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第五章 岡田彰布と森脇浩司――オリックスはなぜ優勝できたのか by喜瀬雅則

12月15日刊行の新刊『オリックスはなぜ優勝できたのか』第五章の冒頭を公開します。以下、本書の概要です(光文社三宅)。
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下馬評を大きく覆し、2年連続最下位からのペナント制覇は、いかに成し遂げられたのか? 逆に、なぜかくも長き暗黒時代が続いたのか? 黄金期も低迷期も見てきた元番記者が豊富な取材で綴る。

1994年の仰木彬監督就任まで遡り、イチロー、がんばろうKOBE、96年日本一、契約金0円選手、球界再編騒動、球団合併、仰木監督の死、暗黒期、2014年の2厘差の2位、スカウト革命、キャンプ地移転、育成強化、そして21年の優勝までを圧倒的な筆致で描く。

主な取材対象者は、梨田昌孝、岡田彰布、藤井康雄、森脇浩司、山﨑武司、
北川博敏、後藤光尊、近藤一樹、坂口智隆、伏見寅威、瀬戸山隆三、加藤康幸、牧田勝吾、水谷哲也(横浜隼人高監督)、望月俊治(駿河総合高監督)、根鈴雄次など。

12月15日発売! 現在予約受付中です。

以下、すべての抜粋記事を読めるマガジンです。

「当たり前のことができなかったんやからな、結局」

第五章 岡田彰布と森脇浩司

ちょっぴり、拍子抜けした。
厳しかった勝負師の目もすっかり穏やかになり、まとう空気もどこか柔らかかった。
「おう、久しぶりやな。どないしたんや?」
2021年(令和3年)6月1日、甲子園球場。
セ・パ交流戦の阪神―オリックス戦の試合前のことだった。
ラジオの解説を務める岡田彰布に、球場入りのタイミングを見計らって取材を申し入れようと、関係者入り口のエレベーターの前で、緊張しながら私は待ち続けていた。
「オリックスの監督時代の話を聞かせてほしいんです、監督に」
この業界、不思議な慣習がある。
担当記者を務めた球団で、その当時の監督として取材していた方には、現場を退いてからでも、どこでお会いしようとも、「監督」と呼び掛けるのだ。
だから、岡田に対しても、私は今もなお「監督」と呼ぶ。周りも、そして岡田も、そのことに違和感を持ったりしない。それが、野球界の〝不文律〟でもある。
5位、4位、そして勝負の3年目は最下位で、シーズンを全うできずに途中解任。
栄光に包まれた阪神、オリックスでの現役時代。阪神では優勝監督にもなった。
その岡田にとっては、決して〝いい話〟ではない。
「ええで。今度、4日にまた甲子園に来るから、その時にしよか」
私が手にしていた企画書に目を通すこともないまま、岡田はエレベーターが記者席と放送席のある4階に到着するまでの、ほんの数十秒の間で、取材を快諾してくれた。

岡田彰布は、阪神で「選手」と「監督」の両方で優勝を経験している。
現役時代の1985年(昭和60年)には、セ・リーグ優勝と日本一に輝いた。
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンアップが、その年の4月17日の巨人戦の7回、3者連続での「バックスクリーン3連発」
その締めくくりを飾る一発を放ち、球史に刻まれる伝説のドラマを築いた男は、古巣・阪神の第30代監督として、2005年(平成17年)にはセ・リーグ優勝も果たした。
東の巨人、西の阪神。戦前からの歴史を誇る老舗球団は、関西で絶大な人気を誇り、関西のスポーツ紙は、それこそ勝っても負けても「阪神」の見出しが、連日1面に躍る。
日々の結果で、原稿のトーンがそれこそ、天国から地獄、地獄から天国へと乱高下する。
些細なチーム状況の変化も、試合の流れの機微も見逃さない海千山千の記者たちや、重鎮の野球評論家たちの目が、常に光っている。
そんな衆人環視ともいえる大きな重圧の中で、岡田は阪神の看板選手として、さらには監督として、頂点に立った経験を持っているのだ。
阪神の監督としての5年間は、4位、優勝、2位、3位、2位。
その豊富な「経験」と「実績」こそが、低迷するオリックスには必要だった。

