見出し画像

戦車の隣を走り抜けて——市民生活を支えるウクライナのボランティア

 2023年2月24日、突如として始まったロシアのウクライナ侵攻。「首都キーウはすぐに陥落する」という各国の予想を覆し、ウクライナは今も徹底抗戦を続けています。戦いの趨勢は逐一報道され、ゼレンスキー大統領の一挙手一投足は注目の的です。他方で、ウクライナで今を生きる人々の声を聞く機会は少ないのではないでしょうか。強いられた地下壕での避難生活、ロシア軍による拉致・監禁、自宅近くに落ちるミサイル——。戦争で変わった日常に対して、彼らは何を感じて、日々をどう暮らしているのでしょうか。
 光文社新書7月新刊『戦時下のウクライナを歩く』は、そんな戦争の中で生きる人々の声を、ジャーナリストである岡野直さんが実際に現地に赴き、丁寧に掬い上げた記録となっています。本記事では、刊行を記念して第5章より一部を抜粋して公開。ウクライナにおけるボランティア活動の様子をご紹介します。

謎の女性、タチアナ・ハリコフさん

 私は、首都キーウからウクライナ北東部のハルキウ市へ向かおうとしていた。20世紀前半の一時期、首都だった歴史を持つ「ウクライナ第二の都」である。その目的は、行政が十分機能しない中、戦時下の市民を支えているボランティアたちに会うためだった。

 知人の紹介で、現地の案内役をハルキウ在住の女性ボランティアが引き受けてくれた。SNSで連絡を取ると、アカウント名には「タチアナ・ハリコフ」と表示された。ハリコフはハルキウのロシア語読み、タチアナもウクライナでは最もよくある女性名で、日本語でいえば「大阪花子」ということだ。明らかに偽名である。ハリコフとロシア語の表記を使っているのは、ハルキウがそもそもロシア語話者の多い地域だからだろう。

 さらに、SNSでの連絡のみでは何者かよく分からなかったので電話をかけると、ハリコフさんは短い言葉を鉄砲玉のように繰り出し、「駅に迎えに行きます。到着時間は? 到着ホームは?」と矢継ぎ早に質問してきた。偽名らしき名前とせわしない口調に不安が募ったが、「乗りかかった舟」だと思い、そのまま彼女に案内を依頼し、ハルキウ行きの列車に乗った。

 だが、私が席を予約していた特急は運休となった。乗ったのは代替の古びた鈍行の寝台列車。座席で向き合った50歳くらいのウクライナ人女性に理由を尋ねると、「ロシアがミサイルで鉄道の施設を攻撃したからですよ」と言う。ハリコフさんにはSNSで遅れる旨を伝えた。すると、返ってきたのは次のようなメッセージだった。

「OK。タチアナ・ハリコフ(の名)は、駅員なら誰でも知っている。名を駅で告げれば(改札から)外に出られる」

駅で本人は顔パスということらしいが、いまいち信用できない。停車する電車の中で不安ばかりが膨らんでいった。

迎えにきたのは救急車

 10時間ほど列車に揺られると、ようやくハルキウ駅に着いた。時刻は午前1時をすぎている。乗客の人の流れに身をまかせ、とりあえず駅の出口まで行ってみる。すると、出口の柵の外から「タダシですか?」と私のファーストネームを呼ぶ声がした。20代の若いウクライナ人男性がニコニコ笑いながら立っている。白い歯を見せるさわやかな彼にハリコフさんとの関係を尋ねると、「息子です。あなたをホテルまで送ります」との答えが返ってきた。
駅前の通りには、救急車が駐車してあった。私はその助手席に乗せられた。なぜ救急車なのか気になって尋ねてみると、欧州のボランティア団体を通じ外国製のものを払い下げてもらったらしい。

「救急車」はパトロール中の警察車両を次々追い越していった。警察は我々の車に気づくと、レーンの脇に避けていく。「救急車」はサイレンこそ鳴らさないが、すごい速度だ。車体には大きな文字でボランティア団体の名前が書いてあり、本来の救急車とは違うことが分かるはずだが、それでもパトカーは道を譲る。そしてホテルには思ったより早く着いた。

