在に対して不安になる。「イカゲーム」に関しては、日本のデス・ゲーム作品(「カイジ」「バトルロワイヤル」等)にヒントを得ていることが分かり、少し安心するという具合だ。

 だが、「イカゲーム」はそれだけでは片付けられない因子を有している作品である。構築されたドラマ世界の着想・アイデアの斬新さにおいて、脚本・監督のファン・ドンヒョクは、かなり常人離れした構想の持ち主といえるだろう。

 失踪した兄を追い、ゲームの実態を暴くために侵入した警官は、追い詰められたあげく、最後の対決を迎える。ずっとマスク姿だったフロントマンがここで正体を明らかにするのだが、これはまさに「!」であり、予想の付かないサプライズだった。

 これを明かすと、最後まで見る興趣を完全に削ぐことになるので避けておくが、この展開でまた謎が深まるという凝った構成になっており、フロントマンが正体を明かした時点で、続編を作らざるを得ない状況をあらかじめ仕組んでいたともいえる。

 フロントマンが何を考えているのかは一切説明されていない。この人物造形が一番異色なのだが、一体何の理由で、何の目的で、こういうことに従事しているのか。この謎の解明がすなわち、本作の全体構造を明らかにすることに直結する。つまるところ、ゲームを裏で操っているのは誰なのか。

 最終話「運のいい日」の時点で、456人が参加したゲームの賞金は積もり積もって456億ウォン(日本円で約43億)に達する(参加者1人が死ぬごとに1億ウォンが加算されていった結果)。その額が支払われるのは、最後に残った1人だけ。負傷したセビョクはサンウが無感情に殺害してしまい、残されたギウンとサンウによる最後の対決が始まる。

 最終ゲームは、韓国の子供には慣れ親しまれた「イカゲーム」だ。だが、ルールの踏襲はあるようでなく、どんな手を使っても構わない、どちらかが脱落するまで続く、死のゲームである。

 2人の勝敗の結果は敢えて書かないでおこう。ゲームは所詮、富豪たちの暇つぶしの遊びの一つで、ギフンたちは、競馬の馬でしかなかった。

 そして、1人残された勝者にまたしてもゲームの参加状が届く。訪ねていくと待っていたのは寝たきりの老人だった。老人は謎の告白を始めるが、これがわかるようでわからない話で、視聴者も混乱してしまう。この謎そのものが、続編への大きな布石となっていることは確実である。老人の予言は何を意味するのかわからず、この後の勝者の行動も含めて、結局、すべての謎が最後まで解明されないまま終わる。

 これほどの題材を映像で表現するには、映画という2時間の制約内では到底無理だろう。性的な場面はそれほどないものの、基本はいわゆる「殺人ゲーム」であるから、地上波のテレビ放送はまず考えられない。こういう過激な内容は、配信放送という手段ですべてクリアされるのかと思いきや、英国ではR-15の規制があったようだ。この内容ではある意味当然ともいえる措置である。

 世界的なヒットの後に問題視されるのはそういった部分である。地上波など一般放送では見られないドラマ映像の構築が配信ソフトの条件ではあるが、反社会的・過激な表現となるとやはり限界がある(ポルノは会員制の専門チャンネルで済む)。配信番組製作のこれからの課題の一つだろう。

 シーズン2は当然準備されているに違いない。その実現を阻むのは世界的な大ヒットによる俳優たちのギャラの高騰だと推察される。ギャラは十倍どころではなく、特に続編製作に不可欠な俳優たちは、視聴回数による歩合の加算も要求してくる可能性がある。そうした件も含め、おそらく本作は、「パラサイト」のアカデミー賞作品賞受賞を凌駕する、Kコンテンツの世界最大のヒットである。韓国ドラマは、内容・クオリティ・商業的成功の点で、遂にアメリカ・ドラマを超えたのか。

 かなりの意欲作であり、その商業的成功も認めるが、「イカゲーム」が韓国ドラマを代表する最高の作品という意見には若干の異論がある。これは筆者が韓国ドラマの基準をヒューマン・ドラマの側面に置いているからではない。「カイジ」「バトル・ロワイヤル」といったデス・ゲームを主題とした漫画・映画の体験のある日本人にとって、それほど新奇な題材ではなかったという前提があるからだ。

 そうであっても、ドラマの背後にある、韓国の閉塞感・格差社会の実態には日本でも共感する視聴者が多かったことは想像に難くない。日本でも同様の現実――非正規雇用等――がある。こうした共感が、韓国以外の、日本を始め世界中を席巻した根源的な原因なのではないか。

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「イカゲーム」の内容とは別に、もう一つの疑問が筆者にはある。

 映画館で上映されている映画、地上波テレビで放送されている無料のドラマとは別に、ネットメディアでは、テレビや映画館、DVDレンタルで見られないドラマ映像が毎日、世界中で視聴されている。考えてみれば奇妙な現象で、この二つの流れが並行しているのが二〇二〇年代の映像視聴環境である。

 現在、世界で話題のドラマ映像はネット配信作品に集中している。そうした映像がネット配信でしか見られない現状は、新しい時代の視聴環境を端的に証明している。にもかかわらず、いわゆる映画評論家と称する人種が映画だけを批評対象として、ネット配信映像に対して何の論評もしないのは、「ドラマ映像」の一面しか見ていないことになる、と言われても反論できないだろう。時代の変化に対応していないのは明らかである。

 すでにアカデミー賞ではネット配信作品のノミネートが可能となっている。そうした作品が受賞した瞬間、従来の「映画館で上映される『映画』」を支えていた「永遠の壁」は崩れるだろう。もはや時間の問題である。

 また、10年前の出版業界であれば、ネット配信作品に特化した専門雑誌が作られていただろう。そうした専門メディアでさえ、現在ではネット上のウェブマガジンという体裁を取ると思われる。映画雑誌の在り方と意義もずいぶん変容したものだ。そうだとしても、2020年代の映画専門雑誌の、例えば年間ベストテンにネット配信作品がノミネートされていないのはどう考えても解せない。専門部門を創設するぐらいの配慮をしない限り、映画館公開を前提として成立している「映画」の優位性を今後維持することは難しいのではないか。

 機を見るに敏な世界の映像関係者は、映画・テレビドラマからネット配信作品に活動の場を移しつつあり、日本でもその傾向は見て取れる。そうした止められない流れを何よりも雄弁に物語るのが、今回の「イカゲーム」の世界的な成功なのではないか。

 考えてみれば、ドラマの中のゲームは、別にシャレではなく、すべてある種の「異化作用」によるものばかりである。別世界の異化効果とでもいえばいいだろうか。

 本作「イカゲーム」によって、ブレヒトが提唱した、当たり前と思われる日常を非日常の未知の事象に変えるという「異化効果」「異化作用」と同様の理論――子供の遊びをデス・ゲームに置き換える着想――の映像化も実現した。まさにドラマ映像の「異化ゲーム」化である。

 最終回、セビョクの出棺・火葬の場面に「フライ・ミ―・トゥ・ザ・ムーン」が流れるが、なんと虚しく聴こえることだろう。これももう一つの意図的な「異化効果」なのだろうか。

2021年11月 藤脇邦夫

写真:Everett Collection/アフロ


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