第一章 がんばろうKOBE――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則
目次・プロローグに続き、第一章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
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下馬評を大きく覆し、2年連続最下位からのペナント制覇は、いかに成し遂げられたのか? 逆に、なぜかくも長き暗黒時代が続いたのか? 黄金期も低迷期も見てきた元番記者が豊富な取材で綴る。
1994年の仰木彬監督就任まで遡り、イチロー、がんばろうKOBE、96年日本一、契約金0円選手、球界再編騒動、球団合併、仰木監督の死、暗黒期、2014年の2厘差の2位、スカウト革命、キャンプ地移転、育成強化、そして21年の優勝までを圧倒的な筆致で描く。
主な取材対象者は、梨田昌孝、岡田彰布、藤井康雄、森脇浩司、山﨑武司、
北川博敏、後藤光尊、近藤一樹、坂口智隆、伏見寅威、瀬戸山隆三、加藤康幸、牧田勝吾、水谷哲也(横浜隼人高監督)、望月俊治(駿河総合高監督)、根鈴雄次など。
12月15日発売! 現在予約受付中です。
目次、プロローグはこちらからご覧ください。
「原点はここですよ、僕は」
第一章 がんばろうKOBE
神戸港のシンボルとして知られる「神戸ポートタワー」は、1963年(昭和38年)に完成した、高さ108メートルの展望台だ。
地上からその中央付近にかけて次第に細くなっていく〝くびれ〟を境に、今度はそこから天に向かって再び広がっていく。その「双曲面構造」が特徴的でもある。
そのタワーのすぐ西。中突堤中央ターミナルとの間に、2枚の「壁」が建っている。
横10メートル、縦1メートル。
その表面には、およそ9センチ四方の白いレンガが、隙間なく張り巡らされている。その1枚1枚にサインが焼き込まれ、神戸へのメッセージが添えられたものもある。
海を背にして、左側のボード。その中央の1枚に目を引かれた。
「がんばろう神戸〝Kobe〟」
オリックスの創業メンバーの1人で、自他ともに認める野球好き。
阪急から球団を買収して以来、一貫して球団オーナーを務め続けている宮内義彦は、自らの署名とともに〝あのメッセージ〟を添えていた。
宮内のレンガを囲むように、オリックスの選手たちのサインも飾られていた。
仰木彬、イチロー、田口壮、中嶋聡、佐藤義則、藤井康雄。
1996年(平成8年)、神戸に日本一をもたらしたオリックス・ブルーウェーブ。
あの時、神戸の地で躍動した男たちは、神戸への熱き思いと、鎮魂の思いを込め、神戸の象徴である港のほとりに、自らのサインを書き残していた。
左に宮内、右に仰木監督、中央下にイチローのサインが見える
〝サインの壁〟とはポートタワーを挟んで逆、東側にあるのがメリケンパークだ。
その一角に「神戸港震災メモリアルパーク」と名付けられたエリアがある。
阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたメリケン波止場の一部を、震災当日、被災後の状態のままで保存しているのは、あの大震災の教訓を後世に伝えるためだ。
桟橋が傾き、街灯が折れ、地割れした部分に、今も変わらず波は打ち寄せている。あの日の揺れが、神戸にとてつもない被害をもたらしたことを、いやがうえにも思い出させる。
神戸港震災メモリアルパーク
死者・行方不明者6437人、住宅被害は約64 万棟。
その傷ついた神戸を癒やし、そして勇気づけたのが、仰木彬が率いたオリックス・ブルーウェーブの存在だった。
ユニホームの右袖には「がんばろうKOBE」のワッペンがつけられていた。
神戸には、あの〝青波〟の歴史がしっかりと刻み込まれ、そして今なお、その絆が繋がっている。