この町では、ボランティアがかなりの力を持っているようだった。それはなぜなのか。

新たな疑問がわいてきた。

ハリコフさんの正体

翌朝、宿泊先の玄関前に大型ワゴン車が停まり、「ハリコフさん」が降りてきた。「ガーリャ・ハルラモワです」と本名を名乗った。よく微笑む、明るい感じの40代の女性だ。

寄付した衣服を手にするガーリャ・ハルラモワさん(写真:岡野直)。

 彼女のスマホは数分おきに鳴る。市民からの支援要請らしく、てきぱき自らの事務所に伝えて処理する。私がキーウから彼女のスマホにかけた時、長話せずに切っていたその理由が、これで分かった。ボランティアの支援活動で忙しかったのだ。

 スマホで仮名を使う理由はあえて尋ねなかった。ロシアとの国境に近い市であり、国境の向こうにはロシア軍の一大拠点がある。ロシア人や親ロシア派のスパイが市内に潜伏している可能性が高いことは容易に想像がつく。スマホをトレース(盗聴・盗視)されることを警戒してのことだろう。

 彼女は「人道支援センター・ボランティア68」という団体の代表だった。建設会社の幹部社員だったが、ロシアの侵攻後にボランティアに転身した。ロシアから40キロのこの町では砲撃が激しくて、学校はすべて閉鎖されている(授業はオンライン)。そこで、閉校中のハルキウ市立第68小学校の空き教室を借り、ガーリャさんは事務所兼倉庫を構えた。「68」はその学校名にちなんだ。

 最初は閉校中の第35小学校へ入居する予定だったそうだ。ガーリャさんは、私をそこへ連れて行ってくれた。ところが、学校はロシアの攻撃で大部分が瓦礫となっていた。

最初の事務所候補地であった市立第35小学校。完全に破壊されていた(写真:岡野直)。

「第35小学校は3月5日に視察しました。でも、近くに工場がある。それがロシアのターゲットになって巻き添えを食うかもと思い、第68小学校に変えたのです。変えていなければ、私は死んでいました」

 彼女の予測通り視察から10日後の3月15日に、第35小学校はロシア軍に砲撃された。その5日前に行われたゼレンスキー大統領の演説は、小学校破壊を示唆するかのような内容である。

我々のハルキウは今、第2次世界大戦以降で最悪の苦しみにさらされている。サルチフカ、アレクセエフカ(中略)我々はすべて再建する。私は約束する。ハルキウ市民が、ウクライナが、彼らのそばにいると(感じられるようにすると)いうことを。

(2022年3月10日 ウクライナ大統領府HPより)

 サルチフカ、アレクセエフカはハルキウにある住宅街のことだ。ロシア軍の攻撃によって公共施設も軒並み破壊された。大統領はその名も列挙した。州立小児病院、ハルキウがんセンター、コロレンコ図書館、自由広場、カラジン大学。大統領が挙げたのはここまでだが、その他工場や企業も破壊されているのを私は目撃した。

 私は、そのうちハルキウ市サルチフカ区を、ガーリャさんとその知り合いの市職員の案内で訪ねた。私たちは小学校と幼稚園を中心にめぐった。この市職員は学校の穴の開いた天井を指さし、「これはロシアの〇〇ミサイルで開いた穴」「これは△△ミサイル」と教えてくれる。ロシアのミサイル名が穴の大きさで判別できるらしい。ロシアの攻撃は身近なものになってしまっていた。

 穴の下に子供がいたかどうかは、かわいそうすぎて、ガーリャさんたちに聞くのは憚られた。多くの教室は、内部が崩れて天井の破片が床に散乱していたり、教室全体が崩壊して瓦礫の山と化していた。

ロシアのミサイル攻撃によって破壊された小学校。天井には穴が空いている(写真:岡野直)。
別の学校では、教室だった焼け焦げた部屋の中で、
机を固定するパイプだけが地面から突き出していた(写真:岡野直)。

やまない砲撃の中で支援物資を配る

ハルキウでは、崩れていない高層住宅にも命の危機が迫った。お年寄りや身体障害者が高層階に取り残されたのだ。ロシアの砲撃により停電が発生したことでエレベーターが止まり、階段の上り下りができない彼らは部屋に閉じ込められた。頼りの子や孫は、他都市や外国へ避難していなくなった。

「食べ物がないの。助けて」

2月25日、ガーリャさんのスマホが鳴った。ロシアの侵攻の翌日、知り合いのお年寄りからだった。ドォーン、ドォーン。外はロシアの砲撃音が鳴り響く。その中で車を運転しながら、ガーリャさんは夫や息子たちと食料や水を配り始めた。この日のコールは数件だった。しかし、3月に入ると、ガーリャさんの活動は口コミで広まって、1日に300~400件のSOSが寄せられるように。取り残された人々の悲鳴が波のように押し寄せてきた。

