渇望の果てのとんかつ飲み|パリッコの「つつまし酒」#74
人生は辛い。未来への不安は消えない。世の中って甘くない。
けれども、そんな日々の中にだって「幸せ」は存在する。
いつでもどこでも、美味しいお酒とつまみがあればいい――。
混迷極まる令和の飲酒シーンに、颯爽と登場した酒場ライター・パリッコが、「お酒にまつわる、自分だけの、つつましくも幸せな時間」について丹念に紡いだエッセイ、noteで再始動!
そろそろ飲みたくなる、毎週金曜日だいたい17時ごろ、更新です。
やってしまいました
お恥ずかしい話、人生で初めて財布を無くしましてね……。
あれは世間が現在のような状況に突入する少し前の3月中旬。お酒を飲んだ帰りの電車でしばしうとうとし、最寄駅で降りて、スーパーでちょっと買い物でもして帰ろうかってときに気がついた。財布がない。まさかすられたか……いやいや、間抜けな自分のことだからどこかで出してカバンにしまったつもりが落としたか……。とにかく、絶望的な気分になりつつも交番にだけは届けを出して、翌日、思いだせる限りの各所への問い合わせと、カード類などの利用停止手続きをとりました。
体験してみてわかることですが、銀行系のカードや健康保険証の再発行に関しては、割とスムーズに進むんですよね。翌日にはすべての手配が終わり、1~2週間も待っていれば新しいものを再発行して郵送してもらえる。ありがたいことです。
ところが、免許証だけはそうはいかなかった。最寄りの石神井警察署に行ってみると、更新ではなく再発行の場合、東京都民なら、府中、鮫洲、江東運転免許試験場のどれかに行かなければいけないんだそう。どこも家からは近くない。なんてタイミングでの、コロナ禍突入。とても電車を乗り継いで行けるムードではない。
そんなこんなで数ヶ月間、手もとに免許証がないというそわそわした状態で過ごしていたところ、なんとこのタイミングで「更新のお知らせ」が届いてしまった。僕の誕生日は7/22で、8/24までには更新しなさいと書いてある。焦りますよ。調べてみたところ、僕のような珍しいパターンの人というのも世の中にはいるものらしく、試験場に行けば、再発行と更新を一度にお願いできるんだそう。
なんとか仕事のスケジュールをやりくりし、ある平日の午後、僕は「府中運転免許試験場」へと向かったのでした。
今日はとんかつ&ビールで決まり! のはずが……
で、この再発行&更新の手続きが大変だった! 試験場へ着いたのが13:30くらい。平日だし大したこともないだろう、なんてたかを括っていたんですが、「こんなに免許を更新したい人たちが世の中にいるの?」っていう、ものすごい人出です。勝手のわからないなか、あっちへ行かされこっちへ行かされ、書類を書いては30分待ち、写真を撮っては30分待ち。マックス眠いなか、30分間の教習ビデオ(これがやたらこわい)を見せられ。
無事新しい免許証を受けとれたのが、なんと17:30。4時間かかりましたよ……。まぁ、すべて免許をなくしてしまった僕が悪いんですけどね。普通の更新の人たちはもっとスイスイ進んでるっぽかったし。
とにかく、基本的に何もせずに待っている時間がほとんどだったとはいえ、身も心もヘトヘト。あと、その日はお昼を食べていなかったので、お腹もぺこぺこ。ただし、こっちの財布には免許証がある! つまり、久々にものすごい安心感がある! そしてもはや自由放免の身! さっそくどこかでガッツガツとメシをかっこみながら生ビールを飲んでやる! と歩きだすと、おっと、目の前にとんかつチェーンの「かつや」があるじゃないですか。とんかつ&ビール、いいね。決まり決まり! そう思ってつかつかつかと前進し、ガシッと扉に手をかけるとなんと、「コロナの影響で酒類の提供を中止している」との張り紙が! ズコー!
ここ、駅前じゃないから、他にめぼしい店なんてないんですよ。どうする自分? とりあえずとんかつ定食を食べて腹を満たす? つめた~い水を飲みながら? いや、ちょっと今日はそれ無理! というわけで、断腸の思いで隣のファミリーマートへ行って、店内の商品棚のなかでいちばん今の気分に近いと思われる「メンチカツバーガー」と缶チューハイを買い、駅へ向かう途中の公園をふらふらと歩きながら、涙目で胃に流し込んだのでした。
まぁそれも悪くない時間だったんだけど
本当にすごいな、松のや
翌日、当然気持ちはとんかつへのリベンジに燃えています。ただ、地元に大好きな個人店のとんかつ屋なんかもあるけど、気分はそっちじゃない。チェーン店のとんかつの、そのリーズナブルさに見合わぬクオリティに驚きながらビールを飲みたい。かつやがダメなら、我が地元には松屋グループの「松のや」があるじゃないか!
