「著者である蓮實個人の視点など学ばれるにはおよびません。」――蓮實重彥著『見るレッスン 映画史特別講義』より
光文社三宅です。昨年暮れに、蓮實重彥先生の『見るレッスン 映画史特別講義』を刊行しました。刊行直後から「なぜ、光文社新書から……」というざわめきが聞こえてきましたが、たいへん好評で、すぐに大増刷が決まりました。本書は蓮實先生にとって初の新書となりますが、もしかしたら最後の新書になるかもしれません。光文社から刊行された経緯や、今後の新書刊行の有無については、本書のあとがきをご覧ください。本記事では、新書でも「蓮實節」炸裂のまえがきを公開します。何も言えません。とにかく読んでください。
はじめに 安心と驚き
まずこの書物を読んでくださる方々にお願いしたいのは、世間で評判になっている映画ばかりを見るのではなく、評判であろうとなかろうと、自分にふさわしい作品を、その国籍や製作年代をこえて、自分自身の目で見つけてほしいということです。そのためには、妙に身がまえることなく、ごく普通に映画を見ていただきたい。著者である蓮實個人の視点など学ばれるにはおよびません。もっぱら自分が心から共感できる作品を見つけるために、映画を見ていただきたい。
例えば、現代の日本映画は、かなり高い水準の作品がそろっています。ここ数年を見ただけでも、カンヌで注目された濱口竜介監督の『寝ても覚めても』(2018)やロカルノで注目された三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』(2018)、 きわめて個性的な鈴木卓爾監督の『嵐電』(2019)、すでにヴェテランの域に達した黒沢清監督の『旅のおわり世界のはじまり』(2019)、是枝裕和監督の『万引き家族』(2018)、あるいは超ヴェテランというべき中島貞夫監督の『多十郎殉愛記』(2019)、等々、面白い作品はたくさんあります。ところが、最近話題になった日本映画といえば、上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』(2017)ぐらいしかありません。
『カメラを止めるな!』は、ある女性から聞いた話では、彼女の住むマンションのママたちはみんな見ていたらしい。でも、それはないだろうと思います。だから、自分の好きなものを発見せよと言いたい。自分の好きなものが他の人々の趣向と合っていようが合うまいが、気にする必要など全くありません。
気に入ったものを発見して、ある程度好みがかたまってきたと感じたなら、今度はちょっと違うものにも触れてみようという気持ちを持つことも必要です。とにかく映画の歴史というのはサイレントから始まり、かりにサイレントで映画が終わっていたとしても、エリッヒ・フォン・シュトロハイムにせよフリッツ・ラングにせよ、人類の資産としては素晴らしいものが十分すぎるほどあるわけですから。そうすると、その後なぜ、映画がこんにちまで生き延びてきたのかを考える時、『アベンジャーズ』(2012〜)シリーズの最終巻の一本ではそれは分かりません。
少しタイトルと矛盾するような言い方になりますが、見ることだけが絶対視されてはいけないと思っています。映画はあくまでも作り手が撮らなければならない。その撮られたものをどのように見るかということを一般のわたくしたちは気にしているのであって、まず見ることの優れた人よりも、撮ることの優れた人を育てなければならないと思っています。そのために少しでも見ることが力になれば、それに越したことはない。
今はわたくしなどがコメントを書いて、それで映画に客が集まるという時代ではなくなってきています。ただし、蓮實の名前を使っておけばいいといったプロモーションの目的で、形としては時々コメントを出しますが、それで見に行く人なんてごく限られているわけでしょう。そういう時代に、誰が何を見て楽しんでいるのかということをあまり気にすることはない。ただし、見るからには本気で見ろよと言いたい。
そして、ほとんどの人は物語を見て、あとは裏事情が気になるかどうかという状況で、2時間ちょっとという上映時間はあまりに長すぎると思います。1時間45分でまとめろよとわたくしは思いますが、しかし2時間ちょっとの間、劇場に行くというのは特権です。義理ではなくて特権を行使するなら、その映画の最も優れたところを見なければいけない。その最も優れたところは、目を見開いていないと絶対に見えない。見ることのレッスンというものが、かりに存在し得るとしたら、どのような瞬間に目を見開くべきかを習得するということであり、実際にある程度分かるものです。
