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ロードサイドは"地元"になった――「ファスト風土」を改めて考える|三浦展

4月19日(木)発売の光文社新書『再考 ファスト風土化する日本』(三浦展/著)は「郊外論」ブームを巻き起こした2004年のヒット作『ファスト風土化する日本』から19年経った今、日本の郊外を考え直す一冊です。
小説家・建築家・研究者ら13人の視点から「ファスト風土」が当たり前になった社会の実感と、新しい動きを探っています。
刊行に際して、三浦展氏による冒頭部分を掲載いたします。

はじめに

本書は私が20年ほど前に考案した概念である「ファスト風土」について改めて考えてみようというものである。

私が「ファスト風土」という言葉を最初に使ったのは二〇〇一年である(「総郊外化し「ファスト風土」化する日本」『PSIKO』二〇〇一年一月号)。一月号の雑誌に書いているので、思いついたのは二〇〇〇年だろう。「総郊外化」の概念は文化地理学者オギュスタン・ベルク先生が宮城大学退官記念連続講演会(二〇〇〇年九月)に私をお呼びくださったときに先生が話されていたものであり、十二月十二日の「朝日新聞」に私はファスト風土化について論評を載せたので、九月から十一月の間に思いついたのだと推測する。

そして私は、二〇〇四年九月に洋泉社新書yとして『ファスト風土化する日本』を上梓した。大型店の出店規制が事実上解除された近年、日本中の地方のロードサイドに大型商業施設が出店ラッシュとなり、その結果、本来固有の歴史と自然を持っていた地方の風土が、まるでファストフードのように、全国一律の均質なものになってしまっているのではないか、というのが「ファスト風土」の言葉に込めた意味である。いうまでもなく、それは風土の「マクドナルド化 Mcdonaldization」(*)である。

(*) アメリカの社会学者ジョージ・リッツァの造語。社会や生活が極度に合理化し、均質化していく傾向のこと。リッツァ著『マクドナルド化する社会」(正岡寛司監訳、早稲田大学出版部、一九九九)参照のこと。リッツァは『無のグローバル化』の日本語版向け序文で私の『ファスト風土化する日本』に言及している。

同書は新書としては相応の売上げを記録し、特に当時は岩手県に巨大なショッピングモールができたばかりであったために、東北地方で驚異的に売れた。逆に東京ではショッピングモールというものが存在しなかったので、問題意識が伝わらず、最初はあまり売れなかった。だがそういう中でも東京在住者も含めて同書を読んだ読者の多くは、商店街再生、まちづくりに関わる当時20代、30代の私より若い世代だった。

ファスト風土第一世代と第二世代

そのファスト風土について再考しようという企画を思いついたのは、近年、複数の大学からファスト風土論についての講義を依頼されたこと、有名大学の学生がファスト風土論をもとに修士論文を書いていることを知ったこと、リノベーション業界の複数の重要人物からファスト風土論に影響を受けたことや、本書にも寄稿いただいた小説家・山内マリコさんが著書の参考文献に『ファスト風土化する日本』を挙げておられたことなどを知ったからである。

右記の人たちのうち、修士課程学生以外は一九七六年から一九八〇年生まれである。『ファスト風土化する日本』が出た二〇〇四年、続編の『脱ファスト風土宣言』が出た二〇〇六年の時点で20代であり、現在の40代である。子ども時代がバブル時代だった世代であり、商店街の全盛期を知っている。そこで、彼らを仮に「ファスト風土第一世代」と名付けよう。

修士課程学生は一九九八年頃の生まれであろうから、ファスト風土化が現在進行形で急拡大した時代に生まれ育ったと言えるが、このように論文を書くほどファスト風土化に問題意識を持っている若者は、現在は少ないと思われる。現在の一般的な若者はファスト風土を所与の前提として、原風景として育ってきており、ファスト風土に対して強い違和感を持たない人が大多数ではないかと思われるのだ。ファスト風土の対極にある街を「にぎわいがない」「やる気がない」と感じる学生もいるという(第13章)。この世代を「ファスト風土第二世代」と名付けよう。

第二世代はファスト風土を原風景としているので、第二世代の価値観や美意識に対して第一世代はおそらく違和感を感じることがあるのだと思う。その違和感が、第一世代がファスト風土論を改めて考え、私に講義を依頼してくる一因ではないかと私は推理している。

もちろんファスト風土第一世代の中にも、ファスト風土が大好きな人もたくさんいる。そういう人たちから同書はかつてネットで非難された。今で言えば炎上である。

また非難ではないが、単にファスト風土的消費をあっけらかんと肯定する人もいた。たとえば中沢明子『埼玉化する日本』がそれだ。同書はあくまで消費空間としてファスト風土あるいはモールを捉えて、「わたしはそれが好き」と言っているだけであるが、ファスト風土論は現代社会論であり社会デザイン論なので、両者の議論は噛み合わない。

