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哲学にとっては2000年以上のテーマーー「友情」について考えた哲学者をたどる|戸谷洋志

 そもそも「友達」という人間関係は何なのか。家族や恋人という関係と比べても、それはきわめてあいまいで、不安定な要素をはらんでいます。
 本書は、2000年以上かけて考えられてきた「友情」について、代表的な哲学者の思想を挙げてたどっていきます。その際、その哲学が現代にどのように表れているかの例として、人気の漫画作品を引用してみました。哲学者の友情観と、漫画が描く友情がどのように交差するか――ぜひご一読いただければと思います。
 発売を機に、以下に「プロローグ」目次を公開します。「友情」という関係の多様さと、そこから生まれる豊かさの一端に触れていただければ幸いです。

プロローグ

漫画家である尾田栄一郎の代表作に、『ONE PIECE』がある。一九九七年から連載が開始され、爆発的なヒット作品となったことで知られている。現在、史上最高の累計発行部数を記録している。

『ONE PIECE』は、海賊たちが覇権を争う、架空の世界を舞台にした物語だ。単行本の一巻において、主人公のモンキー・D・ルフィは、世界のどこかに隠された財宝を手に入れ、「海賊王」の称号を得るために、旗揚げをする。

小舟で一人、村を出たルフィは、ある島でコビーという名の少年と出会う。その島を占拠していた海賊団の雑用を強制されていた彼は、将来は海軍に入り、世界平和に寄与したいという夢を抱いていた。海軍とは、この物語の世界における、国際的な治安維持組織であり、海賊にとっては敵対的な勢力だ。

コビーは、気弱な性格のために海賊団を抜け出せずにいた。そんな彼に対して、ルフィは、自分が「海賊王」を目指していること、そのためなら死んでも構わないという、自らの覚悟を語る。それを聞いたコビーは触発され、自分も夢のために戦うことを決意する。彼は、自分を拘束している海賊たちに反旗を翻し、ルフィとともに島を脱出することに成功する。

しかし、海賊王を目指すルフィと、海軍将校を目指すコビーが、旅をともにすることはできない。コビーは、次に訪れた島で海軍に入隊することを決め、ルフィと別れることになる。彼はルフィに対して、「ぼくらは…‼ つきあいは短いけど 友達ですよね!!!!」と問う。それに対して、ルフィは次のように返答する。

ああ 別れちゃうけどな
ずっと友達だ

その言葉を聞いたコビーは、ルフィに友達として認められたことへの想いを語る。

ぼくは…小さい頃からろくに友達なんていなくて…ましてや
僕のために戦ってくれる人なんて絶対いませんでした
何よりぼくが戦おうとしなかったから…‼

ルフィとコビーは友達になった。それは、コビーが自分の意志をもって、自分の夢のために戦おうとしたからだ。

こうしたルフィとその周りの人々との関係のあり方は、その後の物語で何度も繰り返し描かれる。行く先々で、強者によって支配されている人、虐 げられている人、自由を奪われている人々が登場する。しかし、ルフィはそうした人々を、単なる被害者として助けるのではなく、そうした人々が自らの意志で強者と立ち向かうとき、そうした人々と「友達」になり、共闘する。彼はしばしば、自分の言葉ではっきりと決意を語らせようとする。それは、彼が何よりも、自分の意志で行為することを、すなわち自律的であることを重視しているからだ。

社会学者の古市憲寿によれば、『ONE PIECE』は今日の若者にとって一つの「現代版聖書」である。そうであるとしたら、こうした友情観が、すなわち自分の意志で行為する者同士が交わす、対等な人間関係が、今日の若者にとって友情の理想なのかも知れない。少なくとも、若者として『ONE PIECE』に親しんできた読者の一人である筆者には、その感覚がよくわかる。

ルフィとコビーは、いったい何をもって友達であるのだろうか。互いに別の道を歩み、いつかは敵対するだろう二人の友情の絆は、どこにあるのだろうか。おそらくそれは、ともに共通の敵と戦った、という経験だろう。互いに命を預け、同じ目標のために、強敵に挑んだ。その経験を共有しているということが、二人の友情のつながりになっているのだろう。

しかし現実の友情には、そうしたわかりやすいつながりが、ほとんど存在しない。社会学者の石田光規によれば、そもそも友情という関係性は、友達同士が互いに寄せ合う感情だけを支えにして、成立する。互いに相手を友達として認めることだけが、友情を成り立たせる。だからこそ、「友人関係は非常に曖昧かつ不安定なもの」であり、「関係の存在を視覚的に確認する手段を欠いて」いるのである。

それゆえ私たちは、相手との友情を維持したいと思うとき、相手から自分が友達として認められているのかを意識する。友達からどう思われているのかを気にしてしまう。ほんのわずかでも、嫌われているのではないか、という疑いが生じれば、その不安に脅かされ、飲み込まれてしまう。

日本の若者のQOLにおいて友情が占める重要性の割合は、他の世代と比較しても、他の国と比較しても、突出して高いという。若者は友達といれば幸福を感じられる。しかしそれは、裏を返せば、友達がいなければそれだけ不幸になる、ということでもある。だからこそ、友達を失うこと、友達の輪から排除されることは、若者にとって深刻な脅威になる。