ところが、これから本編で詳しく述べるように、映画がある程度分かるという気持ちは安心感をもたらすものですが、その安心感を崩すような瞬間が映画には必ずある。だから、映画を見て、まず驚かなければならないし、どぎまぎしなければならない。しかし、そのどぎまぎする感覚をいかに「これは映画だ」という安心感の中で得られるか、どれだけ驚けるかということが、見ることのレッスンだと思います。
さらに、驚きばかりを求めるだけでは駄目だし、安心ばかりしていたのでもいけない。安心と驚きの中で、絶対に崩してはならない平衡状態のようなものはない。ある時はひたすら驚いても構わない、またある時はひたすら安心しても構わないということが、まず映画を見るうえで一番重要なことです。
ですから、一篇の娯楽映画を安心してずっと見ていたとしても、これは一向に構わない。ただし、その安心の中でも、ふとした時にある装置の一カ所が非常にうまく作動することがある。映画には必ずそういう瞬間が紛れ込んでいるはずです。逆に言うと、それがないようなものは駄作。
例えば、三隅研次監督の『座頭市血煙り街道』(1967)の最後に勝新太郎と近衛十四郎が対決する場面で、白い壁がずっと伸びていき、そこに突然降ってくる雪の濃さといったようなものに驚ければ、それに越したことはない。
近衛も本当にあの映画では素晴らしかったと思います。彼はおそらく一番チャンバラがうまい人だと言われていましたが、ここではほとんど丁々発止とは切り結ばない。ちょっと血を流して去って行くだけ。すなわち、それは演出がすごいということだし、美術がすごいということだし、キャメラがすごいということです。
そういう場面に驚き、その驚きを安易に自分で納得するのではなくて、自分はこんなことに驚いていいのかなというところまで行ければ十分だと思います。その葛藤の末に、「よし、これに驚いた自分は間違ってはいない」と思えるかどうか。もちろんその確信はどうすれば得られるのかは大きな問題ですが、それはやっぱり映画を見ていなければ分かりません。
喜びとともに、本当に喜んでいいのかという不安。ただ喜んでいるだけでは駄目だし、ただ心配になっているだけでも駄目なのです。その塩梅は、やはり実際に映画館で画面と向かい合う孤独みたいなものを体験することでしか得られません。とにかく、それぞれの方が「向こうまで伸びている白い壁」に当たるものを探してくださればいいのです。
一つ不幸なことは、例えば大映京都製作みたいな高度な作品が毎週出ている時代とは全く違う状況だということです。そうした映画の黄金期に関わった人たちが少しずつ消えていってしまうこの時代に、それに代わるような人材がいるのか。
わたくしは、大きな組織はともかく、個々人としては絶対にいると思います。ですから、最後のもう一つの問題は、やはり日本には優れたプロデューサーが出てきていないということ。それは東京国際映画祭も同じこと。辣腕のプロデューサーがいない。映画を撮りたい人は山ほどいます。どうしてあんなに映画を撮りたいかと思うぐらい。それに応えるには、優れたプロデューサーが少なくとも現在の日本に最低3人いないといけません。ところが一人もいない。『リング』(1998)、『らせん』(1998)などを手掛けた仙頭武則さんが、かろうじてもう一度撮り始めようとしているのですが、かつての「どうでもいいや」と思ってやるようなすごさはもうない。
また、一批評家にすぎないわたくしのような者がお小遣いをあげたって仕方がないと思うのですが、しかるべき人には、たとえ3万円でもクラウド・ファンディングのようなものをする機会があれば、それは出すべきだと思う。わたくしも事実、ときどき出したりしています。
もっと若い時期には、わたくし自身も劇場へ行って客引きぐらいはしていました。今でも時々、上映の前後にお話くらいはしていて、少しは人が来てくださるようですが、時々頭がフラフラするくらいの年齢ですから、それも難しくなってきています。