どのような見方、考え方があるにせよ、過去20年から30年の間に進んできたファスト風土化、今や日本の原風景になったとすら言えるファスト風土を、今、改めて考えることは意味のあることだと私は思う。というか、もう一度考えたらどうだと天からお告げがあった感覚だ。

実際、ファスト風土はもはや従来からあった自然的な風土と並ぶ、新しい風土として定着したように思える。私の育った新潟県の実家の近くのコンビニには新潟県産の米が売っていない。その代わり、決して新潟県でつくられたものではない、それどころかどこの国の何をどう加工してできたのかわからない食品が無数に並んでいる。それは全国同じ現象だろう。それが現代日本の風土になってしまったのだ。そういう現実は、単なる楽しい消費空間だからいいでしょ、という態度で肯定するべきものではない。

偉そうに言っている私も、若い頃は無駄な物をたくさん買ったので、中沢氏を非難する気はない。しかしこれ以上無駄な消費を増やすことを肯定する気もない。ファスト風土の肯定は大量生産・大量消費の肯定につながる。SDGsに本気に取り組むなら、今後長期的にはファスト風土的消費は縮小させざるを得ないはずだ。

それにしても東京都心のファスト風土化が止まらない。神宮外苑再開発の図面など、唖然とするほどひどい。あえてひどい絵を描いて議論を盛り上げ、最後には議論を尽くしたから開発させてねという戦略だろうか。やることがないから壊してつくるだけで、良い都市、良い建築なんてつくる気はまるでないことがわかる。かなり絶望的である。

本書の構成

本書の序章はファスト風土化とは何かを読者に簡単に理解していただくために、『脱ファスト風土宣言』の序章の拙稿を簡略化し、少し加筆修正して再録した。

第Ⅰ部は、ファスト風土論再考という観点から比較的、分析的・批評的な原稿をお願いした。私は郊外住宅地研究を続けてきた過程で、一九六〇年代の団地映画、団地小説というものも見たり読んだりしてきたが、ファスト風土もまた日本人の新しい原風景となり、ファスト風土映画、ファスト風土小説、ファスト風土写真などが誕生してきたということだろう(二〇二一年公開の『由宇子の天秤』はまさにファスト風土の下流社会映画とも言うべきものだった)。

単に郊外やニュータウンを舞台にした映画、小説、アニメはこれまでも多数あったが、ファスト風土的な表現はこの10年ほどのことであろう。特に本書企画の一つのきっかけでもある山内マリコさんに原稿を快諾いただいたのは大変うれしいことであった。その他、まちづくり、リノベーション、食、地方論、若者論、ジェンダー論、アニメ論、写真論、映像論など多様な観点から論考を集めた。執筆者の皆様には深くお礼を申し上げたい。皆様には、本当であればもっと多くの字数を費やして本格的に論じてほしかったが、紙幅の都合で果たせなかったのが残念である。

第Ⅱ部は、ファスト風土化に抗する実践に関するものである。
『ファスト風土化する日本』の最終章「社会をデザインする地域」では、異質な人が混在しコミュニケーションすることが都市の魅力であることや、街に個人がコミットすることの重要性を説いている。街をスクラップアンドビルドするのではなく、古い街をリノベーションすることで街に「かけがえない」「記憶が重層的に残って」いくこと、そしてそこでは自分が住んで働くこと、個人店があること、街にいる人材や空き店舗などの資源を活かしてさまざまな活動をすること、歩いて楽しい街であること、つまりは街こそが子どもにとっての人生の学校であるべきことなどが説かれ、最後に、そうしたことを通じて、消費とパラダイスに過ぎないショッピングモールではない本当の街をつくり、その地域の社会問題を解決し、新しい社会・コミュニティをデザインしていくべきだと提案した。いわばスローでスモールでソフトな市民主導の(良き生活のための)まちづくりが、ファストでビッグでハードな企業主導の(金儲けのための)開発への対案として提案されたのである。
こうした主張により、同書はその後リノベーション業界の中心人物となる人々に多く読まれたのであろうと、今回自著を読み直して改めて痛感した。ほぼ20年後の現在、リノベーションがいかに街を再生し、元気にしてきたかを見れば、ファスト風土化一辺倒であるよりもずっと豊かな街ができてきたことは明らかである。

