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02_「高大接続改革」の名のもとに大学の教養課程は殺された

高大接続改革から高大一貫改革へ

 さて、今回いったんは頓挫した(しかしおそらくまだ追求されている)大学入学共通テストの改革と英語テストの外注化は、いかなる政策的な文脈から出てきたものであろうか。それは「高大接続改革」である。

 一体、「高大接続」とは何か。実はこの言葉は、現在の大学の教授会にほぼ毎回登場するほどに、大学が対応を迫られている言葉である。まずは、その改革を進める主体である文部科学省の説明を見てみよう。文科省は「高大接続改革」というウェブページを設け、次のように説明している。

グローバル化の進展、技術革新、国内における生産年齢人口の急減などに伴い、予見の困難な時代の中で新たな価値を創造していく力を育てることが必要とされています。高大接続改革においては、高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜を通じて学力の3要素を確実に育成・評価する、三者の一体的な改革を進めることが極めて重要であるとし、これらの改革に向けての取組みを着実に進めています。

これ自体、「学力の3要素」なるものの内実が分からなければ、何を言いたいのかまったく分からない文章である。同じページには、次のような画像が貼り付けられている。

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出典 https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/koudai/index.htm

 これによると、「学力の3要素」とは、①知能・技術の確実な習得、②(①を基にした)思考力、判断力、表現力、③主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度、であるとされている。

 どうもよく分からない。この三つの要素は、まあ確かに聞こえがよく、誰も不要だとは言わないであろう能力や態度である。これらが、このポンチ絵(と呼ばれるのだが)では、ふわーっと図の右側へと向かう矢印に誘われる形で、高等学校教育と大学教育の連続性を確保するための、これら学力の3要素を総合的に判断する大学入学者選抜、という図に流し込まれている。

 つまりこの図を、共時的な図ではなく通時的なロジックのつながりとして解釈しようとするなら、左上の現状判断から左下の「学力の3要素」が導き出され、右側の、大学入学者選抜を含む高大接続改革が導き出されている、ということになるはずだ。そもそもこの「図」の構成が直感的に理解できるものではないという問題は譲るとしても、私にはこのロジックのつながりがどうしても理解できない。国際化、情報化、知識基盤社会というキーワードから、なぜこの「3要素」(それ自体どうもふわふわしている)が必然的に導き出されるのか、そしてそこから「高大接続」がいかにして必然的に導き出されるのか、謎である。

 いや、とぼけてみせたが、実のところ私はこういうものには強い既視感がある。多くの行政文書、特に政策のコンセプトを示す行政文書は、このように曖昧模糊としてロジックがどこでつながっているのか分からない、でも文言はなにやらキラキラとして志だけは高そうな文書であることが多い。だが気味が悪いのは、こういう曖昧な文書を根拠に、政策は確かに進められているということである。こういった文書には独特の読解法があるのか、それともこれは表向きのものであって、裏側には別の「本当の」文書があったりするのか……。

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 いずれにせよ、こういった表向きの行政文書だけ見ていると、一体何が起きているのか理解できない。そこでここでは、南風原朝和編『検証 迷走する英語入試──スピーキング導入と民間委託』(岩波ブックレット、2018年)の第5章、荒井克弘「高大接続改革の迷走」に頼ることにしよう。

 荒井によれば、「接続」という言葉が教育制度について使われるのはそんなに新しいことではない。戦後の学制改革や「ゆとり教育」の際にもその言葉は使われたという。現在の高大接続改革に直結するのは、1999年、中央教育審議会の答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」であった。これを受けて、2000年には大学審議会答申「大学入試の改善について」が出されている。

 この1999年答申の後に何が起きたかを確認する前に、そもそも「高大接続」とは何であるのか、何であり得て、何であるべきなのかを考えておこう。荒井は指摘するが、「接続」という言葉は、「異質なものの間をつなぐ」ことを意味するはずである。つまり、高校までの教育内容と、大学以降の教育内容は異質なものであり、その間をつなぐこと(両者を同質化することではなく)が、「高大接続」なのである。

 いや、その理解だけでは不十分である。歴史的に見て、「接続」のポイントは高校と大学のあいだにあるとは限らない。そのことを荒井は、イギリスに代表される欧州型の「接続」とアメリカ型のそれとを比較することによって明らかにする。 

 イギリスでは、この接続は、「シックススフォーム(sixth form)」で行われる。シックススフォームとは、中等教育の最後の2年間で、大学への進学を希望する生徒達が勉強をする課程である。この課程を経てAレヴェルと呼ばれる資格試験を受けた生徒達は、大学に入学した後は3年間の専門教育を受けることになる。

 それに対してアメリカでは、高校に進学予備課程はなく、学士課程では(専門(メジャー)の選択はあるものの)、専門性の低い一般教育がなされる。本格的な専門教育は、大学院からである。

 この比較から言えるのは、「接続」とはかならずしも高校と大学の接続ではなく、「一般教育」と「専門教育」との接続としてとらえるべきものだ、ということである。その接続のポイントは国や時代によって異なる。イギリスであればシックススフォームが、アメリカであれば学部と大学院のあいだに、「接続」があるのだ。

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本質から外れた改革

 さて、日本であるが、戦前・戦時中には、高等学校や大学予科という進学予備課程をともなった、欧州型の「接続」であった。荒井は、「戦後もこの種の進学予備課程を残しておけば……高大接続の矛盾は避けられたのかもしれない」と述べる(94頁)。というのも、戦後に、GHQの注文を受けて、日本の大学は一般教育課程を導入したのである。ところが、旧制のままに、入学試験は大学全体ではなく学部ごとに行われた。その結果、学部別に入学試験を受けるのに、その後にまた2年間の一般(普通)教育を受ける、その後に改めて専門を学ぶという、「あべこべ」の状況が生まれてしまったのである。

