アメリカの「ドブ板選挙」―米副大統領カマラ・ハリス氏自伝『私たちの真実』より
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アメリカの「ドブ板選挙」―米副大統領カマラ・ハリス氏自伝『私たちの真実』より

光文社新書編集部の三宅です。

皆さんは「ドブ板選挙」という言葉を聞いたことがありますでしょうか? 以下、Wikipediaからの引用です。

かつての選挙活動では、候補者や運動員が有権者に会うために民家を一軒一軒(場合によっては後援者の民家でミニ集会も行う)回った。その際、各家の前に張り巡らされた側溝(ドブ)を塞ぐ板を渡り、家人に会って支持を訴えたことが「ドブ板選挙」の由来である。現在公職選挙法では戸別訪問を禁止しているため、街頭演説等[1]小規模施設での集会や、徒歩で街頭を回り通行人に握手を求める等、選挙区の一人ひとりに直に支持を訴える方法で行われる。(Wikipediaより)

カマラ・ハリスさんの自伝『私たちの真実』を編集しているときに印象的だったことの一つが、サンフランシスコ地方検事選挙に立候補したときの様子です(※アメリカでは、地方検事は選挙で選ばれる)。人が集まるところにひとり幟を立てて、通りすがりの人に声をかけていくのです。

もちろんアメリカでも、有権者ひとりひとりに声をかける「ドブ板」的なパフォーマンスは行われますが、カマラさんの場合、本当にひとりで、大きな後ろ盾もなく、生涯で最初の選挙活動を始めたことが、いまの「女性初、黒人初、アジア系初の米副大統領」という華々しい肩書と釣り合わず、そこが非常に印象的でした。

どんな偉業も、最初の一歩はとても小さいものなのですね。

本記事では、カマラ・ハリスさんの自伝『私たちの真実』より、「ドブ板」的な選挙の様子を、前後編の2回に分けてお届けします。書籍では2章の冒頭にあたる内容です。

この記事では「はじめに」と目次を読むことができます。

『私たちの真実』第二章 正義のための発言者より(前編)

「カマラ、行くわよ。ほら、急がないと遅れてしまうわ」。しびれを切らした母に、「ちょっと待って、ママ」と声をかける(そう、昔もこれからも、私にとって母は「ママ」なのだ)。向かう先はボランティアが集まる選挙事務所。ボランティアをとり仕切るのはいつも母のシャマラで、彼女はぐずぐずするのが嫌いだった。シャマラが口を開いたら、話を聞かなければならないことを知らない人はいなかった。

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地方検事選のキャンペーンは、サンフランシスコの〈ウィメンズ・ビルディング〉でスタートを切った。母(シャマラ)が人々に声をかけている。母はいつも、ボランティアをまとめたり、封筒にのりづけしたり、手が必要とあれば何でも手伝ってくれた。(『私たちの真実』口絵より)

マーケットストリート近くの私のアパートメントから、高層ビルや観光名所が立ち並ぶサンフランシスコのダウンタウンを抜けて、市東南部、黒人が多く住むベイビュー・ハンターズ・ポイントへと車を走らせた。かつてベイビューには、二〇世紀半ばにアメリカの戦艦を建造したハンターズ・ポイント海軍造船所があった。一九四〇年代、安定した職と手頃な価格の住宅に惹かれ、人種隔離の苦しみや不公平からの救いとチャンスを求めて、黒人たちがこぞってその地に移り住んだ。そうした労働者たちは、鋼鉄を曲げ金属板を溶接し、第二次世界大戦でのわが国の勝利に貢献した。

だが、似たような多くのアメリカの地域と同様、ベイビューは戦後の発展から取り残された。造船所が閉鎖されると、あとに続く産業は生まれなかった。古くから建つ美しい家々は板でふさがれ、有毒廃棄物が土や水や空気を汚染し、ドラッグと暴力が街を荒廃させ、長いこと最悪の貧困がはびこっている。犯罪件数がきわめて多く、未解決の事件にも悩まされていた。

