山口周さんの幻のデビュー作『グーグルに勝つ広告モデル』を全文公開!【その2】2章~3章
2章 アテンションのゼロサムゲームから脱却できるか?
アテンションの総量が増えないことがわかっているのに、アテンションを奪い合う競合の数は増えている。これはゲーム理論でいうゼロサムゲームです。プレイヤー全員の損得の合計がゼロになるゲーム、誰かが得をすれば必ず誰かが損をするゲームです。
では、メディアは将来的に、生き残りをかけて流血の争いをするしかないのでしょうか?
いいえ、筆者は必ずしもそうだとは思いません。実は、人類の歴史においてはゼロサムゲームの不毛を非ゼロサム化することで乗り越えた、という事例がいくつもあるのです。
ゼロサムゲームを脱却するキーポイントは、「ゲームの単位を変える」と「サムの総量を増やす」の二つです。
事例を使って説明しましょう。
*ゲームの単位を変えた織田信長
織田信長は、おそらく日本の歴史上最初に、なぜ戦国時代がいつまでも終わらないかということの本質的な理由を見抜いた人でしょう。
日本の国土はほとんどが山岳地で、畑作に適した土地は1割程度しかありません。そのため、土地をめぐって争うと必ずゼロサムゲームになるので、すべてのプレイヤーが満足する状況は永遠に生まれ得ないことに、信長は気づきました。
信長は、最終的に天下を自分の手中に収めたとしても、このゼロサムゲームは終わらない、ということを見抜いていたのでしょう。勲功を上げた部下の地領を増やそうとすれば、自分を含む誰かの地領が必ず減ります。
したがって、部下を叱咤し手柄を上げさせて褒美として地領を増やす、という動機付けシステムは、一時的に合理的なだけで、構造的にいずれ破綻することを宿命付けられた、非常に問題のあるシステムだったのです。この破綻の構造は、今現在多くの日本企業が給与・年金問題で陥っている状況とまったく同じことです。
では、この破綻を回避しようと思ったらどうすればいいでしょうか?
方法論は二つあります。一つは、ゼロサムのサム=耕作地の総量を増やすことです。豊臣秀吉が実行した朝鮮出兵も江戸幕府の新田開発活動も、このアプローチに当たります。
しかし、信長は別のアプローチを採用しました。簡単にいうと、彼は土地が褒賞になるというゲームのルールを棄てさせたのです。
どうやって?
茶道によってです。信長は自ら茶道を嗜み、茶器を広大な地領と交換することで、観念としての「価値」を生み出しました。これによって、「価値」が土地に結びついた有限のものから、権力者の意思によって増減可能なモノに変貌したのです。一種の通貨を生み出したといえるかもしれません。
ゼロサムとは総計が一定になることですから、無限に供給可能なものを奪い合うのはゼロサムゲームになりません。これが、信長が実行したゼロサムゲーム脱却のアプローチです。
*サムの総量を増やした農耕と牧畜
農耕と牧畜は、文明発祥の基本要件の一つとされています。農耕と牧畜が生まれなければ、単位面積あたりの生産カロリーが低すぎ、人口密集度を高められないからです。
農耕と牧畜を生み出す以前の人類は、狩猟と野生植物の採取により、生存・繁殖に必要な栄養を摂取していました。狩猟も野生植物の採取も、獲得できる量は土地の量に依存します。人類が、古代から戦争を行ってきた理由はこの点にあります。
農耕と牧畜が生まれたのは、限られた面積を奪うことで収穫量を増やすのではなく、すでにある土地により多くの動物や植物を増やすこと、つまり土地の面積あたりの生産効率を上げることで収穫量を増やすという方向にアプローチを変えたからです。
ゼロサムゲームを解消するためのアプローチとして、「ゲームのルールを変える」「サムの総量を増やす」という二つの点について述べました。これをメディア/コンテンツ産業になぞらえて考えると、どうなるのか? 次章以降で考察してみましょう。
知ることがむつかしいのではない。いかにその知っていることに身を処するかがむつかしいのだ。(司馬遷『老子・韓非列伝』)
3章 マスメディアの競合としてのインターネットメディア分析
ここまで、マスメディアビジネスの本質は消費者のアテンションの卸売業であること、そして、そのアテンションを奪い合う競合が爆発的に増加することから、マスメディアが獲得できるアテンションの総量は減少しこそすれ、増加させるのは非常に難しい、ということを説明しました。
であれば、今後マスメディアが現在の事業を維持・発展させるためには、登場してきた新興の競合たちに対して、どのようにして優位性を獲得し、事業を行っていくべきなのか、というのが論点として浮上してきます。つまりマスメディアとして、インターネットメディアを仮想敵とした競争戦略の策定が求められるわけです。
この章では、マスメディア企業に求められる新たな競争戦略策定の基礎となる競合分析を行ってみます。
*競合分析としてのインターネットメディア分析
インターネットメディアの新しさについては、これまで様々な識者や経営者が分析を行っていますので、ここでは社会学的・メディア学的な側面からの新しさについての分析をするつもりはありません。ここでの分析の焦点は、
①消費者のアテンションを獲得するパワー=仕入れの戦い。
②獲得したアテンションを販売するパワー=卸売りの戦い。
の二点です。
インターネットメディアは、どこがどう強いのか? 一つひとつ検討してみましょう。
*仕入れの戦い=インターネットとマスメディアの代替性をどう判断するか
消費者のアテンションを獲得するパワーという点で、インターネットとマスメディアはどのような競争関係にあるのでしょうか?