そうである以上、友達同士が衝突を回避し、互いに「空気を読む」ようになるのは、当然のことだろう。そのようにして私たちは、友達として自然な振る舞いをし、友達の規範から逸脱せず、相手から白い目で見られないように、細心の注意を払うようになるのである。

しかし、そうした規範は曖昧である。何をしていれば友達として認められ、何をしてしまったら友達であることを否認されるのか、その細則はどこにも明文化されていない。だからこそそれは「空気」なのだ。時々、逸脱的な言動をする者が現れると、まるで晒し者にするように、その人は「空気を読めない」者として友達の輪から排除される。それは半ば公開処刑のようなものである。そしてその光景が、自分はああはなりたくないと、「空気を読む」ことへの同調圧力をさらに強化する。

社会学者の土井隆義は、若者の間に蔓延する、こうした空気を読み合う友情のあり方を、「友だち地獄」と呼んだ。そこにあるのは、ルフィが交わす友情とは似ても似つかない、閉塞感に満ちた関係である。人々は、互いに相手から自分がどう思われているのかを気にし、「空気を読めない」と制裁されることを恐れ、目立った行動をしないように立ち回る。すべての言動は「空気」の支配下に置かれる。率直に意見を言うことなどできないし、まして、友達と衝突することもできない。もし友達と衝突するとしたら、それはもはや、その友情が終わることを覚悟しなければならない。しかし友達を失うことは途方もない不幸の訪れを意味するのである。そのように「空気」に依存する友情は、明らかに他律的である。

ここには二つの友情の形がある。一方において、『ONE PIECE』に代表されるような、自律的な人間同士の友情がある。他方において、「友だち地獄」と評されるような、他律的な「空気」に支配された友情がある。前者が友情の理想であり、後者がその現実である。現代の若者はその狭間で引き裂かれているのかも知れない。そしてそれが、友情を面倒なものにしたり、息苦しいものにしたりしているのかも知れない。

しばしば、そんなにも息苦しいのならば、友情なんか重視しなくていい、友達との関係なんか放棄してしまえばいい、と論じられることもある。たしかにそれも一つの考え方だろう。友達がいない人生だって、きっと幸福に満ちたものでありえるだろう。

しかし筆者はこうした議論にあまり魅力を感じない。なぜならそれは、友情が必然的に息苦しいものになること、欺瞞に陥る関係性であることを、むしろ肯定することになるからだ。それは友情の可能性を自ら矮小化し、過小評価することのように思える。

むしろ私たちが問い直すべきなのは、本当にそれだけが友情のあり方なのか、それとは別の友情もありえるのではないか、何よりもそれ以前に、そもそも友情とは何か、ということではないだろうか。

友達関係は、互いが友情を認め合うことで成立する。そうであるとすれば、互いが友情をどのように定義しているのか、友情をどのように理解しているのかによって、その関係性はまったく違ったものになるはずだ。そして、そうした友情の概念が一つに限定されなければならない理由なんてない。そこには多様な友情の可能性を認めることもできるはずだ。

ある友情が、私たちに息苦しさをもたらすものであったとしても、それだけが唯一の友情のあり方であるとは限らない。別の角度から友情を理解できるようになれば、私たちは友達との関係を新しい形で理解し、そこに今まで気づくことのなかった何かを見出せるかも知れない。友情に新たな可能性を、新たな価値を認められるようになるかも知れない。

『ONE PIECE』に描かれているような、自律的な個人間の友情も、一つの友情の概念である。そこに示されているのは、互いが揺らぐことのない自分の信念を持っていて、仲間からどう思われるかを気にすることなく、率直に意見をぶつけ合える関係だ。もちろん、そんな関係が築けたら素晴らしい。しかし、それが最高の友情とは限らない。それだけが友情であるとは限らないのだ。

友情とは何か。それは一つの哲学的な探求である。実際に、過去の偉大な哲学者たちは、私たちよりもはるかに多様に、豊かに、奇抜な仕方で友情を論じてきた。そこには私たちのまだ知らない、あるいは忘れ去ってしまった、豊穣な友情の可能性が眠っている。

そうした英知を探訪しながら、友情の概念を問い直し、単純化された理想像を相対化すること。それによって友情を新しい光のもとで眺めること。

それが本書のテーマである。

※この後、第一章からアリストテレス、カント、ニーチェ、ヴェイユ、ボーヴォワール、フーコー、マッキンタイアと7人の哲学者の友情観について考えます。以下の目次もご参照ください!

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目次

著者略歴

戸谷洋志(とやひろし)
1988年、東京都生まれ。関西外国語大学准教授。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。主な著書に、『スマートな悪──技術と暴力について』(講談社)、『原子力の哲学』(集英社新書)、『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『Jポップで考える哲学──自分を問い直すための15曲』(講談社文庫)がある。共著に、『僕らの哲学的対話──棋士と哲学者』(イースト・プレス)、『漂泊のアーレント 戦場のヨナス──ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』(慶應義塾大学出版会)。近刊に、『未来倫理』(集英社新書)がある。

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