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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代は、悲惨なほどの抗争の連続だった|細川重男

光文社新書

『鎌倉幕府と室町幕府』(3月刊)、『幻想の都 鎌倉』(5月刊)に引き続き、2022年の鎌倉本第3弾にして真打、細川重男先生の『鎌倉幕府抗争史』をお届けします。
本書は、源頼朝亡き後、誕生したばかりの鎌倉幕府の内紛と流血の政治史を概観するものです。御家人同士の殺し合いばかりでなく、将軍までもが非業の最期を遂げる時代。その質実剛健のイメージとは裏腹に、なぜ「鎌倉武士」たちは仲間うちで殺し合いを繰り返したのか。北条時政、北条義時、梶原景時、和田義盛、比企能員……御家人同士の抗争劇から浮かび上がる初期の鎌倉幕府の実態と、武士たちのリアルな生き様を、細川先生が活写します。
発売を機に、以下に「序」を公開します。ぜひ「鎌倉殿の13人」と併せてお楽しみいただければ幸いです。

序 殺し合いの時代

 源頼朝みなもとのよりともが死んだ。
 時に正治しょうじ元年(一一九九)正月十三日。五十三歳。

 前年の末、建久けんきゅう九年十二月二十七日、頼朝の家臣である御家人ごけにんの一人、稲毛重成いなげしげなりが亡き愛妻の供養のために相模川に架けた橋が完成し、その落成法会ほうえに臨んだ帰途、おそらくは脳出血によって落馬したのが原因であった(『吾妻鏡あずまかがみ建暦けんりゃく二年二月二十八日条。『尊卑分脈そんぴぶんみゃく』)。
 当時「関東」と呼ばれ今は「鎌倉幕府」と呼ばれている日本最初の本格的武家政権の総帥、御家人たちの主人「鎌倉殿かまくらどの」の地位は、後継者と定められていた十八歳の長男頼家よりいえにただちに引き継がれたから、鎌倉幕府の体制は表面的には変化無かった。
 だが、その特異な個性と卓越した指導力で鎌倉幕府を強力に統制していた頼朝という重石おもしを失った御家人たちは、まもなく鎌倉殿をも巻き込んだ激烈な内部抗争を開始する。抗争は二十年以上にわたって熾烈しれつに戦われる。
 頼朝薨去こうきょ(皇族及び三位以上の人が死去すること)から承久じょうきゅう三年(一二二一)五~六月の承久の乱までの二十三年間を一つの時代と捉えると、この期間に起こった御家人たちの抗争とそれに因する事件は、以下のごとくである(朝廷〈王朝〉の内紛に原因がある場合は、除外。★印は、流血をともなわなかったもの)。

 正治元年(一一九九)
  ❶七月 ★安達景盛あだちかげもり討伐未遂
  ❷十月(~正治二年正月) 梶原景時かじわらかげとき事件

 建仁けんにん元年(一二〇一)
  ❸正月~五月 城長茂じょうながもち京都挙兵・越後城氏の乱
 建仁三年(一二〇三)
  ❹五・六月 阿野全成あのぜんじょう殺害
  ❺九月 比企ひきの乱

 元久げんきゅう元年(一二〇四)
  ❻七月 源頼家殺害
 元久二年(一二〇五)
  ❼六月 畠山はたけやま事件(二俣川ふたまたがわ合戦)
  うるう七月 牧氏まきしの変
  ❾八月 ★宇都宮頼綱うつのみやよりつな討伐未遂

 建保けんぽう元年(一二一三)
  ❿二月 ★泉親平いずみちかひら反乱未遂
  ⓫五月 和田合戦わだかっせん
  ⓬九月 重慶ちょうけい(畠山重忠子)殺害

 建保二年(一二一四)
  ⓭十一月 栄実えいじつ(源頼家子)殺害
 承久元年(一二一九)
  ⓮正月 源実朝さねとも殺害
  ⓯二月 阿野時元ときもと(阿野全成子)殺害

 承久二年(一二二〇)
  ⓰四月 禅暁ぜんぎょう(源頼家子)殺害

 流血を見なかった三件を含めて二十三年間に十六件である。
 治承じしょう四年(一一八〇)五月の以仁王もちひとおうの乱による、いわゆる源平合戦(治承・寿永じゅえいの内乱)開始から正治元年の源頼朝薨去までの十八年余に、頼朝の意思によって殺害された者(合戦による大量死を除く)は三十人を超えるが、奥州合戦おうしゅうかっせん復讐戦ふくしゅうせんである建久けんきゅう元年(一一九〇)の大河兼任おおかわかねとうの乱終結までの十年間は戦乱期であり、また鎌倉殿という頼朝の立場を考慮すると、頼朝薨去後の内部抗争とは性質を異にする。
 むしろ、比較の対象とすべきは、承久の乱以降、元弘げんこう三年(一三三三)五月二十二日の鎌倉幕府滅亡までの内部抗争であろう。それは、以下のごとくである(事件の後の[ ]内は、時の得宗とくそう〈北条氏当主〉)。なお、安貞あんてい元年(一二二七)六月十八日の北条泰時ほうじょうやすとき次男時実ときざね殺害事件など、幕府政治と直接関係の無い事件は除外した。