多くが何世代にもわたってサンフランシスコに暮らしているベイビューの人々は、彼らが故郷と呼ぶ繫栄する街の豊かさから隔絶されていた―文字どおりの意味でも、比喩的な意味でも。ベイビューはわざわざ訪れるのでないかぎり、市内に住む人でさえ縁がない地域だ。高速道路も走っていなければ、市内を移動するのに通るような場所でもない。実に痛ましいことだが、ベイビューはその向こうの世界の人々には存在していないも同然だった。

私は少しでもその状況を変えたかった。だから選挙事務所をベイビューのど真ん中、サードアベニューとガルベスの角に置いたのだ。

政治コンサルタントは、「正気か」と言った。ボランティアが市内のほかの場所からベイビューに来るわけがないと。しかし、そもそもベイビューのような場所こそが、私を出馬に駆り立てたのだ。立候補したのはダウンタウンにこぎれいなオフィスをかまえるためではない。声の届かない人々の代弁者となり、公共の安全を一部の地域だけでなくすべての地域の人々に約束するためだった。それに、誰もベイビューまで来るはずがないとは思わなかった。実際、私は正しかった。大勢の人たちがやってきたのだ。

アメリカという国全体がそうであるように、サンフランシスコは多様でありながら、人種差別が根強く残っている。「人種のるつぼ」より「寄せ集め」と言ったほうがしっくりくるような街だ。

だが私たちの選挙運動は、コミュニティ全体の豊かな活力を象徴するような人々を引きつけた。チャイナタウン、カストロ通り(訳注/サンフランシスコのゲイタウンとして知られる、LGBTコミュニティの中心地)、パシフィックハイツ(訳注/サンフランシスコの高級住宅地)、ミッション地区(訳注/サンフランシスコで最も古い地区。ヒスパニック系住民が多かったが、近年はIT企業で働く住民が増え、サブカル系のショップやカフェなどが立ち並び活況を呈している)からボランティアや支持者が集まり、その顔ぶれには白人、黒人のほかアジア系、ラテンアメリカ系もいたし、富裕層も労働者も、男性も女性も、老いも若きも、ゲイもストレートもいた。選挙事務所のうしろの壁には、一〇代のグラフィティ・アーティスト・グループの手で巨大な「JUSTICE(正義)」の文字がスプレーでペイントされていた。事務所はボランティアの声でにぎやかだった。有権者に電話している人、テーブルを囲んで封筒詰め作業をしている人、クリップボードを手にとって、私たちが何をしようとしているかを人々に伝えるために、地域の家を一軒一軒訪ねる準備をしている人。

ぎりぎり間に合った。私は事務所で母を降ろした。

「アイロン台はもったの?」と母が聞く。
「もちろん。うしろの席にあるわ」
「そう。愛してるわ」。そう言って母は車のドアを閉めた。

車を出そうとすると、母が呼ぶ声が聞こえた。「カマラ、ガムテープは?」
ガムテープも準備オッケーだ。

私はそこからいちばん近いスーパーマーケットに車を走らせた。土曜の朝、食品売り場が混雑する時間帯だ。駐車場に入り、数少ないスペースを見つけて車を停めると、アイロン台、ガムテープ、そして、車に投げ入れては取り出してを繰り返したために少しくたびれた選挙運動用ののぼりをつかんだ。

公職への立候補に華やかなイメージを抱いている人にはぜひ、アイロン台を抱えて駐車場を大股で歩く私の姿を見てもらいたかった。子どもたちはアイロン台をものめずらしそうに眺めて指をさし、母親たちは早く行きなさいと子どもたちを急かしたものだ。おかしな人とまではいかなかったとしても、私は場違いに見えたのだろう。

とはいえ、アイロン台はスタンディングデスクにうってつけなのだ。それをスーパーの入り口の前、少し横のカート置き場の近くに置くと、「KAMALA HARRIS, A VOICE FOR JUSTICE(カマラ・ハリス 正義のための発言者)」と書かれたのぼりをテープで固定した。選挙運動を始めたばかりのころ、私は友人のアンドレア・デュー・スティールとともに、初めての選挙用チラシ─経歴と主張をまとめた、白黒印刷のシンプルな一枚─を作成した。アンドレアはのちに、全国で選出公職に立候補する女性民主党員の採用・研修を行う組織〈イマージ・アメリカ〉を設立する。

