第八章 キャンプ地移転 育成強化――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則
昨日刊行の『オリックスはなぜ優勝できたのか』ですが、本日早くも増刷が決まりました! 多くの方々に支持していただき、心から感謝を申し上げます。さて、本記事では第八章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
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「雨漏りがひどかったんだよ」
第八章 キャンプ地移転 育成強化
宮崎の市街地から、南西方向へ車でおよそ30分。ちょっと離れた山間に位置する「清武総合運動公園」は、敷地面積42・3ヘクタール。甲子園球場11個分の広さになる。
清武町出身の儒学者・安井息軒にちなんで名づけられたメーン球場の「SOKKENスタジアム」は両翼100メートル、中堅122メートル。土の内野と、天然芝の外野のコントラストは、南国の太陽の下で一段と美しく映える。
内野スタンドには2840席が設置され、スコアボードも電光掲示。これらは、宮崎市が約6億円を投入して「プロ仕様」に改装したものだ。
そのすぐ横の「第2球場」も、メーン球場と同じスケールで、ネット裏、一塁側、三塁側に合わせて260席ながら、観客席も設置されている。
こちらも約6億4000万円の費用をかけ、宮崎市が改修している。
屋内投球練習場では、一度に10人が投球可能。さらに、赤土のマウンドが7カ所、黒土のマウンドが3カ所。その硬さに応じて、選んで投げることもできる。
宮崎の名産から、その名がつけられた「日向夏ドーム」は、全面人工芝の2580㎡。ノックもフリー打撃も可能な広さで、ウエートトレーニングの機器も揃えたトレーニング室が併設されている。
ドームに隣接する「多目的グラウンド」は、ランニングや外野ノックのスペースとしても、十分な広さを兼ね備えている。
それらの施設間の移動が、徒歩で数分以内というエリアにまとめられている。
その利便性、広さ、設備の充実ぶり、すべてがキャンプ地として文句なしだ。
瀬戸山隆三は、何度もこの地へ足を運び、設備に関しての細かい注文もつけた。自らの人脈を駆使し、宮崎市側も受け入れ態勢を万全に整えてくれることを確認した上で、キャンプ地移転という大事業の足掛かりを築いてきた。
「なかなかすごい施設だと思いましたよ。宮崎もやる気十分やったしね。これは、いつも自分の進退をかけているような感じはあったんだけど、僕は絶対に宮古島じゃなくて、宮崎にせんとアカンと。これは、今後のチームのためでもあったからね。
だから、西名(弘明)球団社長(当時)も、宮内(義彦)オーナーも説得したんです。宮古島でいつまでもやっていたところで、場所は遠いし、対戦相手は島内におらん。そうじゃなくて、宮崎でやったらファンもいっぱい来るし、選手も燃える。キャンプの意味って、一体何なんですか。ただの高校野球の合宿とは違うんですよ、と」
瀬戸山が球団本部長に就任した1年目の2014年(平成26年)8月、オリックスは翌2015年から、キャンプ地を宮古島から宮崎市清武へ移転することを発表した。
後述するが、2017年からは、ファームの施設を神戸から大阪・舞洲へ移転している。
社会人偏重、即戦力重視の補強から、育成型のチームへ転換していく。
編成部長の加藤康幸のもと、スカウティングの充実を図るのと並行して、獲得した選手たちの持てる能力を存分に開花させるための「環境」を整える必要があった。
その根幹ともいえるハード面の充実。その第一歩が、宮崎へのキャンプ地移転だった。
瀬戸山は、その大事業の先鞭をつけ、実現へと持ち込む力業を見せたのだ。
オリックスは1993年(平成5年)から、沖縄・宮古島で春季キャンプを行っていた。
