見出し画像

【第6回】雲に覆われた山が朝日に染まる瞬間|パタゴニア編(後編)

数々の極地・僻地に赴き、想像を超える景色に出会ってきたネイチャー・フォトグラファーの上田優紀さん。ときにはエベレスト登山に挑み、ときにはウユニ塩湖でテント泊をしながら、シャッターを切り続けてきました。振り返れば、もう7大陸で撮影してきているかも!? そこで、本連載では上田優紀さんのこれまでの旅で出会った、そして、これからの旅を通して出会う、7大陸の数々の絶景を一緒に見ていきます。第6回はパタゴニア編後編。フィッツ・ロイと呼ばれる、年中雲に覆われた山のまだ見ぬ一面を探しに向かいます。


色づくパタゴニア

あの不思議な夜の後、何かに取り憑かれたように山を登り、原生の森を歩き、時には川に入って、時間の許す限りシャッターを切り続けた。はるか昔からほとんど姿を変えないこのパタゴニアの世界を写真に収め、後世に伝えていくことが、僕の写真家としての役目のように思えていた。そう、あのピューマのように。

パタゴニアは毎日、毎時間、常に違った景色を見せてくれる。コバルト色の湖がキラキラと輝く午前、空と大地が燃える夕暮れ、星々が一斉に謳う夜。どの瞬間も雄大で、だけどどこか哀愁のある、いつまでも心に留めておきたい時間が溢れていた。

特に靄のかかった早朝、夜でも朝でもない時間、月と太陽にほのかに照らされる靄が静かに山稜をつたって降りていく風景はいつも心を奪われた。太陽が少しずつ姿を現し、靄が通り過ぎると山に差し込む光が徐々に面積を広めていき、同時に世界が一斉に色づき始める。太陽に照らされた大地は光の当たっている場所からゆっくりと目を覚ます。鳥たちは各々にさえずり、南極ブナたちにおりていた霜も溶けていく。遠くでは氷河が崩落する音も聞こえる。靄が晴れ、太陽がパタゴニアを照らす時間、大地に生命力が溢れていく景色はただひたすらに美しく、山の上からひとりそれを望む時、世界中の命と向き合っている気がして、僕自身も生きていると強く実感できた。

煙を吐く山を目指して

トーレス・デル・パイネ国立公園を二週間ほど歩いた後、チリから国境を越えてアルゼンチンに入った。ロス・グラシアレス国立公園内にあるフィッツ・ロイという山を撮影するためだ。

フィッツ・ロイは、アウトドアブランドであるパタゴニアのロゴマークになっている山と言えば、「あぁ、あの山か」と想像できる人もいるのではないだろうか。この地に住む先住民からは「煙を吐く山」を意味するチャルテンと呼ばれている。あまりに煙に覆われたその姿を見て彼らが火山だと信じていた通り、フィッツ・ロイはパタゴニアの複雑な気候によって、一年のうちほとんどが厚い雲に覆われた山であった。

フィッツ・ロイやセロ・トーレなど世界的に有名な名峰を眺めるトレッキングの道のり自体はそれほど長くなく、三日もあれば踏破できるものだった。だが、なにしろ悪天候で有名な山である。途中でベースキャンプを設置しながら、一〇日間かけて撮影を敢行することにした。

麓の村で、山ごもりの準備を進めていたある日、行き慣れた小さな商店に入った。いつきても品揃えは貧しく、野菜はほとんどしなびていた。この村のどの店もほんどが大差のない状況で、いかにこのパタゴニアが果ての地で物流が滞っているのかがよく分かる。その証拠に、この地域の物価は異常に高く、日本の倍ほどの値段で売られているものも珍しくない。

その日は風が強く、歩くこともままならないような日だった。カウンターではいつものように店主が暇そうに新聞を眺めている。自分ではどうすることもできない天気に呆れて、風が強いね、と話しかけると、「パタゴニアだからさ。」と返された。何気ない一言だったが、これこそが僕が今ここにいる理由の全てだった。どんなに人間が文明を発達させようが関係ない。ちっぽけな僕が何をしても、どう願っても思い通りになんて一つもならない。全てはこのパタゴニアの、地球の気分一つ。そんな場所だからこそ写真を撮りたいと思ったのだ。大切なことを思い出したようで少し嬉しかった。自分でも何度もつぶやいた。ここはパタゴニア。そう、ここはパタゴニア。

世界の果ての短い秋

準備はとうに済んでいたが、嵐のような毎日が続いていた。ある朝、久しぶりに雲の隙間から太陽が顔を覗かせた。相変わらず村から見えるフィッツ・ロイは雲に隠れていたが、天気図を見ると、これからしばらくは天候が安定しそうだった。すぐにパッキングして、宿をチェックアウトした。撮影機材にキャンプ用品、食料などを入れたバックパックはパイネの時と同様に大きく膨れあがっていたが、もう何度も背負い上げ、何百キロメートルと歩いているからか、それほど苦労せずに歩き出すことが出来た。一時間あたり二キロメートルしか歩けないのには変わりはなかったが、この時はほんのわずかな気持ちの余裕が今まで気づかなかったパタゴニアの秋の色を発見させてくれた。