社会とスポーツ。フランチャイズとスポーツクラブ。その相互関係を「地域密着」というコンセプトでくくり、ともに歩んでいくことで、相乗効果を生み出していく。
田口壮は、その机上の理論を超えるような〝力〟を「あの時の神戸」に、いつも感じていたという。
個人的にもそう、チームもそう、地域もそう。あまりにも大きなものを抱えていたんだなと思いますね。神戸のファン、街の人たちの、それこそ祈りのような、願いのような、普段の応援とは違うものが伝わってきましたからね。何とかしたいという思いが強かったんです。
プロの球団がそこにあって、仰木彬監督がいて、イチローという象徴がいた。神戸の皆さんが、そこに救いを求めているようなところもありました。
みんなの力が、一緒になっていました。すごかったです。僕らじゃなくて、神戸の市民の思いがすごかったんです。これだけ一体化すると、選手は動かされるんだなと。そして、願いは叶うんです。神戸の人たちが、それを教えてくれたんです。
そういう強い気持ちって、普通の状況では、絶対に出ないんです。
田口は、1991年(平成3年)のドラフト1位指名を受け、関西学院大からオリックスへ入団した。
前身の阪急が本拠地としていた西宮球場のほど近くで生まれ育った野球少年は、まさしく相思相愛で〝地元球団〟に迎え入れられたのだ。
走攻守三拍子揃った遊撃手として、即戦力の期待は高かった。しかし、プロ入りして間もなくイップス、つまり「送球難」に悩まされることになる。
監督の仰木彬は、その強肩と俊足を買って、遊撃から外野手への転向を命じた。
正確な送球が求められる内野より、少々大雑把でも、より遠くへ、より速く投げられるその強い肩を生かすことで、外野手の適性があると見込んでいたのだ。
阪神・淡路大震災が発生した1995年(平成7年)は、田口にとって外野転向の1年目だった。
ライト・イチロー、レフト・田口、センター・本西厚博の布陣は、その守備力の高さゆえに、外野の間を打球が抜けない「鉄壁の外野陣」と呼ばれるまでになった。
イニング間にイチローと田口が見せる遠投でのキャッチボールで、イチローが頭越しのボールを捕る「背面キャッチ」は、オリックスの名物にもなった。
後にFA権を行使、海を渡ったのは2002年(平成14年)のことだった。
8年間のメジャー生活では、セントルイス・カージナルスとフィラデルフィア・フィリーズの2球団で、ワールドシリーズ制覇の一員として貢献した。野球人なら誰もが憧れる勝者の証「チャンピオン・リング」を、田口は2つ手にしている。
2010年(平成22年)からオリックスへ復帰、その2年後に現役引退。野球評論家を経て、2016年(平成28年)からオリックスの2軍監督に就任。2021年は1軍の外野守備走塁コーチとして、試合中は一塁コーチャーを務めている。
歓喜の日本一から四半世紀という、長い時間が過ぎていった。
応援の後押し、地域全体のバックアップというものが、決して綺麗ごとではなく、本当に選手たちの力に変わるということを神戸で、そしてメジャーで、田口は体感してきた。
震災から20年を迎えた2015年(平成27年)。
マスコミは、どうしても、勝手に〝区切り〟のいい年を設定し、その大きな出来事のまとめや振り返りを、大々的に取り上げる傾向がある。
あの年のことを、田口に改めて聞かせてもらおうと、インタビューのために選んだその場所は、冬の神戸だった。
当時、ユニホームを脱ぎ、野球評論家として活動していた田口は、自分一人で車を運転して、慣れ親しんだ「ほっともっとフィールド神戸」へとやって来た。
観客は、もちろん誰もいない。
しかし、田口の熱い言葉を聞いていると、あの日のスタンドをぎっしりと埋め尽くした被災者たちの姿が、目の前に浮かんでくるようだった。
「原点はここですよ、僕は」
プロ野球選手・田口壮の原体験。
その〝神戸のオリックス〟の歴史を、今だからこそ振り返ってみたい。(続く)