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映画やアニメの中の仮想現実―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史

2章① 仮想現実の歴史

光文社新書編集部の三宅です。岡嶋裕史さんのメタバース連載の続きです。「1章 フォートナイトの衝撃」に続き、「2章 仮想現実の歴史」を数回に分けて掲載します。仮想現実(≒メタバース)の歴史をたどることで、メタバースへの理解を深めていきましょう。

下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。

サブカルチャーは炭鉱のカナリア

 1章でフォートナイトを巡って、いま起きていることを詳述した。私は仮想現実の世界に大きな変化が生じており、フォートナイトの一件はその胎動が目に見える形で現れた例だと考えているが、腑に落ちない人も多いだろう。

 フォートナイトは仮想現実やゲーマーにとってはビッグタイトルであり、共有されたインフラでもあるが、リアルを生きる人にとってはふだんの生活に何の関係もない架空の出来事である。実感しろと言うほうがおかしい。

 そこで、2章ではもう少しリアルな社会に近づけて、これまでに制作されてきた映画やアニメから仮想現実の萌芽を拾っていきたい。

 この種の試みを行うとき、サブカルチャーは重要な意味を持つ。サブカルチャーはそもそもハイカルチャーやメインカルチャーに対するカウンターであり、弱者文学である。身も蓋もない言い方をしてしまえば、私のようにスクールカーストの下位に位置する利用者が消費しがちなコンテンツである。

 そのため、サブカルチャーは炭鉱のカナリアになる。

 ハイカルチャーを嗜む層は社会の主流を構成する。スクールカーストで言えば上位者だ。ここに属する人は、社会の変化に対処できるだけの資質や才能、資源を持っている。だから生活は安定しているし、そこから導かれる趣味嗜好もそうなる。

 しかし弱者文学であるサブカルチャーの消費層は、社会に変化が生じたとき最初にその波を被る層であり、その大波に対処するすべが相対的に乏しい特徴を持つ。したがって、社会の変化に敏感で、そこに恐れを持ち、その気分が消費するコンテンツにも反映される。

 グローバリゼーションによって人々の活発な交流が促進されると他者の恐怖を描く作品が量産され、ポストモダン化でコミュニケーションのコストが高まると引きこもりを肯定してくれる作品が作られる。家族の解体が進むと、現実ではあり得ないほど仲の良い家族や疑似家族による幸せな食事のシーンが有意に増える。利用者はこれらを消費することで無聊を慰めたり、これからやってくる現実をシミュレーションして衝撃を緩和する。

 だから、これから紹介する作品群もサブカルチャーを多分に含んでいる。興味のない方も少しだけお付き合いいただきたい。

電脳コイル(2007年)

 ウェアラブルデバイスが生活必需品として普及した世界を描いている。たとえば、「ペットを飼う」のはそれが好きな人にとっては、人生の価値を左右するほどの大事業である。でも、なかなか気楽にペットを飼えなくなっているのもまた事実だ。ペットの権利拡大にともなう同伴自由の飲食店などが増える反面、人の生き方の多様化はペットに対するクレームも増大させた。ペットのお世話をするための費用も逓増し続けていて、近年の猫人気は「犬よりも低廉な費用で飼える」ことも一因だとされている。

 こうしたフリクションはリアルな世界だから起こるのであって、それが嫌ならば仮想現実で飼育すればよいと発想するのは自然なことである。もちろん、「生きものを迎えてお世話するのは、フリクションも含めた体験であって、そこから良いところだけを切り出して仮想現実で再現するのはペットではないし、健全でもない」という批判はあるだろう。

 だが、それこそ富める者や恵まれた者の言い分であるかもしれない。そんなことは百も承知の上でペットを飼うことが望めない人たちもいるのだ。

 電脳コイルは、リアルに仮想世界を重ねる「拡張現実:AR」型の仮想現実を志向した社会を描いている。そこで暮らす人々は電脳メガネをかけていて、私たちのスマホのようにこれをファーストスクリーンとしている。学校での授業も、会社でも仕事も、日々の暮らしでもまずはここにアクセスして情報を得る。

 電脳メガネはあらゆるサービスへのインタフェースだが、アプリケーションの一つに電脳ペットがある。まさに利用者にしか見えない、仮想ペット機能を提供する。メガネを通してサービスが提供されるので、利用者はメガネをかけている限りいつでもペットにアクセス可能だが、周りの人にはわからない。したがって、迷惑をかけて怒られる可能性は皆無である。そのままだと、たとえば他の人と同じペットを見てかわいいと感想を言うことや、一緒に遊ぶことができないが、そうしたければ求める人にだけペットを共有すればいい。

 極めて現代的で、いまのニーズに合致したサービスだ。実装されれば、そのインフラのキラーアプリケーションになるポテンシャルすら持つと思う。ペットを機能に切り分けることは邪道かもしれないが、お世話したい欲を満たす機能、様子を見て目を細めたい機能、五感で触れて癒やされたい機能は十分に提供されている。

