マリもフランスも中国も日本もアメリカも「自由の国」ではなかった|ウスビ・サコ
第1章 「私」と自由(ウスビ・サコ)
私は建築学が専門です。建築空間と社会の関係性を長年研究してきました。その私がなんで自由論をやるのか、不思議に思う人もいると思います。
なぜ私が自由論をやりたいのか、なぜ私に自由論が必要なのかと振り返ったときに、私自身が不自由だったんじゃないか、と気づいたのです。それは構造的な不自由さです。振り返ると、私の人生は、不自由な社会のなかでどう自由を得るかという闘いの連続でした。
人間社会は、人を不自由にするものをつくって、成り立たせています。社会の規律や法律、経済の仕組み、教育の仕組み、ありとあらゆるもので、社会は不自由さにあふれています。「大人になれば自由になれるんだ」とか「勉強すれば自由になれるんだ」とか「金持ちになれば自由になれるんだ」とか、多くの人が自分のなかで自由になるための闘いを設定していると思います。ただ、それが自由になるためなんだと意識するかしないかで、全然違ってくるんですね。
私は小さい頃、たくさんの人に囲まれて育ちました。私の出身国のマリ共和国では、一つの家に家族だけでなく、親戚や、親戚の友達、知り合いなど、「こいつ、誰やねん、どういう関係なんや」と思う人がたくさん居候していることが、普通にあるんです。
我が家でも、知り合いの知り合いがある日突然訪ねてきて、気がつくと一緒に生活しているんです。30人くらいが同じかまどの飯を食べていました。
子どもは親ばかりでなく、居候の人からも叱られます。そんななかで、早くお手伝いの家事を終わらせればサッカーができるとか、早く宿題が終われば川で遊べるとか、小さな自由を得るために、自分なりにがんばってきました。特に勉強が好きというわけではなかったんですけど、宿題を間違えるとやり直さないといけないので、それが面倒臭くて中高のときは速く正確に問題を解いていました。勉強が手段になって、それで自由を獲得していたんです。
それが、国費留学生となって外国の大学に留学してから、自由を求めるステージががらりと変わりました。
あたりまえですけど、マリでは周りがみんな黒人系、アラブ系などだから、自分が黒人であることを意識したことがありません。もちろん、黒人ということは知っていますが、それが何を意味するか、黒人が世界のなかでどういう位置づけにあるのか、意識していなかったということです。自分の国のなかにいる限り、深く考えることはなかったのです。
国費留学生として中国へ行くために経由し、短期滞在した国はフランスでした。しかし初めてフランスに行ってショックを受けました。同胞のマリ人がフランスでどんなふうに活躍しているのかと期待して行ったのに、フランスでは道の掃除をしているのが黒人で、その周りで犬の散歩をしてフンを散らかしているのが白人でした。国費留学生として一定のプライドを持って行ったのに、プライドはズタズタになりました。
次に、国からの指示で中国に留学に行くことになりました。中国でも差別されたり、バカにされたりすることもしょっちゅうあって、あたりまえがあたりまえじゃない、自分の価値観が通じない境遇に陥りました。フランスでも中国でも、ものすごい不自由でした。そこからどう自由をつかみとったらいいのか、いろいろともがきました。
自由になるために必要なことは何か。私にとってそれは、知識やスキルを身につけることでした。他者から植えつけられた役割や偏見を打ち破っていくことが必要で、知識とスキルを増やせば増やすほど、権威を身につける自由を得ることができると思いました。そこには、新しい尊厳が与えられる自由がありました。
公用語のフランス語に加えて英語や中国語を学んで、自分の意見をちゃんと言えれば、バカにされっぱなしじゃなくて、言い返すことができました。マリで学んでいた実存主義やサルトル、ソクラテスなどの知識を使って、相手にちゃんとものを言うことができました。知識とスキルを身につけることによって選択肢が広がったんです。誰と付き合うか、どんな遊びをするか、自分で選択できるようになりました。もう周囲に流されたくない、と思いました。