ロシアの侵攻後、ガーリャさんのような市民数百人がハルキウでボランティアとしてそれぞれに立ち上がった。こうした活動は首都の大統領府の耳にも入ったはずだ。だから、ゼレンスキー大統領もガーリャさんが活動を開始した2週間後、演説で「ハルキウ市民」に寄り添う発言をしたのだろう。

そのハルキウで被害が一番大きいサルチフカ区の第68小学校に、先述の通りガーリャさんは、事務所を構えて受付のデスクを置いた。そこは、スマホを持つ5~6人が座り、支援を求める人から電話を受けるコールセンターだ。そうした人々のリストは6000人にものぼった。その半分の3000人が70歳以上のお年寄り、残り3000人が寝たきりの人や歩行が困難な障害者だという。

彼らを助けるための資金は寄付に頼る。運搬用の大型バンも受け取った。支援物資の段ボールの側面には、ガーリャさんへの励ましの言葉もあった。

「善い心の人の手に、善い味を」

2022年9月からは、こんな言葉が書かれた段ボール箱が「ボランティア68」に次々運び込まれるようになった。箱の中身はパン。週に1回、キーウの某パン屋さんが2000~3000個のパンを寄付し始めたのだ。

ボランティア68の事務所に、キーウのベーカリーからパンが届いた(写真:岡野直)。

砲撃でガスを使えなくなった家には、こうしたパンやコーンフレークといった調理不要の食べ物を、ガスを使える家にはインスタント麺も配る。そのほか、水のペットボトルやお年寄り用おむつ、薬、車いす、足の不自由な人向けの歩行器も求めに応じて届けている。物資は国内のより安全な西部の町リビウや欧州諸国から届くという。

「母乳の出なくなった若い母親も支援します。それは砲撃音を聞いて、ストレスを受けているせいです。彼女らは新生児に授乳できないでいます。彼女たちにミルクのほか、おしめ、着ぐるみをパッケージした包みを渡しています」

これらをなぜ、政府や自治体ではなく、ボランティアが配るようになったのか。

「市役所は機能していません。市役所の職員が、ロシアの砲撃中に歩いて集合住宅を回れると思いますか?彼らには交通手段がないんです。だから私たちが専用のバンで配っているんです」

ボランティアの勇気はどこからくるのだろう。自分の身も危ないではないか。そう聞くと、シンプルな、だが深刻な答えがガーリャさんの隣に立っていた男性スタッフから返ってきた。

「だって、仕方ないでしょう。助けを求める人がいるのだから。運次第です。運が悪ければ、どうしようもありません」

運とは、砲弾が着弾した時に、弾本体や飛び散った破片が自分の体に「当たるか」「外れるか」にかかっているということだ。破片は大小さまざまで、ミサイルの種類によっては数十メートルの距離まで広がる。私が市内のある民間病院を訪ねると、そこに勤務する外科医のイワン・フェドロフ医師は、自分で拾った実物の金属片を見せてくれた。幅は10センチ近く、長さも40センチほどある。これは大きい。当たれば助からないな。私は心の中でそうつぶやいた。

ハルキウ市を襲ったロシアのミサイルの破片。左手に大きな破片、右手に比較的小さな破片を持っている。いずれも体を直撃すれば、命はまず助からない(写真:岡野直)。

「勇敢なボランティアの支援がなければ、この病院は成り立ちません。物資を持ってきてくれるのです。公的支援が1割、ボランティアからが9割というところでしょう」

砲弾の破片を手にフェドロフ医師は、こう感謝の言葉を述べた。

9割はおおげさかもしれない。ただ、そうだとしても病院の医師による、このボランティアの讃えようには、国や自治体の財政は厳しいと思わざるをえなかった。本来医療は、国や自治体が支援すべき仕事なのだから。

ハルキウの市民生活はこうして、命知らずの勇敢なボランティアが崖っぷちのところで支えていた。

ボランティア68から支援物資を受け取り、喜ぶお年寄り(写真:ガーリャさん提供)。

地下生活者の暮らしも支える

戦争が長引くにつれて、市民の中には何カ月も「地下生活」を続ける人が出てきた。

ガーリャさんは、私を集合住宅の地下の避難壕で暮らす人々のもとに連れて行ってくれた。砲撃が恐ろしくて、上の階にある自宅へは戻れない。そうした住民がこの団地に100人余り、十数室ある巨大な地下壕で暮らしていた。そのうちの一人の女性が、感極まった様子で話し始めた。