新生オリックスは、仰木亡き後の2006年(平成18年)から、近鉄との球団合併時にGMだった元阪神監督の中村勝広が後を引き継ぐことになった。
仰木が、その生前に「花道を飾ってやる」と移籍を呼び掛け続けた清原和博、さらには合併を機に近鉄からメジャーのロサンゼルス・ドジャースへ移籍した中村紀洋が、2006年に揃ってオリックスのユニホームに袖を通したが、チームは5位に終わった。中村はその年、痛めた左手首を手術したが、その〝公傷か否か〟の解釈を巡って球団と対立。「命をかけて野球をやれない」とわずか1年で退団することになる。
翌2007年(平成19年)には、メジャーのヒューストン・アストロズ、アナハイム・エンゼルスで監督を務めたテリー・コリンズを監督に招聘、さらに近鉄が優勝した2001年に、巨人・王貞治の持つシーズン55本の本塁打記録に並んだタフィー・ローズもオリックスへ入団したが、最下位に転落する。
翌2008年(平成20年)5月にはコリンズが途中辞任。かつての近鉄の盗塁王で、1軍ヘッド兼内野守備走塁コーチを務めていた大石大二郎が監督代行に就任すると、チームは2位に躍進、初のクライマックスシリーズ進出を果たした。
清原はCSに出場することなく、2008年シーズン終了後に現役を引退した。
2009年(平成21年)は一転、借金30で最下位に転落。大石は辞任、球団本部長の中村勝広もこの年限りで退団した。
合併5年で、4位、5位、最下位、2位、最下位。
しかし、岡田がいた時のオリックスは、こんなに弱く、不安定なチームではなかった。

岡田の現役引退は、1995年(平成7年)のオリックスだった。
体力の限界と判断した阪神が、1993年(平成5年)限りで自由契約にした岡田に即座に声を掛けたのは、オリックスの監督に就任した直後の仰木彬だった。
だから、仰木マジックも、イチローの躍動も、田口壮の活躍も、岡田はその目でつぶさに見てきた。阪神・淡路大震災という未曽有の大困難を乗り越えてのリーグ制覇を、岡田は現役最後の年に、現役プレーヤーとして体験しているのだ。
仰木の勧めもあり、現役引退後にはオリックスの2軍助監督兼打撃コーチとして、指導者としてのスタートも切っている。
第二の古巣・オリックスは、そんな弱いチームではない。岡田はそう思いながら、常に気にかけて、その動向を見続けてきたという。
阪神監督を退任してから、わずか1年での現場復帰だった。
「変えなあかんことが、いっぱいあったからな」
勝てるチームに変貌させてみせる。そのための岡田の「要求値」は高い。
そのタクトに、言葉に、そのためのエキスを詰め込み、岡田は発信し続けた。

岡田の「回想」は、こちらが疑問を挟む余地がないほどにクリアで、痛烈で、そして何よりも、驚きの要素がたっぷりと含まれた裏話ばかりだった。
「忘れもせんで」
2010年(平成22年)の就任1年目。
岡田オリックスは、7勝1敗と開幕ダッシュに成功した。
本拠地・京セラドームに戻ってきての千葉ロッテ戦。ロッテも6勝2敗と好調なスタートを切っていた。
4月2日からの首位攻防3連戦、その試合前のバッテリーミーティングでの出来事だった。
部屋の最後尾にいた岡田は、スコアラーが行う報告に、思わず耳を疑った。

ロッテが、よう打ってたんや。めちゃくちゃ調子良かったんや。
その時、スコアラーが言うたんや。
「ロッテ打線は絶好調です。どこ投げても、今打ちます」って。
で、ちょっと待て、って。
「どこ投げても」って、今までは、そんなミーティングやってたかも分からんけど、どこ投げても打たれます、って言うたら、これ、バッテリー、どないするんや、って言うたんや。
やっぱり、そんな感覚でやってたんやな、と思ってな。
すごい言葉を聞いたからな、俺は。ミーティングでな。これはアカンわ、と。
緩さ、かな。負け慣れっていうのもあるかも分からんけどな。
そういうのもあって、これは変えていかなアカンと。そういうのは、な。
自信持って、ここへ投げて下さいと。
責任は、自分がミーティングをやってきてるんやから、自分で責任持ちます。
そういうくらいに、スコアラーももっと言わなアカンよと。
経てないんよ、勝つための作業いうか、プロセスをな。
選手も「そしたら、どこへ投げたらええんですか」って質問したらええやん。それも、何もせえへん。聞いてるだけなんよ。
そんなん、いっぱいあったわ。
当たり前のことよ。当たり前のことができなかったんやからな、結局。

試合前のミーティング。そこで、スコアラーが事前に編集した相手チームの試合映像を見て、データも集計した上で、相手の攻略法や弱点、現状を確認していく。
その日の試合の戦略と対策を打ち出すための、大事な時間である。
それが、あまりにもおざなりだった。どこか他人事のような口調で語るスコアラーたちの緩い分析に対して、選手たちからも全く反応がなく、質問の一つもない。
岡田は、その〝ぼんやりとしたミーティング〟に、ショックを受けた。
「もう、俺がやるわ」
データをもとに、岡田がその〝読み取り方〟を伝授する機会が増えた。
それは、スコアラーがやるべき任務を、岡田が手本として見せる意味もあった。(続く)



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