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「あの時、あんなことしなければよかった…」と後悔を繰り返す人へ

光文社新書9月刊、枡野俊明先生の
『人生は凸凹だからおもしろい』
が好評発売中です。
ベストセラー『心配事の9割は起こらない』の著者であり、多摩美術大学環境デザイン学科教授、庭園デザイナーとしても世界で活躍される枡野先生の、楽しい人生論です。

□  「足りない」ことを楽しんでみる
□  どうにもならないことは、無頓着でいい
□  死ぬときには、死ねばいい
□  孤独な時間をもつ
といった金言が満載の一冊、「はじめに」を公開します。

はじめに

誰にでも人生について考えることがあるでしょう。

そこでまず頭をめぐるのは、悔いや苦い思いかもしれません。「あのときああしていなかったら、自分の人生はもう少し、ましなものになっていたのに……」「あそこで別の選択をしていたら、人生、もっと充実したに違いないのだが……」。その根底にあるのは、悔いや苦い思いをもたらしている経験が、人生のマイナスになっている、人生の充実を妨げている、人生を不完全なものにしている、という考え方だと思います。

しかし、人生に完全などあるでしょうか。断じて、あり得ないのです。成功もあれば、失敗もある。うれしいこと、楽しいこともあれば、つらいこと、悲しいこともある。そんな「凸(順境)凹(逆境)」が繰り返されるのが人生ですし、それらを一切合切受けとめていくなかに、生きている実感もあるのだ、とわたしは考えています。

もっといえば、「凹」の経験、すなわち、悲しみや悔しさ、つらさや苦しさをともなう経験が、人間としての幅を広げることにつながっていく、人間として成長するうえでの糧になる、と思っています。「凹」を経験することはとても大切なことです。そして、「凹」の経験を活かすことで、人生はより豊かに、潤いや彩りがあるものになっていくのです。

その意味でいえば、現在の日本は、いや、世界全体はきわめて深刻な「凹」の状況にあるといえるでしょう。

それをもたらしているのは、いうまでもなく、「新型コロナウイルス」のパンデミックです。事態がどのように終息していくのか、まだまだ先が見通せないというのが現状。いずれにしても、長期戦になるのは必定です。

このコロナ禍は、一義的には感染症の問題ですが、もっと大きな視点で見ると、人類に生き方や価値観など、さまざまな重要課題を問うものでもあるという気がするのです。大雑把ないい方になりますが、これまで長きにわたって、物質的に豊かになることが幸福につながる、というところに生き方の軸足が置かれていたと思います。その幸福を求めることに価値観の中心もあったといえるでしょう。

そうした生き方、価値観はたしかに〝豊かさ〟や〝幸福〟をもたらしはしました。しかし、その一方で森林伐採による地球の温暖化やそれにともなう自然災害の多発、あるいはエネルギー政策の中心となった原子力発電所の事故による環境破壊といった負の側面も現出させたのです。

それらを踏まえ、生き方や価値観を見直そうという流れは、世界規模で徐々に高まりつつあったといっていいでしょう。二〇一五年九月に開催された国連サミットでの「SDGs(持続可能な開発目標)」の採択は、その代表例といっていいかもしれません。二〇三〇年の達成を掲げた一七の目標は、社会の在り様や産業構造、人と自然とのかかわり方、人と人とのかかわり方など、そのどれもがそれまでの生き方や価値観を変えることなしには達成できないものである、というのがわたしの印象です。

その流れを今回のコロナ禍が加速させるのは明らかです。「テレワーク」の導入など働き方には変化が起きていますし、「STAY HOME」(家にいよう)の標語のもとに暮らし方もそれまでとは違ったものになっています。現在はコロナ禍を終息させる手立てとしてですが、すでに生き方、価値観は変わってきているのです。

そして、終息後もコロナ禍以前の社会にそのまま戻ることはない、とわたしは考えています。「ビフォア・コロナ」と「アフター・コロナ」で社会は一変する。経済が大きく落ち込むことは必至ですし、そのなかで生き方も価値観も変わり、それを土台とした生活スタイル、働き方も新たなものになるでしょう、教育や医療の現場も新しい在り様を模索しなければならなくなるはずです。

変化は戸惑いや不安をもたらさずにはいません。

たとえば、在宅の時間が増えて家族が顔を合わせることが多くなれば、家族間の対話は増えていくでしょう。それは家族の絆を深めることにつながる反面、ストレスの原因にもなっていきそうです。

それまでとは一変した家族関係のなかで、夫婦間、あるいは、親子間でどのようにコミュニケーションをとっていったらいいかわからない。家族のなかでの自分の立ち位置がなかなか見つからない……。誰もが、少なからず、そんな戸惑いや不安にさらされることになるのではないでしょうか。

枡野俊明(ますのしゅんみょう)
1953年生まれ。曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学環境デザイン学科教授。大学卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本文化に根ざした「禅の庭」を創作する庭園デザイナーとして国内外で活躍。著書に、『心配事の9割は起こらない』(三笠書房)、『傷つきやすい人のための 図太くなれる禅思考』(文響社)、『禅、シンプル生活のすすめ』(知的生きかた文庫)など。

コロナ禍という社会全体を覆った「凹」が終息したあとも、わたしたちはしばらくの間、「凹」の環境、状況を生きなければならなくなるかもしれません。しかし、悲観する必要はどこにもありません。「凹」を試練と捉えればいいのです。試練についてはこんな言葉があります。

「神は乗り越えられない試練は与えない」

いい換えたら、これは「人は乗り越えられる試練しか与えられない」ということになります。コロナ禍は、いえ、どんな試練だって乗り越えられるのです。そのうえで力にも、知恵にもなるのが「禅」である、とわたしは思っています。禅の考え方、ものの見方、ふるまい方には、試練をどう捉え、それをどのように考えたらよいのか、また、そのなかでどう行動していけばよいのか、といったことについて、たくさんの示唆やヒントが隠れています。

試練(苦境、難局、岐路……つまりは「凹」)は怯んだり、怖れたり、避けようとしたりせず、真っ正面から受けとめなさい、と禅は教えます。それが試練に向き合う「妙法」、すなわち、もっともすぐれた方法だとするのです。

そうすることによって、「凹」はすばらしい経験の場になり、成長の糧にもなっていきます。もっといえば、「凹」を楽しむことさえできる。もちろん、人生は「凸凹」ですから、「凹」は必ず「凸(順境)」に転じます。

その「凸」に向き合っていくのは、「凹」を乗り越えることによって、ひとまわり大きくなった自分、一皮剥けた自分だといっていいでしょう。その自分を生きる充実感、心の豊かさ、喜び……はそれまでよりさらに高いレベルのものになるはずです。

本書では、さまざまな視点からあらためて禅の考え方、ものの見方、ふるまい方を見つめ直してみました。

そのなかで確信を強めたのは、どんな環境、状況にあっても、禅は生きるうえでの根本的な指針、拠り所になるということです。

繰り返しになりますが、いまわたしたちはコロナ禍という「凹」に直面しています。

まず、それを、禅の力、知恵でいっしょに乗り越えてまいりましょう。

合 掌

令和二年八月吉日  徳雄山建功寺方丈にて

枡野俊明


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