「戦車が街路を走っているのに、その間を車ですり抜けて、支援物資を運んできてくれた。ガーリャさんに会うたび、『勇敢』という言葉しか心に浮かびません」

別の50代の女性の住む地下室は、つつましいものだ。3畳ほどの部屋にマットレスが一つ、むき出しの土の上にある。そこに孫を寝かせ、自分たち大人は地面に座ったまま夜を明かす。家具は小さなタンスが一つあるだけ。私が許可を得て開けてみると、中には薬やトイレットペーパーが入っていた。

トイレは、2月のロシアの侵攻以降、住民がそれぞれの部屋でバケツや盥たらいを使ってしのいでいた。6月に入って、キリスト教系のボランティア団体により、部屋の一つに白い便器を備え、トイレ室が作られた。そこは、この地下壕に住む住人の共同トイレとなり、衛生状態は少しよくなったという。

マットレスを置いただけの地下壕。
ここには孫が寝て、大人はそのそばで眠るという(写真:岡野直)。

子供の教育も、地下に〝小学校〟を作り、改善した。ボランティア68の支援を受ける住民の一人、30代の母親マリーナさんが、地下の10畳ほどの部屋に四角いテーブルとベンチ、そしてWi-Fiを置いたのだ。そこには毎朝、数人の小学生が集まる。そして、国内外に住むウクライナ人教師が遠隔で算数や国語などを教える。スマホを手にした子供たちは、画面の先生の言葉に耳を傾け、先生の質問にもスマホで答えるという。

地下生活者が集合団地の地下壕に作った小学校。
小学生たちがここに集まり、それぞれスマホを手に遠隔授業を受ける。
写真右の女性は学校を作った一人である母親のマリーナさん(写真:岡野直)。

この集合住宅には、砲撃を恐れて子供を24時間ずっと地下室にこもらせる母親もいた。マリーナさんもその一人だった。日の光は浴びられない。寝る時は横になれない。それでも、母親たちがハルキウを離れないのはなぜか。マリーナさんはその理由を教えてくれた。

「夫は軍人で、今前線で戦っています。その彼を残して、妻の私と子供だけで外国へ逃げるなんてできません。彼と同じ国、ウクライナにいたいのです」

ウクライナの北東の端にあるハルキウはロシア国境に近く、砲撃はやまない。こうした地上に出られない親子の暮らしも、物資を運ぶボランティア抜きには考えられないのである。

※以上、「第5章 ボランティアが支える市民生活」より抜粋して再構成。取材相手の名前は、安全確保のために仮名にしている場合があります。

目次

まえがき
第1章:立ち上がる人、逃れる人
  ——キーウ首都防衛戦の中で
第2章:占領下の町で何があったのか
  ——拷問され、遺体となった友人
第3章:消滅した50万人都市
  ——そこでは何が起きたのか
第4章:文化と言語をめぐる戦い
  ——バイリンガル社会のゆくえ
第5章:ボランティアが支える市民生活
  ——助け合いの絆を断たないために
第6章:戦争の前線に立つ市民
  ——彼らはなんのために戦うのか
第7章:キーウの豊かな生活の裏で
  ——ミサイルが落ちてくる日常
第8章:市民が語るゼレンスキー大統領
  ——ウクライナを1つにしたもの
あとがき

より詳しい目次はこちらをどうぞ

著者プロフィール

岡野直(おかのただし)
1960年、北海道生まれ。東京外国語大学ロシア語学科卒業。’85年、朝日新聞社入社。プーシキン・ロシア語大学(モスクワ)に留学後、朝日新聞西部本社社会部を経て、東京社会部で基地問題や自衛隊・米軍を取材。シンガポール特派員の経験もあり、ルワンダ虐殺、東ティモール紛争、アフガニスタン戦争など、紛争地取材の経験も多い。2021年からフリー。全国通訳案内士(ロシア語)。関心はウクライナ、ロシア、観光、文学。今回が初の単著。共著には『自衛隊——知られざる変容』(朝日新聞社)がある。

この記事が参加している募集

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!