Aquazone、Gatebox

 私たちはこうした「都合の良い」「人に迷惑をかけない」ペットを求め続けていたのかもしれない。パーソナルコンピュータの黎明期から、こうした試みはあった。

 Aquazoneは1990年代前半に登場したソフトウェアである。まだインターネット接続すら珍しかった時代から、こうした試みはあった。熱帯魚を飼うのは手間と費用がかかる趣味だが、それをシミュレートするのである。

 単なる観賞用の動く壁紙ではなく、それなりにきちんと熱帯魚の飼育を模倣するものだった。お世話を怠ったり、温度設定を間違えたりすると、熱帯魚たちは容易に死んでしまう。

「欲しい体験の実現」はペットに留まらない。「配偶者から得られる癒やし」をテーマにしたGateboxの初期ロットが発売されたのは、2016年のことである。

 これも、リアルな配偶者から都合の良い機能だけを切り出したサービスである。リアルの配偶者から得られる効用が癒やしだけのはずはなく、配偶者を得れば相応の責任やコストも漏れなくのしかかってくる。それを回避して、癒やしだけを切り取るのがGateboxである。多くの人にとっては噴飯もののサービスかもしれない。配偶者はそんなに都合のいい存在ではない。しかし、このサービスの利用者もそれは十分に理解している。その上でやはり配偶者を得るための資質や資金がなかったり、社会通念上このくらいは配偶者に割くべきであると考えられているリソースを割く気がないから選択している。もちろん、リアルの異性より二次元の異性が好きだから、という理由もある。

 それを責めるわけにはいかないだろう。いくら社会通念からはみ出していたとしても、異性との付き合い方をどうするかは個人の自己決定の範疇だ。むしろ、配偶者に癒やししか求めないのであれば、現実の異性と付き合わない態度は誠実ですらあるかもしれない。Gateboxであれば、そうした人に振り回される現実の異性は存在しないのだ。

SAO(ソードアート・オンライン:2012年)

 SAOは仮想現実内でのゲームをモチーフにした作品である。この世界で仮想現実にアクセスするためのデバイスはHMD(ヘッドマウントディスプレイ)で、私たちもすぐに触れることができるオキュラスクエストなどをイメージしていただくといいと思う。作品内のHMDはクエストよりもだいぶ進歩していて、リアルの五感を遮断して完全な仮想現実に没入することができるようになっている。

 最初のクールのシナリオでは、仮想現実に没入したままリアルへ還ってくること(ログアウト)ができなくなるアクシデントが起き、ゲームをプレイしていた利用者らは数年の単位を仮想現実内で過ごすことになった。この作品は人はそういう風に生きられるのか、なぜリアルよりも仮想現実のほうがいいのかを考える思考実験でもある。

 利用者は事故によって仮想現実内に閉じ込められるわけだが、事故に遭う前から仮想現実に入り浸っていた利用者も描写される。彼らの仮想現実を好む動機はさまざまだが、リアルで満たされていないという思いは共通している。

『よふかしのうた』に、人が夜更かしをするのは今日に満足していないから、というくだりがあるが、SAOでも、そしていま私たちが生きているリアルでも、人はリアルに満足していないから仮想現実に潜るのである。


 それを現実逃避と考えると虚しい。だが、仮想現実を構成する技術が洗練され、仮想現実がリアルと同じだけの情報の質と量を持ち始めると、様子は少し変わってくる。

 それは生きるに値するだけのきちんとした世界ではないのか? ファンタジーに浸るなと言われるが、それをいう人は「日本のものづくりは素晴らしい」といった現実離れしたファンタジーに浸っているのではないのか? まして、世界的な感染症の流行で、リアルな世界での移動や協動の困難を経験したいま、仮想世界にまったく触れることなく生きるのはリスクの高い現実依存症ではないのか? リアルな世界だけにどっぷりつかるのではなく、仮想現実も利用してバランス良く生きるべきではないのか?

 そんなことを考えさせる作品である。

リセットされる、リアルで固定化された格差

 実際、もしも多くの人が体感している通り、リアルの政治や社会が機能不全を起こし、格差が拡大・固定化され、個人主義の浸透が各種の配慮の必要性を生むことでコミュニケーションコストを高騰させ、逆に個人が生きづらい世の中が到来しているのであれば、リアルなどという最初から持てる者だけが勝つことを約束されたゲームから降りて、仮想現実で生きていくのはあり得る選択肢である。

 人間が物理的な実体を持つ生きものである以上、食餌や排泄はリアルの手を借りなければならないが、それ以外の要素は技術開発でほとんど補うことができるようになるだろう。お金がなくて希望する職業につくことができないなら、仮想現実ではその職業に。ルッキズムで苦しんでいるのであれば、仮想現実では美しい容姿になるのである。