要するに批評家としてのわたくしは単純でしたから、いいものはいい、悪いものは悪いということをみんなに言おうとしていただけなのです。それは結局、自分が好きだとか嫌いだとかいう話になるのですが、それでもお客さんが来てくれるものならという思いで、劇場まで行ってお話ししていたのです。いまはなかなかそんなことはできませんが、であるならば、蓮實に代わるべき人が、あと二人か三人出てきてくれないといけない。しかも、その人には、ことさら映画芸術という形式にこだわらないで、ごく普通に劇場に人を呼ぶということをやってもらいたい。
また、女性にも映画界を盛り上げてくれる人がもっと出てほしい。高野悦子(1929〜2013、映画運動家)さんみたいな人がいいかどうかは別として、少なくともあのぐらいの人が出てくれないと困るし、世界的に誰とでも話ができるような、川喜多和子(1940〜1993、フランス映画社元副社長)みたいな人も必要です。今、フランスにいたりアメリカにいたりする人たちで、そういうことが全くできないわけではない人たちがいるはずです。
とはいえ、女性も皆無ではなく、アンスティチュ・フランセの坂本安美さんは誰とでもしゃべる活発な方で、こういう人にもっと活躍してほしい。シネマヴェーラの内藤由美子さんも頑張っておられて、現在執筆中の「ジョン・フォード論」をまだ書き上げてもいないのに、来年にフォード特集をやるから出版はいつ頃か言ってほしいという具合に、熱心きわまりない方です。しかし、彼女たちにしてもこのままでは一代で終わってしまう。ですから映画界は、もっと積極的に、こうした女性たちの才能を有意義に活用しなければいけません。
では、なぜわたくしたちは映画を見るのか。映画など見なくたって、人類は生きていけるわけです。にもかかわらず、皆さんの生活次第では「見る」ということが決定的な行為になるのです。
先日の京都アニメーションの放火事件で、現場に詰めかけた人たちが、「京都アニメによって私たちは救われていた」ということを語っていましたが、それは映画を見ることとは違います。映画は「救い」ではない。救いとなる映画はあるかもしれませんが、救いが目的では絶対になくて、映画とは現在という時点をどのように生きるかということを見せたり考えさせたりしてくれるものです。
時には見たくないものを見なければいけないこともある。だから、「救い」という言葉が使われた時にわたくしは無闇に腹が立ちました。「救い」を求めて映画を見に行ってはならない。似たようなニュアンスの言葉に「絆」や「癒し」などもありますが、そんなもののために映画ができたわけではありません。
映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるはずなのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。
目 次
はじめに 安心と驚き
第一講 現代ハリウッドの希望
ショットを心得た新しい才能 映画の成否を分ける点 最先端に触れようとする姿勢 女性監督の台頭 90分ですべては描ける
第二講 日本映画 第三の黄金期
海外も注目する若手たち ドキュメンタリーで光る女性監督 障がい者の日常をとらえた佳作 運動と時間 純粋な美形の不在
第三講 映画の誕生
原型は「モノクロ・スタンダード」 監督が編集権を握る日本 淀川長治が愛した映画 幻の溝口映画 プリント発掘こそ評論家の使命 「バス映画」の金字塔 『スピオーネ』を見ずしてラングを語るな 「現在」としての伊藤大輔 キートンの動きを誰も超えられない
第四講 映画はドキュメンタリーから始まった
長編を撮り続ける大老 「だまし」の天才・小川紳介 小学2年で初鑑賞 日本で今撮られるドキュメンタリー 亀井文夫から羽仁進、大島渚、吉田喜重へ
第五講 ヌーベル・バーグとは何だったか?
『勝手にしやがれ』の思い出 『カラビニエ』と『シャイアン』 反『カイエ・デュ・シネマ』 他国での動き 日本で唯一の作品 フランスの現在 批評家出身者たちの成功
第六講 映画の裏方たち
新しい動きの陰にキャメラマンあり ハリウッドはヨーロッパが作った 日本の名監督を支えたキャメラマン 脚本と映画の関係 美術監督という仕事 プロデューサーの不在
第七講 映画とは何か
今も複製芸術として存続 8Kに挑む黒沢清 「存在の色気」が驚きを生む ブレッソンと手の動き ディズニーという単調さの支配 これでいいのか東京国際映画祭 映されたものはすべてフィクションである