もっと平たくいえば、既存マスメディアが獲得していたアテンションのうち、インターネットはどの部分を奪うのでしょうか?
結論からいえば、消費者にとってネットと代替性の高いアテンションから、順番にシフトしていく、ということになります。
この代替性の高低は、個別メディアによって異なるので、具体的な分析は個別メディアへの提言の章(5~9章)に譲るとして、ここではインターネットとマスメディアの代替性の高低、つまり、乗り換えやすさを検討するためのフレームワークを考察してみます。
インターネットとマスメディアの代替性は、
①提供情報。
②情報の消費シチュエーション。
③アクセススタイル。
の三つのポイントを分析することで、判断が可能ではないかと考えています(図3)。
*「提供情報」だけでは判断できない
これまで往々にして陥りがちだったのは、「提供情報」の点だけを議論して、ネットに食われるとかネットに進出すべきといった浅い結論に至ってしまう、というものです。
確かに、既存メディアが提供している情報が、インターネットによっても提供されるようになれば、そこに競合関係は生まれます。しかし、インターネットというのは場所とツールに様々な制約を抱えていますから、もともとその既存メディアがどのようなシチュエーションで、どんなアクセスのされ方をしていたのかを検討しないと、ネットによる代替性の高さは判断できません。
AMラジオを例にとって、ちょっと考えてみましょう。
AMラジオの通常の番組形態は、パーソナリティとそのアシスタントがいて、ニュースや時事ネタ、風物を解説・紹介するというものです。このコンテンツを「提供情報」という側面からだけ分析すると、ネットで簡単に代替できてしまうという結論になります。
しかし、実際のところどうか?
後ほど詳述しますが、筆者自身は、AMラジオはもっともインターネットに「食われにくい」メディアだと考えています(インターネットに食われにくい、といっているだけで将来が磐石だといっているわけではありません。AMラジオはインターネットとは別の、やはり深刻な脅威に直面していると思っています)。
その理由は、AMラジオは、インターネットアクセスが困難な状況で聴取されている比率が高いからです。
統計を見てみると、AMラジオ聴取の典型的なシチュエーションは「自動車の中」「仕事中(屋外を含む)」「自宅の部屋の中」となっています。このうちインターネットにアクセスが容易にできるのは、「自宅の部屋の中」だけです。「自動車の中」もモバイルを使えば可能じゃないか、という声が聞こえてきそうですが、ここでいう「自動車の中」というのは、運転中、営業中ということですからモバイルは難しいでしょう。
また、「アクセススタイル」もかなり違います。
AMラジオは非常に受動性の高いメディアで、能動的なアクションは「電源スイッチを入れる」というのと「局を選択する」の二つしかありません。自動車の中でいえば、ラジオのスイッチを入れてニッポン放送を選んだら、そのまま聴きっぱなしでいいわけです。
ところがインターネットというのは、今のところ非常に高い能動性を求めるメディアです。クリックしたりスクロールしたりしないと、コンテンツがとにかく前に進まない。最近ではインターネットラジオというサービスも出てきましたが、これも立ち上げ時にはかなり手を動かすことが必要になってきます。
つまり、「提供情報」という側面からだけ見れば、確かに代替は可能かもしれませんが、「情報の消費シチュエーション」や「アクセススタイル」を考慮に入れると、AMラジオというのは非常にユニークなメディアで、代替性は思ったほど高くないのではないか、ということなのです。
*本質的な理由
あえて加えれば、筆者自身はこの三つのポイントのさらに上位概念として、「そのメディアに接触している本質的な理由は何か」ということも考えるべきだと思います。
例えば、視聴者がテレビに接触している理由を調査してみると、「情報収集」とか「何となく」といった回答が多いのですが、もう少しその心理を掘り下げてみると「寂しさをまぎらしたい、人とつながっていたい、人と話題を共有していたい」という欲求があります。
となると、そもそも情報とかシチュエーションとかアクセススタイルがどうこういう以前に、そういった気持ち、欲求が他のメディアで解決されてしまったらニーズはなくなってしまうわけです。その点も考察するべきでしょう。
ただ、今回なぜこのポイントをフレームワークに含めなかったかというと、先に挙げた三つのポイントに比べて、分析したから答えが出る、という類のものではないから、ということがあります。メディアが提供している本質的な価値を理解するには、一種のヒラメキとか勘、思考のジャンプが必要だろうと思います。
したがって、あくまで基本考察は前記の三つのポイントで行いながら、日々「本質的な価値は何か」ということを、謙虚に問い続けることになると思います。
(4章以降に続きます。)