消滅するエンガワ丼の謎。|パリッコの「つつまし酒」#62
人生は辛い。未来への不安は消えない。世の中って甘くない。けれども、そんな日々の中にだって「幸せ」は存在する。
いつでもどこでも、美味しいお酒とつまみがあればいい――。
混迷極まる令和の飲酒シーンに、颯爽と登場した酒場ライター・パリッコが、「お酒にまつわる、自分だけの、つつましくも幸せな時間」について丹念に紡いだエッセイ、noteで再始動!
そろそろ飲みたくなる毎週金曜日17時の更新です。
まるで狐につままれたように
私がその謎と出会ったのは、5月にしては肌寒い薄曇りの朝だった。
前日、いつもよりほんの少しだけ足をのばし、鮮魚類の品揃えのいいスーパーマーケットを訪れた。そこで、晩酌のつまみとしたい魚介類数品のうちのひとつとして、ふと目についた「アブラカレイのエンガワ」を買った。これを出汁醤油で簡易的な「漬け」にし、その夜の酒のつまみとしたわけだったが、40を超えた身には少々脂っこい。数切れつまみ、残りは翌朝、飯のおかずとして食べようと考えた。
そして件の朝だ。すっかり褐色に染まったエンガワを炊きたての白米に乗せ、あの脂っこさを若干でも中和しようと思いつき、表面をバーナータイプのチャッカマンで炙る。キッチンに、醤油と脂の焦げる良い香りが漂う。茶碗を持って食卓へ行き、勢いよくかっこむ。するとどうだろう。前日まではシャキシャキとした食感が印象的だったエンガワは、白米とともに口に入れた瞬間にじゅわりと溶け、その旨味と香ばしさだけを残したまま口中から消滅してしまったのだ。
謎だ。どのような作用が働いたのだろうか。ともあれ、この「消滅するエンガワ丼」がどうにもうまい。箸が止まらなくなり、ガツガツとあっという間に完食してしまった。
微かなる食感を消したい
数日後、私は同じスーパーマーケットへ向かった。無論、消滅するエンガワ丼の謎を放置しておくわけにいかないからだ。幸いなことに、まったく同じアブラカレイのエンガワが、今回も店頭に並んでいた。買って帰り、まずはいったん状況を整理する。
エンガワが消滅したのは、買った翌日の朝だった。出汁醤油で漬けにし、炊いた飯に乗せ、バーナーで炙った。つまり条件としては以下の要素が考えられる。
・炊いた飯に乗せたから
・炙ったから
・漬けにして1日置いたから
このうちのどれかが消滅理由かもしれないし、要素が複合している可能性もありえる。もしもそれ以上に、例えば気候条件や魚の状態にも左右されるとなると今ある要素では手に負えないが、とにかくひとつずつ検証してみる価値はあるだろう。今日試せる要素は、3項目のうち上ふたつ、及びその組み合わせだ。
まずはエンガワを一切れ、炊いた飯に乗せ、醤油をかけて食べてみる。もとの食感からほぼ変容はない。が、ともあれ大変うまいのでチューハイをごくりと飲む。
次は、ただ炙り、醤油をかけて食べてみる。すると吉兆。じゅわりと溶けるような感覚が加わった。ただし、食感もまたきちんと残っている。これもうまいので酒が進む。
組み合わせはどうだろう。炊いた飯に乗せたエンガワを炙り、醤油をかけてほおばる。かなり消滅に近づくが、やはり微かなる食感が残っている。これを消そう。となればできるのは、漬けにして明日まで待つことだけだ。
白米に乗せ、炙ったエンガワ。酒が進む
運命の朝
運命の朝だ。冷蔵庫から取りだしたエンガワは、美しい漬けになっている。これをプレートに端から「そのまま」「炙り」「炊いた米乗せ」「炊いた米乗せ炙り」と並べ、一気に検証していく。
炙ったエンガワから脂が大量に溶けだしている
そのまま。食感はきちんとある。
炙り。かなり近いが、食感がゼロにはなっていない。
炊いた米乗せ。食感ある。
炊いた米乗せ炙り。……消滅した。エンガワが、見事に。
なんとかうまくいったようだ。つまりエンガワが消滅する条件とは、「漬けにして1日起き、炊いた米に乗せて炙る」。初めてこの謎と出会った朝の条件とまったく同じ。偶然、そこにたどり着いていたというわけだ。私は科学者ではなくて単なる酒飲みなので、その理由については深く掘り下げないが、今後また消滅するエンガワをつまみに酒が飲みたくなれば、いつでもそれを手に入れることができるようになった。
清々しい気持ちで残りのエンガワを、茶碗へよそった米の上に並べて炙り、あまつさえ、中心に卵黄を落として、小ネギとゴマまで散らしてしまう。
謎は解けた。晴れ晴れと食べる
今は朝であるので、酒は控えておこう。消滅するエンガワ丼が朝食。なんという贅沢。卵黄をぷつりと割ってざっくり全体に絡め、まずは一口。ジュワッと溶けるエンガワの、旨味だけをまとった白米のうまさ。そこへ絡む、とろける卵黄のコク。それを何度も繰り返す悦楽……。
私は、これまでの文筆歴において、ずいぶんと軽々しく「官能的」という表現を使いすぎてきてしまった気がする。消滅するエンガワ丼、これこそがまさに官能的な美味であると、今、心の底から反省している。
「官能的」という言葉はこの丼のためにあり
パリッコ(ぱりっこ)
1978年、東京生まれ。酒場ライター、DJ/トラックメイカー、漫画家/イラストレーター。2000年代後半より、お酒、飲酒、酒場関係の執筆活動をスタートし、雑誌、ウェブなどさまざまな媒体で活躍している。フリーライターのスズキナオとともに飲酒ユニット「酒の穴」を結成し、「チェアリング」という概念を提唱。著書に『つつまし酒 懐と心にやさしい46の飲み方』(光文社新書)、『酒場っ子』(スタンド・ブックス)、『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、漫画『ほろ酔い! 物産館ツアーズ』(少年画報社)など。Twitter @paricco