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【第82回】なぜ現代社会にカントが蘇るのか?

■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!

秋元康隆氏へ期待を込めて

読者が時速60キロで自動車を運転しているとする。突然、5メートル先に5人の子どもたちが交通ルールを無視してボールを追いかけて飛び出してきた。即座に急ブレーキをかけるが、直進すれば5人に衝突することは避けられない。そこで読者は、2メートル先に分岐する道に右折しようとするが、その道には交差する横断歩道があって2人の老夫婦が青信号で手を挙げて歩行している。直進か右折しか選択肢がない場合、読者はどちらを選ぶだろうか?

いわゆる「トロッコ問題」を現代風にアレンジしたものだが、これは単なる「机上の空論」ではなく、いかに自動運転車をプログラムすべきか、最先端の科学技術業界で議論されている問題である。「より多くの人命を救うべきだ」という論法の功利主義者は、右折にプログラムすべきだと主張する。しかし、それでは交通ルールを遵守する老夫婦に衝突することになるので、「人として許されない」という道徳主義的反論がある(この議論の詳細については、拙著『実践・哲学ディベート』NHK出版新書をご参照いただきたい)。

さて、この種のディベートによく登場する「人として許されない」という発想を突き詰めると、多くの場合、カントの倫理学に到達する。カントは、「道徳」は他の目的に対する手段ではなく、それ自体のために守られるべき「定言命令」だと考えた。「定言命令」とは、それ以上のカテゴリーが存在せず、人間に無条件に適用される「無上命令」を指す。カントが具体的に主張したのは、「自分が何かするとしたら、それと同じことが普遍的法則となり世界中の人が同じようにしてもよい場合に限って行ってよい」という道徳律である。

カントの倫理学は現代の「国際連合」や「国際法」に息づいている。戦争反対・捕虜虐待禁止・情報公開などの「理想」の根底には、「自分の行為を皆がやってよいか、とくに自分がされてもよいか?」というカントの問いがある。ロシアのウクライナ侵攻に残念ながら国連が無力なように、理想と現実の間には大きなギャップがあるが、カントの理想を放棄するわけにはいかない。

本書の著者・秋元康隆氏は1978年生まれ。日本大学文理学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科・トリア大学大学院哲学研究科修了。現在は、トリア大学専任講師・トリア大学附属カント研究所研究員。専門はカント哲学・倫理学。著書に『意志の倫理学』(月曜社)がある。

本書は、現代の「ビジネス・道徳教育・生殖医療・環境・AI・差別」に関する倫理的諸問題に対して、カントならばどのように答えるかを追究する。秋元氏は、倫理学者は「研究成果」とそれを「どのように自身の生き方に反映させているか」を一般読者に明快に伝えるべきだと真摯に提言している。

本書で最も驚かされたのは、「さまざまな視点から考えることによって、はじめて他者からの反論にも耐えられる、十分な耐性を持った理論が導かれうるのです」という本文に「このような考え方は……高橋昌一郎先生の『科学哲学』の授業において学びました。日本では経験することが稀有な、学問的態度を身につけることのできる授業でした」という「注」が付いていたことだ。

つまり、秋元氏は、私が日本大学文理学部哲学科に非常勤講師としてお邪魔していた当時の教え子であり、私の「哲学ディベート」形式の授業から「学問的態度」を修得してくれたというわけである。教師冥利に尽きる(笑)!


本書のハイライト

私は、倫理学者というものは、社会から距離を置いて浮き世離れした問題にばかり取り組むのではなく、現実に人々が抱え、苦しんでいる問題を取り上げ、風穴を開けるような存在であるべきと考えています。その試みが結実するかどうか分かりません。しかし、少なくとも私はそういった意志だけは持ち続けたいと思っています(p. 224)。

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著者プロフィール

高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。

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