 元仁げんにん元年(一二二四)
  ❶六月 ★伊賀いが氏の変[泰時]
 天福てんぷく元年(一二三三)
  ❷五月 佐原さはら(三浦)盛連もりつら殺害[泰時]
 寛元かんげん四年(一二四六)
  ❸五~六月 宮騒動みやそうどう時頼ときより
 宝治ほうじ元年(一二四七)
  ❹六月 宝治合戦[時頼]
 建長けんちょう三年(一二五一)
  ❺十二月 了行法師りょうぎょうほっし反乱未遂[時頼]
 文永ぶんえい三年(一二六六)
  ❻七月 ★宗尊むねたか親王京都送還時宗ときむね
 文永九年(一二七二)
  ❼二月 二月騒動にがつそうどう[時宗]
 弘安こうあん七年(一二八四)
  ❽六月五日~十月三日 佐介さすけ(北条)時国ときくに殺害貞時さだとき
  ❾八月 ★佐介(北条)時光配流ときみつはいる[貞時]
 弘安八年(一二八五)
  ❿十一月 霜月騒動しもつきそうどう[貞時]
 永仁えいにん元年(一二九三)
  ⓫四月 平禅門へいぜんもんの乱[貞時]
 嘉元かげん三年(一三〇五)
  ⓬四~五月 嘉元の乱[貞時]
 嘉暦かりゃく元年(一三二六)
  ⓭三月 ★嘉暦の騒動高時たかとき
 元徳げんとく三年(一三三一)
  ⓮八月 元徳の騒動[高時]

 流血を見なかった四件(★印)を含めて、百十二年間に十四件である。
 二十三年間に十六件と百十二年間に十四件。前者の方が多いのである。しかも、流血沙汰だけなら十三件と十件。
 平均をとると、前者が一年半弱に一件、後者が八年に一件である。
 八年に一度は事件が起きているのだから、後者も決して少ないとは言えず、ゆえに鎌倉幕府史は「内紛と内戦の連続」というイメージがある。だが、その中でも前者の時期は突出しており、異様である。
 頼朝薨去から承久の乱までの期間は、内紛・内戦の絶えなかった鎌倉幕府史においても異常な時代であった。私は、この期間における御家人たちの戦いをまとめて、「御家人かん抗争」と呼んでいる。
 しかも、御家人間抗争で殺し合ったのは、十年に及んだ日本史上最初の全国的長期内乱(以仁王の乱~大河兼任の乱)を頼朝のもとで共に戦い、いわば同じ戦場の釜の飯を喰った戦友、頼朝を先頭に「都市鎌倉」という「武士の町」を皆で築いた仲間たちであった。
 たった一人の男の死を契機に、鎌倉幕府は「最も不幸な時代」に突入したのである。

 治承四年十月六日の頼朝の鎌倉入りから数えれば、元弘三年五月二十二日の滅亡まで、鎌倉幕府は百五十三年続いた。
 本書は、鎌倉幕府の歴史において、最も悲惨な「殺し合いの時代」、「御家人間抗争」の時代を描くものである。
 平安・鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士(勇敢な男)」と呼び、他者からもそう呼ばれた。そして勇士たちには「つわものの道」と呼ばれる倫理観、理想とする行動規範があった(『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』巻第二十五「源宛と平良文と合戦せること」「源頼信朝臣、平忠恒を責めたる語」)。卑怯なことはしない、女は殺さない、それが「兵の道」であった(同「平維茂、藤原諸任をちたる語」)。
 では、鎌倉武士、「兵の道」に生きる「勇士」たちの現実は、いかなるものであったろうか。


つづきはぜひ書籍でお楽しみください。第一章は、ドラマ「鎌倉殿の13人」の進行と同じく、頼朝が亡くなったのち、「十三人合議制」が成立するところからになります。

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目次

著者略歴

細川重男(ほそかわしげお)
1962年、東京都生まれ。中世内乱研究会総裁。立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程満期退学。博士(文学)。専門は日本中世政治史。著書に、『鎌倉政権得宗専制論』『鎌倉幕府の滅亡』(ともに吉川弘文館)、『執権 北条氏と鎌倉幕府』(講談社学術文庫)、『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(朝日新書)、『論考 日本中世史 武士たちの行動・武士たちの思想』(文学通信)など多数。

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