ネルソン・マンデラがなぜ服役しているのか、パレスチナがなぜ地図から消えたのかについて、留学生同士で毎週のようにディスカッションやディベートをしました。しかし、共産主義や社会主義の批判などの言論が中国では自由にできません。多くの学生が天安門事件を目の当たりにしたのに、事件後、中国の学生は誰もそれについて話さなくなったのです。そこから見ると、当時の日本はものすごく自由に見えました。
それで、日本にやってきたのです。ただ、自由の国だと思ってやってきたのに、実際に日本で暮らしてみると、日本人は共通して不自由さのなかで生きていました。多くの若者はみんな早い段階から「生きてるだけでいいや」「社会全体を自由にするのは無理」とあきらめちゃっているんです。知識を持っていても不自由、金持ちでも不自由、大人も不自由、子どもも不自由、男も不自由、女も不自由、個性すら自分を不自由にしているのが、日本でした。
もちろん、日本でも私は不自由でした。京都大学大学院生のときも、嫌な気分になることが多くありました。「この国には(マリと違って)何でもあるから来たんだろう」と出稼ぎ労働者のような扱いを受けたり、同じ研究の仲間から自分の書いた論文を私に投げつけられ、「こんな内容お前には想像もできへんやろ」とバカにされたこともありました。
それで日本語を勉強して、言論の自由、ディベートする自由を得てきました。研究を続けて、人から尊敬される人間の価値をつけるしかないと奮闘してきました。
そうやって研究者になったけれど、今度は研究成果を出せば出すほど、不自由になっていきました。ゼミで教えている学生は私の仲間だと思って、焼肉を食べに韓国まで連れていったら、学生は他の授業もあると大学側に叱られました。シラバスやカリキュラムは守らなくてはいけないと言われ、自由に教えることもできません。制度のぶつかり合いがありました。
今度は、自由の模範ならアメリカだろうと思って、在外研究で客員研究員としてハーバード大学に行きました。でも、実はハーバードが一番不自由でした。学内の教授や学生たち自身がお互いに「ハーバードらしさ」を求め合って、不自由になっているんです。外部の人たちは誰も求めていないのに。そして日本に戻ってきました。学生たちとゆっくり議論したいと思って、戻ってきたのです。
結婚するときも日本人の妻の両親は最初は不安で、反対しました。けれど、真面目に勉強し、周りの人と信頼関係を築いていくうちに、大学でも家庭でも少しずつ認められて、自由を獲得していきました。そして、大学の学長選挙で学長に選出されるまでになりました。
それでも、今も日本の社会の不自由さに戸惑うことが多くあるんです。
例えば、私が学長になったときも、あるメディアに出演したとき「黒人大学長」とテロップに書かれたことがあります。「なんで黒人ってつけるん。ただの学長でええやん」と私は思うんです。一人の人間として見る前に、黒人とか、アフリカ人とか、何かしらフレームをつけようとするんです。これはものすごく不自由です。
社会が近代化を受け入れた時点で、社会を機能的に、合理的に動かしていくために何もかもカテゴリー化して、クラシファイ(分類)する必要が生まれたわけです。社会はそうやってフレームをつくってきました。それを自分のなかで意識しているかいないかで、人生は変わってきます。自分に満足している人はその意味が分かればいいし、満足していない人はこのことの意味を理解して、乗り越えていかなきゃいけない。
日本は完全に自由だと思い込んでる人が多いかもしれないけど、この社会が完全に自由だと思っちゃいけない。実はよく見ると不自由があふれていて、さまざまな問題を引き起こしているのです。もちろん、自由を考えて結論が出るわけじゃありません。でも、自由を考えてこそ自分が自由を獲得できる、と思うのです。
社会は複雑に構築されているから、誰にとっても自由な社会なんてものはありえません。例えば、〇〇解放運動とか、ある共同体の自由を求めると、それが誰かを不自由にしたり、不幸にしたりする可能性があるわけです。
じゃあ、どういうふうに自由を求めるか。それを考えるのが、この自由論です。不自由な社会をいかに生きるか、そういう自由論なのです。