 ここに、私が論じてきた教養課程(一般教育課程)の消滅の問題と、大学入試問題が共有する矛盾の本質が明らかになっただろう。教養課程と入試は、日本における教育の「接続」の矛盾そのものだったのだ。

 では、高大接続改革と入試改革はその矛盾を解消しようとするものであるのだから、おおいに結構ということになるだろうか。

 それが、ならないのである。それは、ひとえに、現在の高大接続改革と入試改革が、ここまで述べたような本質を見失った改革になっているからにほかならない。本来であれば、高大接続改革とは、異質なもの(一般教育と専門教育)との間の接続のポイントをどこに、どのように設けるか、ということを本質とするはずだ。だが、いつの間にか高大接続は、前に示したような「学力の3要素」という謎めいた御旗のもとに、高校までの教育と大学以降の教育を、単に同質化することによって「接続」することへと変質してしまった。

 この変質の過程も、荒井は簡潔かつ明確に記述してくれている。2013年10月、教育再生実行会議は第四次提言で、基礎レベルと発展レベルという二つの達成度テストを提案していた。ここまでは、日本における「接続」の矛盾をなんとか解決しようという意図が見えるかもしれない。

 しかし、すべてが転回したのは、この提言を受けた中教審高大接続特別部会での議論だった。この特別部会は提言された二つのテストの具体化に取り組むのではなく、「学力論、能力論にのめり込んだ」(97頁)。その迷走の結果、審議のまとめとして唐突に出てきたのが、先述の「学力の3要素」だったのである。荒井は、特別部会の答申をこのように要約する。

答申はこの「学力の三要素」で「初等教育から高等教育までを一貫させる」という以外には、何も述べていない。高大接続問題も「学力の三要素」のひとつで片付けられた。……学力の三要素を接続答申にもちこんだことにより、高大接続改革は、俄に「高大一貫改革」に変貌した。(97頁)

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利益相反

 一体なぜそのようなことになったのであろうか。私は一つの、非常に分かりやすい説明を手放せないでいる。今名前の挙がった中教審高大接続特別部会の座長は元慶應義塾大学塾長の安西祐一郎であった。この後、安西は中教審の会長として、大学入学共通試験への民間試験活用の答申を、2014年12月に出すことになる。

 ところが、『NEWSポストセブン』が報じたところでは、その安西祐一郎はまさにその民間試験のひとつ、ベネッセ社のGTECを共催する「進学基準研究機構(CEES)」なる一般財団法人の評議員なのである。(同機構の所在地はベネッセ本社の社内であり、理事長は文部事務次官を務めた佐藤禎一氏である。※現在は退任)

 世の中ではこれを利益相反と呼ぶ──そしてこれにて、私の物語の円環は、とりあえず閉じることになる。

 90年代以降の、教養課程(一般教育課程)の解体と、高大接続改革の一貫としての入試改革。これらは両方とも、戦後日本の高等教育の「矛盾」──「接続」をめぐる矛盾──の問題であったはずが、気づけばまったく違うロジックで推進されていた。そのロジックに名前をつけるなら、新自由主義であり、その原理としての市場化である。入試改革は、私が文科省前のスピーチで述べた通り、第二の意味での市場化だ。つまり、私たちの公共物としての入試を私企業に売り払う行為である。安西祐一郎のような人物は、そうした政策決定を、それによって利益を受ける私企業(CEESはどう取り繕ってもベネッセの一部である)の一員でありながらにして行った。このような公共性に対する裏切りが、現在の教育政策の中心であり、本質だ。

 そのようなわけで、一橋大学を辞めた私は、文科省の前で叫んだ。

 この国の教育はどこに向かっているのであろうか。私を含め、今生きている研究者だけではなく、あまたの先達の研究者たちがその人生をかけてきた人文学は、ここに述べたような外的な事情によって消え去ろうとしている。これまで、信じられないくらいの緻密さで運営されてきた大学入試(センター試験)は、杜撰な計画プロセスだけではなく、それを後押しする市場化の圧力のもとで無に帰そうとしている。その直接の犠牲となるのは、めまぐるしく変わる制度に翻弄される高校生たちだ。

 私は物語の円環が閉じたと述べたが、本稿で示した問題は、大学や入試制度といった、ある意味で狭い領域から開かれていくべきだろう。これらの問題は、教育とは何か、学びとは何か、文化や教養とは何か、といった問いへと開かれてこそ、真の答えを手にするはずである。本連載が一体どこまで到達できるかは未知数である。だがそういった問いを、到達点として示しておきたい。この到達点が「どこにもない場所」かもしれないということは分かっている。しかし、「どこにもない場所」への衝動を手放したシニカルなリアリズムに抵抗すること、それこそが真に社会について考えることであるはずだ。

つづく


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◉著者プロフィール
河野真太郎/こうのしんたろう 1974年、山口県生まれ。専門は英文学、イギリスの文化と社会。専修大学国際コミュニケーション学部教授。一橋大学法学部卒ののち、東京大学大学院人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。一橋大学准教授などを経て現職。著書に『戦う姫、働く少女』(POSSE叢書)、『〈田舎と都会〉の系譜学——20世紀イギリスと「文化」の地図』(ミネルヴァ書房)。7月刊予定で翻訳書『暗い世界──ウェールズ短編集』(堀之内出版)。
Twitter : @shintak400

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