三月後半、南半球のパタゴニアではこれから短い秋を迎える。長く厳しい冬に入る前のこの季節、普段は彩度の低いパタゴニアも色鮮やかに変化する。南極ブナは赤色に染まり、キイチゴやマキュベリーはこの季節を待ち望んでいたかのように一斉に豊かな実をつける。マキュベリーは聖なる木とも呼ばれ、古来より先住民のマプチェ族たちの健康の源とされていた。もしかしたら、かつてのマプチェ族の人たちもこんな風にこの山道を歩いていたのかもしれないな、そう思うと少し嬉しくなった。

村から四時間ほど歩いてベースキャンプに到着した。森の中にテントを張って一休みする。そこはとても気持ちのいい場所だった。冷たい風が汗ばんだ体の熱を冷ましてくれ、木漏れ日も優しい。鳥たちの鳴き声や近くを流れる小川のせせらぎも心地いい。全てが完璧だったが、フィッツ・ロイだけが雲に覆われて姿を見ることができなかった。

朝が滲む頂

それからここをベースキャンプにして来る日も来る日もパタゴニアの大地を歩き回った。森を超え、氷河に迫り、山を登って、朝から晩まで歩いてその全てを記録しようとした。時には寝袋と食糧だけを持ってさらに山の奥へと進んで野宿をすることもあった。そうして一〇日がたった頃、食糧の底が見えはじめた。まだフィッツ・ロイの全景を拝めていないことは残念だが、そろそろ潮時かなと思いながら眠りについた。

朝四時、目が覚めて外に出ると月が明るく森を照らし、珍しく雲ひとつない。こんな日ははじめてだ。これならもしかして……。特に目的もなく歩き回っていたが、ひとつだけ見てみたい風景があった。雲ひとつない朝、一瞬だけ朝日がフィッツ・ロイだけをオレンジ色に染めるらしい。普段は雲で覆われていることが多いため、よほど運が強くないと見られないが、その姿は大層美しいと村の商店のおじさんが教えてくれていた。

早速、コーヒーを沸かしてテルモスに入れ、それとカメラをバッグに詰め込んでテントを出発した。真っ暗な中、急な傾斜を一時間ほど登ると、撮影するのにちょうど良い岩を見つけたので、その上に三脚を立てて待ち構えた。大きな月が山の後ろに隠れて行き、少しずつ空が明るくなっていく。僕はこの時間が好きだった。誰が名づけたのか、日の出や日没の前後三〇分の、美しい光が世界を覆う時間を写真業界ではマジックアワーと呼ぶ。真っ暗から紺色になり、次第にコバルトブルーから淡い青に変化していく空の色が移り変わっていく姿は、確かに魔法のように美しく、何ものにも変えられない瞬間だと思う。

それから少しすると、フィッツ・ロイの頂がオレンジ色に染まりはじめた。色のなかった山肌に朝の色がじわじわと広がっていく。その姿はまるでモノクロの世界にゆっくりと色がついていくように見えた。夜と朝の間、ほんの数秒だけフィッツ・ロイだけがオレンジ色に染まり、それ以外は空も森もまだ夜を抱えて暗闇に染まっていた。その瞬間を少し緊張しながら丁寧に写真に収める。

太陽の光が世界全体を明るくしたところで朝日のショーは終わりを告げ、夜は消えていった。すっかり太陽が昇り、明るくなってから持って来たコーヒーを飲んでようやく一息つくことができた。村に下りたらおじさんにこの写真を見せてあげよう。きっと喜んでくれるはずだ。そして、日本に帰ったらたくさんの人に届けよう。きっと今朝の僕と同じ気持ちになってくれるだろう。

世界を旅していると、なんでもっと早く生まれなかったのだろうと思う瞬間がある。このパタゴニアがマゼランに発見される前、アラスカが白人たちに入植される前、チベットの山奥に文明の利器が到達する前、今よりもっと素敵な世界が広がっていたのではないかと考えてしまう。

グローバリゼーションが地球から飛び出し、宇宙にまで到達するようになった今、この時代の流れはその速度を落とすことなく、さらに加速していくだろう。そんな時代だからこそ、今は無き風景や人々の営みを深く想像する。その地をひとり訪れ、観て、聴き、そして、想う。月光に照らされたピューマと遭遇した夜や靄が晴れわたっていく早朝、朝と夜の色にフィッツ・ロイが染まった瞬間、僕は間違いなく遠い昔、まだパタゴニアがパタゴニアという名を持つ前の世界に立っていた。こんな地球の物語をもっと知りたくて、僕はまた旅に出るのだろう。

著者プロフィール

1988年、和歌山県生まれ。ネイチャーフォトグラファー。京都外国語大学を卒業後、24歳の時に世界一周の旅に出かけ、1年半かけて45カ国を回る。帰国後は株式会社アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり、想像もできない風景を多くの人に届けるために世界中の極地、僻地を旅しながら撮影を行う。近年はヒマラヤの8000m峰から水中、南極まで活動範囲を広めており、2021年にはエベレスト(8848m)を登頂した。

世界最高峰への挑戦をまとめた
『エベレストの空』も好評発売中です!


光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!