ただし憂慮すべきは、ファスト風土第二世代の特徴は、ヴァーチャル的世代でもあるということだ。子どもの頃からスマホを使いこなし、あらゆる情報をスマホから得て、ショッピングも娯楽もスマホの中で楽しんできた。こうした世代が増えると、リアルな街は本当に要らなくなってしまう。その点については第14章で触れた。

第Ⅲ部は、直近での脱ファスト風土的な開発・まちづくりなどの事例である。これらの事例以外でも既存の拙著何冊かで、私は脱ファスト風土的・「第四の消費」的な事例、つまり「つながり」「シェア」「脱消費社会」などのテーマを実現した事例をたくさん紹介してきた。しかし本書で紹介する事例は、大企業による開発の事例もある。そういうところに、私は日本の未来がようやく開け始めたと感じる。ファスト風土が好きな人も、多くは脱ファスト風土的なまちも好きなはずである。今後はさらに脱ファスト風土的なまちづくりが広がることを望む。

本書編集の過程で山内マリコさんや轡田竜蔵さんの故郷であり、島原万丈さんがファスト風土の典型として原稿で取り上げた富山市を私は訪れた。富山市内を散策するのは初めてのことである。たしかに市内の郊外部には巨大なショッピングモールが複数あり、隣接する市にもある。だが富山ライトレールなど中心市街地活性化策でも有名な中心地は元気であり、一部のアーケードがシャッター通り化してはいるが、最新ブランドのブティックからセンスの良い古着屋や映画館もあり、子どもたちがローラースケートで遊ぶ広場もあって、私は、郊外に行かずに中心地だけで暮らせる富山はとても良い街だなと思った。私の故郷・新潟県上越市高田のように中心市街地の壊滅が進み、郊外に行かないと物が買えない街とは全然違った。私は富山に引っ越そうかなと思ったほどだ。

だが、高田でも古い料亭が隣接する町家を買い取り、リノベーションしてカフェなどをつくり、カフェと料亭の間に広場をつくって街を盛り上げようとしている。そこに期待している。

* * *

私の望む街の姿は「弦楽四重奏のようなコミュニティ」とも言うべきものが複数存在するところかもしれないと思う。これは社会学者・見田宗介さんの「交響するコミューン」のもじりなのだが、交響楽団というよりは弦楽四重奏かジャズカルテットくらいの小ささの関係性、とはいえ排他的ではない、私が過去20年以上言ってきた「共異体」的な関係性なら、誰もがそのたびに異なる「演奏」を、少し下手であっても楽しみながら、どんな地域でも実現できるのではないかと思う。そうした四重奏、いや、やはり個人のアドリブがあってこそ成り立ち、同じミュージシャンが次の日は別のコンボでセッションするジャズカルテットのほうが例としては適切だろう、そういう人間のつながりがいくつも併存する姿がきっと私の望む街の・地域の形なのだろうと思う。

最後になったが、本書の第Ⅲ部で紹介した新しいまちづくりの事例を取材する過程で、拙著を昔から愛読してくださっているという方に何人もお会いし、丁寧に取材対応をしていただいた。時代は明らかに良い方向に変わっていると感じることができ、誠にうれしく思った。この場を借りて感謝を申し上げる。

目次

はじめに
序章 ファスト風土とは何か 三浦 展

第Ⅰ部 考察編 ファスト風土論を再読する
第1章 地元に残れなかった者の、地元愛 山内マリコ
第2章 ファスト風土暮らしの若者論 轡田竜蔵
第3章 8ミリフィルムが捉えた秋田とファスト風土 石山友美
第4章 郊外写真の系譜 ─ ファスト風土はどう視覚化されてきたか 鳥原 学
第5章 風景のリミックス ─ 新海誠とポスト郊外の想像力 畠山宗明
第6章 ファスト風土世代の事件 ─ 悲しみを受け止める街の必要性 三浦 展

第Ⅱ部 実践編 脱・ファスト風土な世界をつくる
第7章 見立てのファスト風土リノベーション 大島芳彦
第8章 ファスト風土から谷中へ 宮崎晃吉
第9章 ファスト風土化する街を駅から耕す 伊藤孝仁
第10章 イタリアから学ぶ脱ファスト風土 陣内秀信
第11章 センシュアス・シティとファスト風土
─ 「食」から考える地方創生 島原万丈
第12章 女性が地方で生きやすくなるために 岸本千佳
第13章 スローでボトムアップなまちづくり ─ 裏原宿・西荻窪・立川 籾山真人
第14章 ヴァーチャル・ファスト風土批判 三浦 展

第Ⅲ部 「第五の消費」のまちづくり
第15章 脱ファスト風土化の新動向 三浦 展
第16章 第五の消費社会5つのS 三浦 展

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