1995年、96年のパ・リーグ連覇と日本一。
1994年には、イチローがシーズン210安打の日本記録(当時)を達成した。
そうした数々の「栄光」は、宮古島がベースとなって作られたものともいえる。
監督の仰木彬は、メーン球場の宮古島市民球場から、ドイツ村と呼ばれる観光施設の中にある、瀟 洒なリゾートホテルまで「うまい酒を飲むためや」と、歩いて帰還するのがキャンプ中の日課でもあった。
毎日歩いたそのコースは「仰木ロード」と呼ばれ、島内にある酒造会社が「泡盛」を貯蔵する自然の洞窟の中には、「仰木彬」のネームタグがつけられた「甕」もある。
宮古島市民球場の正面入り口には、1996年の日本一の記念碑の横に、仰木の座右の銘である「信汗不乱」が彫られた顕彰碑がある。
しんかんふらん、と読む。仰木の造語といわれており、一生懸命流した汗を信じ、一心不乱に練習することの大切さがオリジナルの四字熟語に込められており、仰木の死後、2006年に、宮古特産の琉球石灰岩に彫り込まれた。
仰木が愛した宮古島。オリックスといえば宮古島。
そんなイメージというのか、固定観念にも似たものが、球団内にも定着していたという。
プロスポーツは、そうした脈々と繋がる歴史と、そこから派生してくる数々のストーリーが、ファンの興味を引き、チームカラーとして受け継がれていくものでもある。
ダイエー、ロッテで、フロントの要職を務めてきた瀬戸山にとって、オリックスは3球団目だった。外様の新参者が、いきなりキャンプ地移転をぶち上げ、球団の長い伝統を否定するような愚を犯せば、球団内部からの信頼を得ることはできないだろう。
それでも、瀬戸山には「宮古島キャンプ」への疑問が、どんどん募っていったという。
「オリックスとしたら、キャンプは宮古島でやるもんだ、という感じがあったんだけれどもね。当然、そこでキャンプはやるんだと。ところが行ってみたら、まず施設がひどかったんだよ、残念ながらね」
2013年、球団本部長補佐としてオリックスに入団した直後、宮古島キャンプに初めて臨んだ時の衝撃のワンシーンを、今も忘れないという。
ある雨の日のことだった。室内練習場で、監督の森脇浩司が練習を見つめていた。
背後をよく見てみると、何か、天井の方から落ちてくる。
「雨漏りがひどかったんだよ。立派な室内練習場なんだよ。でも、みっともないと言えば、みっともなかった。監督が練習を見ている、その後ろで雨が漏れているんだから……。これは惨めですよ、やっぱり」
そこで瀬戸山は、宮古島市の関係者に挨拶がてら、何度となく施設の改善を申し入れた。
離島の自治体では、そうした予算の確保が厳しいという現実もある。ただ、プロ野球のある1球団が、1年のうちわずか1カ月間行うキャンプのために、公金を投入して公共の施設を整備することに、どこかピンときていないようなところが、瀬戸山には見受けられたという。
地域振興に繋がるのか。観光産業にメリットはあるのか。島民の個々人にもそれぞれ、贔屓のチームだってあるだろう。
宮古島のように、島内の人間関係が濃厚な地方では、キャンプ施設の整備が、特定球団に自治体が肩入れするように映ってしまう可能性もある。「なぜオリックスだけ?」という疑問に、誰もが納得するような共通解を打ち出すことは難しい。そうすると、オリックス側からのアプローチにも、どうしても冷淡になるのだ。
瀬戸山が受け取った〝感触〟にも、そうした背景がにじみ出ていた。
「オリックスが来ていることについて、何とか優勝を目指してもらえるように、こちらも頑張らんといかん、といった宮古島の姿勢もあまり感じられなかったんです。ホテルの人とか地元の後援会の方々は、それこそ熱心なんだけど、彼らは施設の改善とか、そういうのは何もできないじゃないですか。過去の歴史とか栄光とかはある。ただ、ホントに宮古島でずっとキャンプをやっていることに何か意味があるのかなと思ったんですよ」(続く)