 実際、後述する仮想価値などを活用すれば、仮想現実内で仕事に従事し、生きていくための対価(仮想現実内の通貨でも、リアルの通貨でも)を得ることは可能である。また、これはリアルと仮想現実を越境させた事例だが、eスポーツのレースカテゴリで優秀な成績を修めた者が、リアルのカーレースでデビューした事例もある。

 レースこそは、富める者のスポーツの代表例である。ある国では子ども時代に、富める者はカートを、そうでない者はサッカーを始めるなどと言われる。カート(テーマパークのゴーカートを本気の仕様にした、カーレースの入門カテゴリ)を始めるには、シャーシ、エンジン、タイヤ、その他諸々の装備を揃えなければならない、搬送費も保管費も高額である。モータースポーツは金がかかるのだ。

 でも、仮想現実はその限りではない。リアルで固定化された格差は、いったんリセットされる。これは多くの人にとって福音である。

 ルッキズムもそうだ。ルッキズムとは外見至上主義のことである。外見も、一度生まれてしまったら取り替えがきかない要素である。自分の努力で初期値がどうにかなるものでもない。美容整形の技術も洗練されているが、限度がある。望む人全員がアクセスできる費用で提供されるものでもない。

 であれば、仮想現実で理想の外見を手に入れる。これも固定化された格差のリセットである。これは一つのキーフレーズだ。人が起こす多くの行動に潜在している動機でもある。ブレグジットも、トランプ旋風も、異世界転生ものの流行も、リアルで報われない自分や、リアルでいくら頑張っても正当な利得は得られそうにない状況をリセットする欲望が共通項である。

 すでに述べたように、一昔前であればリセットの欲望が向かう先がファンタジーであるのは虚しさの謗りを免れなかったが、現代の仮想現実は人生のかなりの時間を投じるにたるもう一つの世界になりつつあるということだ。

仮想現実内でのルッキズム批判、リプリゼンテーション

 もっとも、いまや仮想現実内でさえ、理想の外見を手に入れることは難しくなっている。近年のポリティカルコレクトネスの観点から、ルッキズムは批判されるようになった。外見による格差の是正自体は良いことだと考えるが、その結果たとえば美男美女ばかりが登場するコンテンツは批判の対象になった。ルッキズムを促進するからである。もしくはリプリゼンテーションの問題であるかもしれない。

 リプリゼンテーションとは、マイノリティがメディアなどで消されてしまう現象である。原作の小説では主人公がメキシコ人であったのに、ハリウッドで映画化されるとアメリカ人に置き換えられているような事例がそうだ。当然、メキシコ人は自分が無視されたり、軽んじられているように感じて怒る(なぜか日本人は怒らない人が多いことは知られている)。

 リプリゼンテーションを扱うのが上手だったのはトランプだ。現代のリアルの政治がマイノリティへの配慮を打ち出すため、過去に表舞台に立っていた人々(白人の低所得に落ち込んだ中年以上の男性)は、自分たちが国の中で軽んじられているように、つまりリプリゼンテーションされていないように感じていた。それを、「忘れない」と叫んだのがトランプである。人は、リプリゼンテーションを求めて、選挙に行ったり、仮想現実に潜ったりすることがあるのだ。

 話がそれたが、欧米では仮想現実内でもルッキズムは批判の対象になる。近年の欧米系ゲームをいくつか見てみるのもよいだろう。明らかに主人公が美男美女であるコンテンツは減っている。過去の主人公を無理矢理死なせて、美男美女ではないキャラクタを主人公へと配置し、利用者を怒らせたゲームもある。比較的、こうした動きへの対応が鈍い(キャラクタが美男美女である)日本や中国のゲームへ利用者が流れている動きすら観測できる。

 能力値もそうだ。たとえば、キャラクタの能力が可視化されるタイプのゲーム(RPGなど)では、初期能力値に偏りがあった。男性キャラクタはもともと腕力値が高く、女性キャラクタはそうではない。そのかわり女性キャラクタは知恵値が高いといった設定である。

 しかし、近年ではジェンダー平等の観点から、これは許されない。特にAAA級と呼ばれる、数十億円単位の費用を投じて世界展開するビッグタイトルに顕著である。訴訟が起きてサービス停止に追い込まれるリスクは負えないのである。

 そうした反動はありつつも、仮想現実はなお、リアルではどんなに努力してもままならない格差をリセットする可能性をはらんだ未開のフロンティアである。その要素がお金や学力、ルッキズムでは、後ろ向きに捉えられてしまうかもしれないが、高齢でスポーツができないとか、病気や障害で立つことができないといった人がもう一度その感覚を取り戻せる世界でもある。

 私たちは、こうした人に『ファンタジーに浸っていないで、リアルを直視しろ』と言う権利を持っているのだろうか。そして、病気や障害なら許されて、オタクやコミュニケーション能力の低い人だと許されないのだろうか。この点については、後でも詳しく述べよう。(続く)

こちらで最初から連載が読めます。


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