というわけで、今日の現場は松のやです。前に一度だけ妻とお昼を食べにきたことがあるくらいなのであまり勝手がわからないけど、店頭のディスプレイにビールジョッキがあるから間違いなく飲めるだろうと、入店。券売機の前に立つ。今日はシンプルに「ロースカツ定食」で飲もうとおおよその心は決めてあるので、とりあえずドリンクコーナーのメニューを確認する。と、かなりびっくりしましたね。お酒とおつまみのセットがあれこれあって、そのなかの「中生セット」が、なんと、生ビールにロースカツ、さらに冷奴までついて、税込620円! 安ぅ! とんかつ&白メシのハーモニーは味わえなくなるけど、今日はとんかつ飲みをしに来たんだし、どうせご飯は半分にしてもらおうと思っていたんだ。こっちだな。プラス単品で「茄子味噌」ってのも頼み、よし、方針は固まった。
では、始めます。
間髪入れずにキンキンの生ビールとキンキンの冷奴が到着。そりゃあ昨日もお酒は飲みましたよ。でも気持ち的には、まだあのヘトヘト状態からの1杯目。ぐいーーーっと飲んだビールの、体に染み渡ること!
すぐにロースカツと茄子味噌もやってきました。かつは5きれか。僕、とんかつの最初のひときれは、必ず醤油で食べるようにしてるんですよ。好きだから。でも、いったん味の濃いソースに移行するともう醤油には戻れないから。そこで、醤油1、ソース2、特製ソース2というプログラムを決めました。
可憐なお姿
まずは醤油であっさりと
サクッ。軽快な衣がさすが専門店。じゅわっ。うわ、肉、信じられないくらい柔らかい。それからシンプルな醤油味で引き立てられた、豚の旨味と脂の甘み。豚肉、LOVE。ビールぐいー……はい報われた!
ふたきれめはオーソドックスなほうのソースをドボドボ。こりゃ間違いない。あ、ビールなくなった。
お酒のおかわりをしようと再び券売機へ行き、ドリンクコーナーを改めて眺めてみると、いや、ほんとすごいっすね、松のや。なんとレモンサワーが230円だって。で、実際届いてみると、ちゃ~んとしっかりした量のジョッキ。どうなってるんだろ。
濃厚な特製ソースがけかつとレモンサワーの相性がまた良い
おっと、ここらで茄子味噌を挟んでみるか。よくわからずにサイドメニューのひとつだと思って頼んだんですが、トロトロのナスに甘めの味噌が絡んで、いいつまみですね。温泉玉子まで浮かんで豪華。これ、とんかつにかけたら名古屋のみそかつっぽくなるやつだな。……あれ? 待てよ? それってつまり、そういうこと?
茄子味噌にかつひときれをドボン
この世の真理を暴いたような気分になり、あわててかつをひときれ、味噌のなかにドボンと浸す。卵黄を執拗に絡める。かぶりつく! その瞬間、奥にいた店長がボソッとつぶやく声が確かに聞こえました。「……免許皆伝」と。
この茄子味噌の存在により1、2、2計画は崩れてしまったけど、味のバリエーションが増え、より充実した晩酌になったことは間違いありません。いや~大満足。つーか本当にすごいな、松のや。だって、今日の全品、おかわりのレモンサワーまで入れてトータル、税込1020円っすよ? 間違いなく訪問頻度上がるなこれは。
あ、そうそう。けっきょくなくしてしまった財布はまだ見つかっておらず、僕はあれからずっと、ひとまずダイソーで300円で買った財布を使い続けているんですが、これがなんだか具合いいんですよね。
金持ちでもないのにやたらと財布が重い原因だったポイントカードの数々。よく行く店でお会計のたびに「あれ? どこだっけ?」なんて探しながらちまちまためたのに、一瞬で霧散してしまったことがきっかけとなり、僕、ポイントカードもらう派をやめたんです。今、ペラッペラの財布に入っているのは、免許証、保険証、クレジットカード、銀行のカード2枚、以上。お酒の話と関係ないけど、このスッキリ感、けっこうクセになりますよ。
パリッコ(ぱりっこ)
1978年、東京生まれ。酒場ライター、DJ/トラックメイカー、漫画家/イラストレーター。2000年代後半より、お酒、飲酒、酒場関係の執筆活動をスタートし、雑誌、ウェブなどさまざまな媒体で活躍している。フリーライターのスズキナオとともに飲酒ユニット「酒の穴」を結成し、「チェアリング」という概念を提唱。著書に『つつまし酒 懐と心にやさしい46の飲み方』(光文社新書)、『酒場っ子』(スタンド・ブックス)、『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、漫画『ほろ酔い! 物産館ツアーズ』(少年画報社)など。Twitter @paricco