チラシの山をいくつかアイロン台に載せ、隣に有権者登録(訳注/アメリカには全国的な有権者名簿がないため、市民は現在の居住地で登録して有権者の資格を得る必要がある。登録手続きの詳細は州によって異なる)の申請書をはさんだクリップボードを置き、私は仕事に取りかかった。

買い物客がカートを押して自動ドアから出てくる。日差しに目を細め、どこに車を停めたか思い出そうとしながら。次の瞬間、突然声が聞こえてくる。

「こんにちは! カマラ・ハリスと申します。地方検事に立候補しています。ご支援よろしくお願いします」

白状すれば、最初のうちはただ名前を覚えてもらえればそれでいいくらいの気持ちだった。選挙運動開始当初、サンフランシスコ郡でどれくらいの人が私の名前を聞いたことがあるかを知るために、世論調査を行った。答えは予想外の六パーセント。一〇〇人のうち六人が私の名前を耳にしたことがあったわけだ。どう考えても不思議だった。無作為に電話をした人のなかに、たとえば私の母がいたのだろうか。

しかし、だからといって選挙が楽勝だとは思わなかった。私が誰だかさっぱりわからない大多数の人たちに、自分が何者で、どんな考えをもっているかを知ってもらうためには、相当頑張らなければならないことは覚悟していた。

新人候補のなかには知らない人と話すのに抵抗を感じる人もいるだろうが、それも無理はない。通りすがりの人に話しかけたり、バス停で仕事帰りの人たちとコミュニケーションをとろうとしたり、営業中の店に入って経営者と話をしようとするのは簡単なことではない。私も幾度となく、丁重な――ときにはそれほど丁重でない――拒絶を受けた。彼らにしてみれば、私は夕食時に電話をしてくる勧誘業者と変わらなかった。

けれどもたいていの人は温かく受け入れてくれ、日々の生活についてや、家庭内暴力の取り締まり、落ちこぼれそうな子どもたちのためのよりよい選択肢の提供など、家族やコミュニティに関係する問題について、率直に、熱心に話をしてくれた。何年もたったいまでも、私とのそんなバス停でのやりとりを覚えている人に出くわすことがある。

妙な話をするようだが、そのときいちばん思い出されたのが、陪審員に選ばれた人たちだった。検察官として、私は法廷で、陪審義務を果たすよう求められた、コミュニティのあらゆる立場の人たちに、長い時間をかけて語りかけた。私の務めは、数分にわたって彼らに問い、そのときの反応をふまえて、彼らの優先事項やものの見方を把握することだった。選挙運動もそれと似たようなものだ。しかも、選挙運動では話をさえぎろうとする相手方の弁護士はいない。

私は人と話をするのが大好きだった。ショッピングカートの椅子に幼児を乗せて食料品店から出てくる母親と、彼女の生活や悩みや娘のハロウィーンのコスチュームのことなどについて、二〇分も話し込むこともあった。別れる前に、私は彼女の目を見て言った。「あなたの力になれるといいんだけど」。面と向かってそんな言葉をかけてくれた人はいままで一人もいなかった、と言う人が多いのには驚いた。

だからといって、私はそうしたことがもともと得意だったわけではない。たいていは、やるべき職務について話すほうが楽だった。だが有権者が聞きたいのは、政治の話だけではないのだ。彼らは個人的なこと、すなわち私がどんな人物で、どんな人生を送ってきたか、どんな経験が私をつくりあげてきたかを知りたがった。私がどんな人間かを根本的に理解したいと思っていたのだ。ところが私は幼いころ、自分について語ってはいけないとしつけられてきた。そんなことをするのはナルシストだと教えられてきたのだ。くだらないことだと。だから、人々が聞きたがる理由は納得できても、そのことに慣れるのにはしばらく時間がかかった。(後編に続く)



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